ひらめき生涯一教師、生涯一研究者で頑張りますパンチ


2007年02月21日

■鷲田清一■「待つ」ということ■

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出だしがかっこいい。

「待たなくてよい社会になった。待つことができない社会になった」(p.7)

なるほど〜と思った。現代社会の光と影を見事に言い表しているなあ、と。「待たなくてよい社会になった」っていうのは、すごいポジティブに受け止められる。たしかに、待たなくてよくなったなあと実感できる。鷲田も触れているけど、「携帯」は本当に「待ち」を消滅させてくれた。人をイライラして待つこともなくなったし、約束の時間に遅れて人を待たせることもしなくなった。携帯でちょいと連絡すれば、すぐに情報が相手に伝達されちゃう。

その反動か、僕らは「待つこと」に耐えられなくなった。ちょっとした齟齬で「イライラ」しちゃう。ぐっとこらえる前に別の道を歩き始めちゃう。鷲田は、恋愛での「待ち」に注目する。昔は「ラブレター」があった。ラブレターは、メール以上にタイムラグがある。返事が来るのは一週間後か、二週間後か。。。その間、ラブレターの差出人は何にも手がつけられなくなる。相手からの返事がくるのかどうかも分からない。当てもなく何度も「郵便受け」を眺めに行く。

手紙という媒体は、恋人たちにとってはもどかしいものであった。手紙を書く。最短の時間を計算して、恋人がそれを、食い入るようにか、おざなりにか、読んでいる情景を想像する。想像が心を浮き沈みさせる。そのぶれは時間とともに大きくなる一方だ。かろうじてその揺れをおさめ、寝ついても、日が明けるとすぐに郵便受けに走る・・・


僕は、かろうじて「アナログ世代」を経験しているので、もちろん「ラブレター」を書いた。あの時のじれったさは忘れがたい。ラブレターを書くと、次から次に書きたいことがでてくる。お恥ずかしながら、僕が書いたラブレターはたしか第四編まであったような(苦笑)。もちろん結果は玉砕。返事の手紙をもらうまでに二週間くらいあった。その間の時間といえば、もう極限のとまどいの時間だった。ああいうアナログの恋愛告白って、今の時代にはもうほとんどお目にかからないんだろうな。うちの女学生たちに聞いても、ラブレターを書いた者は皆無だった。

でも、鷲田は、こうした単なる経験論で終わるわけではない。さらに独自の見解を展開していく。

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2007年02月07日

■退屈■色んな退屈がある中で・・・


退屈だなあって感じることは多々ある。でも、その退屈がいったいいかなる退屈なのか?って聴かれると、途方に暮れてしまう。退屈は、感じることがあっても、それが何なのかよくわからない現象なのだ。

退屈は、決して「いい意味」では語られない。なんとか免れたい事態だ。退屈な状況や退屈な時間が好きな人はあんまりいないだろう。そんな退屈について、頑張って論じているのがラース・スヴェンセンというノルウェーの哲学者。新書で翻訳本が出ている。

退屈の小さな哲学
とある書評はこちら

彼は、このとらえどころのない退屈について、かなりつっこんで議論している。ハイデッガーやベンヤミンなど、ドイツ哲学の基礎を踏まえつつ、あらゆる文学作品・哲学書を網羅的にならべて、哲学や文学がこれまでどのように「退屈」を描いてきたかを、僕らに教えてくれている。

とにかく、退屈についての面白い本なので、退屈している人は読んでみてはいかがでしょう。退屈な人生が少しは面白くなる・・かも?

この本の中で、退屈を四つに分類したマルティン・デーレマンの議論が紹介されている。スヴェンセンも彼の分類をモチーフにしている。

@状況の退屈(誰かを待つ、授業中、電車の中etc)
A飽和の退屈(同じ物事をたくさん繰り返すことで生じるもの)
B実存の退屈(魂に中身がなく、世界が空回りする)
C想像の退屈(中身より結果で特徴的。新しいことをするよう自分に強いるとき)

このデーレマンの分析で、@とAは、僕的にもよく分かることだ。@は、誰かを待っているときや、電車で何もすることがなくてボーとしているときや、つまらない授業や講義を聴いてあくびをしているときなどに起こる退屈。実感的にもよく分かる。Aは、音楽とか食べ物とかで分かるかな。いくらいい音楽でも聴きすぎたら飽きてくる。おいしいラーメンも食べすぎてたら、ホント飽きてくる。飽きてくると、つまらなくなり、食べていてもなんとなく虚しくなってきちゃう。

でも、BとCの退屈は、読んでもよく分からん。。Bの退屈って、もう理解不能・・・世界が空回りするような退屈って一体何なんだ?! 魂に中身がなくなっちゃうって。。。いったい。。。スヴェンセンによると、こういう実存の退屈は、@やAの退屈と違って、外からわかるサインが出てこないとのこと。あくびもないし、いらいらするようなポーズもないんだと。。??

「特定の対象のない疲れ果てた憧憬」(ショーペンハウアー)
「物事が突然に生気を失い、しぼんでしまう病気にかかったようなもの」(モラヴィア)
「沈黙せる霧」(ハイデッガー)
「精神の風邪−魂をつかまえてしまった風邪」(ガールボルグ)
「自分も世界も貧しく空虚になる」(アダム・フィリップス)

う〜ん。。。やっぱ、よく分からない。僕自身、これまであんまり退屈なる経験をしたことがないからかな。それとも、うまく逃げられているせいかな? あんまり退屈しない。もちろん@やAの退屈は時折経験する。つまらん本を読んでいる時は、その本を引き裂きたくなる(苦笑)。でも、もわ〜とした退屈はあんまり感じないなあ・・・と。まだ若いのかな? 

こういうもわ〜とした退屈っていつか感じるのかな?? 今のところ、僕には、こういう文学的・実存的・人間学的な退屈はあんまり感じたことがないなあ、と思った。そういう深い退屈って、みんな経験していることなのかな。。。
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2007年02月02日

■ヘルメスについて■ギリシャ神話■解釈学■


解釈学の語源は、ギリシャ神話のヘルメスにある、と言われている。いったいヘルメスとは何ものなんだ?ヘルメスは、解釈学を究めるために、本当に大事な人物なのか? 

そんなわけで、ヘルメスのご紹介。ギリシャ神話でも結構キーパーソンとなる人のようだ。。ドイツ語からの翻訳です。

⇒⇒⇒

ヘルメスは、ギリシャ神話に出てくる神々の伝達者であり、ゼウスとタイタン・アトラスの娘であるマイアの息子であった。ゼウスの特別使用人であり、使者であったヘルメスは、翼のついたサンダルと、翼のついた帽子を授かり、「金色の杖(ケリュケイオン:Κηρύκειον)」を身につけた。この杖は、蛇がまきつけられていて、上部に鳥がついている魔法の杖だ。ヘルメスは、死人の魂をあの世へと連れて行った。ゆえに、ヘルメスは眠りと夢の魔法の力を持っているのだ、と人は信じた。ヘルメスは、また、商売の神であり、商人たちと売人たちの援護者でもあった。ヘルメスは、アスリート(ATHLET:競技者)の神として、スポーツ競技の保護に苦心した。ゆえに、ヘルメスが幸福や健康(Wohlstand)に対して責任を負っている、と考えられた。ヘルメスは、非常に道徳的な性格の持ち主であった一方で、詐欺師でもあり、泥棒でもあった。自分の誕生日の日に、ヘルメスは、太陽の神アポロンである兄の家畜の牛を盗んだのだ。そして、兄のシンパ集団を排除することで、その痕跡(盗んだ形跡)を消し去ったのだ。ヘルメスがアポロンに問い詰められた時、ヘルメスは、自分の盗みを否認した。結局のところ、この兄弟は、ヘルメスがアポロンに自分が新たに発明したリラ(たて琴)を捧げることで、再び和解した。早期のギリシャの芸術では、ヘルメスは、髭男の成人男性として描かれた。 [だが]全盛期のギリシャの芸術の描写においては、ヘルメスは、アスリートの若い男性で、裸で、髭のない男として表現された。

←←←

う〜ん、、、解釈学の語源になっているとはいえ、あまりにもぶっとびすぎているようだ。アスリートの神っていうのには驚いた。。

ま、教養程度に知っておくことは大切かもしれない・・・

おしまい♪
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2007年01月22日

■ヘルメス■ギリシャ神話■解釈学の語源?!

解釈学(Hermeneutik)の語源はギリシャ神話に遡る、と言われている。ヘルメノイティックの語源は、ギリシャ神話に登場しているヘルメスだとも言われている。

神と人間をつなぐという仕事をしていたヘルメス。いったいどんな存在だったのか。ヘルメスについての独文を翻訳してみた。

次項有次項有次項有

ヘルメスは、ギリシャ神話に出てくる神々の伝達者であり、ゼウスとタイタン・アトラスの娘であるマイアの息子であった。ゼウスの特別使用人であり、使者であったヘルメスは、翼のついたサンダルと、翼のついた帽子を授かり、「金色の杖(ケリュケイオン:Κηρκειον)」を身につけた。この杖は、蛇がまきつけられていて、上部に鳥がついている魔法の杖だった。ヘルメスは、死人の魂をあの世へと連れて行った。ゆえに、ヘルメスは眠りと夢の魔法の力を持っているのだ、と人は信じた。ヘルメスは、また、商売の神であり、商人たちと売人たちの援護者でもあった。ヘルメスは、アスリート(ATHLET:競技者)の神として、スポーツ競技の保護に苦心した。ゆえに、ヘルメスが幸福や健康(Wohlstand)に対して責任を負っている、と考えられた。ヘルメスは、非常に道徳的な性格の持ち主であった一方で、詐欺師でもあり、泥棒でもあった。自分の誕生日の日に、ヘルメスは、太陽の神アポロンである兄の家畜の牛を盗んだのだ。そして、兄のシンパ集団を排除することで、その痕跡(盗んだ形跡)を消し去ったのだ。ヘルメスがアポロンに問い詰められた時、ヘルメスは、自分の盗みを否認した。結局のところ、この兄弟は、ヘルメスがアポロンに自分が新たに発明したリラ(たて琴)を捧げることで、再び和解した。早期のギリシャの芸術では、ヘルメスは、髭男の成人男性として描かれた。 [だが]全盛期のギリシャの芸術の描写においては、ヘルメスは、アスリートの若い男性で、裸で、髭のない男として表現された。
"Hermes", Microsoft(R) Encarta(R) 98 Enzyklopädie. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. Alle Rechte vorbehalten.

endendend

この文献を読む限り、ヘルメスが解釈学の語源だとはあんまり思えない。ヘルメスは、単に神話の登場人物の名前。たまたまヘルメノイティックと重なっただけ、と考えたくもなってくる。その根拠は、ヘルメスだけが神の使徒ではないからだ。ギリシャ神話に登場する皆が、神の使徒であるし、神の真なる言葉をわれわれに伝達してくれているからだ。もちろんヘルメスも、解釈者であっただろうけど、彼だけではないはずだ。どうだろう?

真実のところはわからないが、ヘルメスが、死神に近い存在でもあったということは、ちょっとした驚きだった。

(了)
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2006年12月04日

『生命と現実―木村敏との対話』木村敏・檜垣立哉

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精神科医であり、現象学的精神病理学の大御所であり、現在は河合文化教育研究所主任研究員の【木村敏】と新鋭気鋭の哲学者【檜垣立哉】の対談を収録した一冊。木村敏の最新の言動を収めた本で、木村敏の入門書としても有効であるし、また、木村の本音を聴くことのできる貴重な本だ。また、現象学的精神病理学と今日の現代哲学とのせめぎあいを肌で感じることのできる一冊。

これまで数々の彼の本を読んできたが、ここまで木村が【自分の考えや思い】を明確に語った本は初めてだと思う。内容的には、これまでの木村の思索を全体的に振り返りつつ、唯物論一元化の道を突き進む現代の最新精神医学に警告の鐘を鳴らそうとしている。

ここでは今更彼の【あいだ】が何であるかは取り上げない(数時間・数日で理解できるような概念ではない!)。僕の研究関心から言えば、【もの】(ノエマ)を構成する【自己】(ノエシス)の根底となっている【こと】(メタノエシス)が一体どのようなものか、ということだ。意味づけの根拠、可能性の根拠ともいえるかもしれない。何かが生じるためには、それに先立って、そのものが生じる根拠・地平がなければならない。そうした根拠や地平が何か、ということを(精神疾患患者の体験を通じて)彼は問い続けてきた、と僕は解釈している。

この本で気になった言葉を残しておきたい。

こちらへ⇒続きを読む
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2006年11月20日

『儀式は重要である』か?

ドイツの哲学者、H.G.ガダマーが100歳を迎えた頃、シュピーゲルという雑誌で、『儀式は重要である』と言った。

この『儀式は重要である』という言葉は、僕がなかなか理解することのできない一文であり、ずっと心の中で気になりつつある言葉である。

はたして『儀式は重要である』のか??

ガダマーは、20世紀最大級の哲学者。単に「儀式は重要だからやり続けなければならない」と言いたいわけではないはずだ。そうではなく、何か別のことを言おうとしていたのだ。

「儀式」は、言わずもがな、重要だ。また、他方で、「儀式」は、面倒くさいので、やりたがらない傾向も強い。「儀式」は、一方で、遵守しなければならないイベントであり、他方で、形骸化してしまっている。

今、われわれは「儀式」をどう考えたらいいのか。

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2006年07月06日

◆アルクマイオンの思想◆

アルクマイオンという哲学者を知っている人はどれだけいるだろう? 僕は、ガダマーを介して、彼を知った。

彼は、いわゆる解剖学の元祖。ピュタゴラスの弟子で、医学と哲学の両方に詳しい古代の学者だ。

彼の言葉はかなり意味深で、ガダマーは好んで彼の引用をしている。

人間どもが死するのは、彼らが初めを終りに結びつけることが出来ぬためである」(DK.24B2[Aristot]Probl.17.3.916.a33)

この言葉は、ガダマーが一番よく引用する箇所だ。この一文は何を言わんとしているのか。なぜ人間は死ぬのかということの解答を出している、と安易に理解してはいけない。むしろ、人間が生きるということの意味をここで読み取ることができる、と、ガダマーは考えている。初めを終りに結びつけることができない、というのは人間の短所ではなく、むしろ人間が人間たる根拠なのだ、と解釈できるのである。例えば、「リセット」という言葉がある。リセットは、まさに終りを始めに置き換えることだ。これが出来るならば、人間の世界はもはや人間の世界ではない。リセットできないという現実こそ、人間のアクチュアリティーなのかもしれない。(ただ、最近は臓器移植の問題があり、終りを初めに結びつける技術を手にしてしまった。またクローンの問題もあり、まさに生命科学の問題へと発展していく。だが、根底において、初めを終りに結び付けているわけではない)

人間が他のものどもから異なっているのは、ただ彼のみが理解するのに、他のものどもが知覚はするが、理解はしないという点においてである」(DK.24B1a.[Theophr.de sensu25)

アルクマイオンは、理解することが人間たる所以である、と言う。否、われわれ人間は、理解することがそもそもできるのである!、と言う。だが、現代社会を生きるわれわれは、「理解できない」と嘆くことが多い。「理解に苦しむ」という場面も多々ある。彼の言う理解とは何なのだろう。また、現代人は、「知覚すること」に必至になってしまってはいないか? 理解するというのは、五感を通じた知覚ではない。これもまた、深い意味を含んでいるように見える。

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2006年06月22日

◆エポケー◆


エポケーという言葉を聞いたことがあるだろうか?

エポケーは、通常、『判断停止』と呼ばれている。

エポケーとは、「自分の素朴で自然な判断」をいったん止めてみることを言う。

「自分の素朴で自然な判断」とは、自分がこれまで生きてきていて、なんの疑問もなく、当たり前で、しかも、それが素朴に「正しい」と思われるような判断である。

これまで何の疑問もなく、何の疑いもない「素朴で自然な判断」は、自分がこれまで生きてきた人生の中で、「最も確かなこと」として、自分自身によって確かめられてきている。「これまでそうだったし、そうであったことで何の不都合も生じていない」という確信があり、この「素朴で自然な判断」は、最も自分にとって「当然」のことなのである。

そういう「素朴で自然な判断」は、時として、自分の「あしかせ」、「妨害物」になることがある。

それは、(自分と隔たりのある)他者が自分に関与する場合だ。

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2006年06月17日

『解釈者』という仕事

世の中には、色んな仕事がある。

物を作る仕事(例えば農林水産業、製造業など)、物を売る仕事(例えばデパート、商店、小売業、保険業など)、知識を作る仕事(主に研究業、法を作る政治家)、知識を提供する仕事(コンサルティング業など)、技術や力(身体力)を提供する仕事(建設業スポーツトレーニングコーチ、武道家など)、この世の中にはありとあらゆる仕事がある。

その中に、「解釈」を行う仕事というのがある。「解釈すること」を、主な職務内容としている仕事である。

例えば、医者だ。医者は、主に、高度な近代医学の知識と技術を用いて、診断と治療を行っている。どの科に所属しているかによって、その内容は変わってくるだろうが、医者である限り、医師は、患者とかかわり、その患者の四肢を見て、その患者の四肢(身体全部)に関して、何らかの解釈を行わなければならない。「病なのか、病でないのか」、これはまさに解釈なのである。

でも、医師と同様、厳しい選択を余儀なくされ、解釈することを主な職務としている人たちがいる。普段は目立たないが、「解釈すること」が時折激しく目立ってくる職業があるexclamation×2exclamation×2グッド(上向き矢印)

プロ野球やサッカーなどスポーツ全般にかかわる「審判」という仕事だ。

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2006年05月16日

『大学での・強は現場では全く役に立たない』?!

僕は、人間関係のからむ学問での、理論と実践の関連性について、研究をしている。教育学や社会福祉学や心理学や法学など、人間の生の現実に関係する学問の意味について、考えている。

今日、とある社会福祉施設に行った。その施設の生活指導員の方と、しばし、対話をしたのだが、そこで、こういう風に、僕に話してくれた。

『わたしたちの施設にも、たくさんの学生が実習に来ます。実習の受け入れに関しては、積極的に受け入れています。いろんな学生がいますよね。「お客様」のような学生もいますし、すごく気合の入った学生もいる。こちらも、それぞれの学生に応じて、対応しています。でも、どんな学生に対しても、実習の前に必ず言うことがあります。それは、大学での勉強は実習や現場では全く役に立たないよ、ということです。いわば、大学の勉強は、「空想」です。どれだけ正しいことを言ったとしても、それは現実じゃない。「空想」です。でも、現場は、実際の場所です。空想通りには行きません。あれこれ考えを思いめぐらすだけではだめで、動かなきゃダメ。実際に動けは、何かが見えてくる。問題点も見えてくる。そんな風に考えているんですよね」

ここで、この生活指導員の方は、理論と実践の激しい対立を前提にしながら、現場の意味について語っている。


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2006年04月06日

『遠さ』と『近さ』(孤独についての続編)

最近、僕自身の学問的な根本関心が見えてきた気がする。

それは、、『近さ』と『遠さ』だ。

学問にしても、人間関係にしても、恋愛にしても、教育にしても、福祉にしても、仕事にしても、いろんな意味で、人間や言語にかかわる実践場面では、この『近さ』と『遠さ』という問題が、とても深刻なような気がしている。

学問的には、「われわれに近いか、われわれに遠いか」という尺度がある。われわれに近い学問は、実用的で、実社会において有効な知識だったりする。また、われわれには遠いけど、事象そのもののすぐ近くにいる学問もある。われわれに遠い(身近ではない)学問は、一部の学生を除いては、ほとんど興味・関心のないものだろう。学生たちの関心をひく学問は、われわれに近い学問だ。これは自然科学だけではなく、社会科学、人文科学にも該当する。職業に結びつく学問や、実社会で役に立つ学問や、資格に有効な学問が、われわれにとって近い学問なのだ。

また、教育でも、「近さ」を求める傾向が強いように思われる。子どもに近づこうとすること、子どもに身近な知識を伝達すること、「老い」や「死」といった遠い未来を考えるのではなく、「入試」や「就職」や「テスト」など、近い未来ばかりを考えてしまうことなど。子どもたちとの遠ざかりは、いけないことかのような雰囲気すらあるようにも思われる。

もろもろの困難を抱える親子(家族)を考えると、近いが故の苦しみ、というのがある。(意識的・無意識的に)家族内の人間と距離が取れずに、にっちもさっちもいかない人はたくさんいる。

恋愛も同じ。近くに住んでいること、二人の距離が近いこと、コミュニケーション伝達技術の発達と共に、恋人との距離はとても近い。メールを一日に何度もできるし、「携帯」のおかげで、いつでもどこでも恋人とのコンタクトは可能となっている。恋愛のパートナーとの(心理的・物理的)距離が遠いことに、満足をおぼえる恋人たちはどれだけいるか? また、夫婦関係においても、近すぎることで生じる弊害というのも、いろいろ想像できる。(遠すぎることによる弊害も当然想定できるが・・)

友達という存在も、やはり「近さ」が求められる。近い人ほど、「親友」と呼ばれる。 「俺たち、なんでも言い合える。何でもだいたい分かる」、というような親友がいることが、あたかも良いことのように語られる。

僕らは、「近さ」に染め上げられた時代に生きているのかもしれない。(特に、日本人は、もともと、「距離」のない文化をもっているのかもしれない・・)

けれど、近いこと、つまり距離・隔たりの欠損がいい、という根拠はそれほど自明ではないように思われる。

これは、今後の(kei自身の)課題だが、「遠さ」にも、色んな意味があるように思うのだ。遠いからこそ、見えてくるものもたくさんある。 なんてことない会話ができる友達/恋人、普段会わないけど、たまに会っても自然な感じの友達、ぎくしゃくした家庭の中に入ってくる第三者(家庭教師とか、下宿人とか)などなど。

この「近さ」と「遠さ」を、孤独の問題と重ねてみると、孤独の意味も変わってくるような気がするのだ。 距離が出てしまうことで、寂しさ、孤独を感じることはある。けれど、僕らは、その一方で、実際に、距離が欲しかったり、距離をおきたかったりもしている。つまり、僕らは、一方で、孤独を恐れているものの、他方で、孤独を求めている、そういうアンビバレントな現実を生きているように思えるのだわーい(嬉しい顔) 

(以上、孤独について の続編でした!)
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2006年01月28日

理解の技法としての解釈学


ガダマー解釈学のエッセンスがぎゅっとつまっている彼自身の一文を訳してみた。

解釈学は「理解の技法」だ、という考え方は別にガダマーオリジナルの意見ではない。が、彼の独特な言い回しは、いろんな含意があって面白い。

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理解の技法は、了解できないことや、心理的・精神的な生活の営みの中で予測のつかないことの理解にかかわっている。人はこの技法を解釈学と呼ぶ。今世紀初頭、人は、この解釈学というギリシャの学術用語をまさに人間理解のためにしようした。その当時、人は、17世紀、18世紀の新しい科学の限界を意識し始め、ゲーテとロマン主義の時代に、一人ひとりの人間が、自分自身であり、また他者でもあるという深い謎を認識した。
 かくして今や、理解の技法は、多くの学問領域で確かに大きな役割を果たしている。すでに、司牧、聖書解釈、法学と法の解釈に対する理解の技法(解釈学)の意義については述べた。理解の技法は、規則の単なる適用では不十分な領域すべてに関与している。つまり、理解の技法は、人間相互の経験生活の全領域に通用するのである。こうした経験生活の領域では、人は、自分自身を了解することができないし、また、もはや他者のように自分自身を理解することもできないのである。このように考えれば、「科学の時代の哲学もまた、規則厳守の限界や科学によって可能となる力能(Machenkönnen)の限界を、認め、評価し始めている」ということは驚くべきことではないのだ。
ニックネーム kei at 12:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 現象学と解釈学

2005年12月31日

−詩人にとって必要なこと−2005年残したい言葉 


Stefan George(シュテファン・ゲオルゲ)は、1868年〜1933年を生きたドイツの詩人。哲学者ガダマーも彼を好んで読んでいて、非常に独特な考え方を持っていた人だった。彼の詩は、いわゆる「抒情詩」で、かなり暗く重たい印象を残す作品が多い。

関連記事(彼の詩が若干紹介されています)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~luz/stefangeorge.htm

そんな彼の芸術観(詩の思想)を確認することで、2005年を締めくくりたい。ブログを一個の芸術と考えてみると、なかなか面白いことが見えてくる。

「あらゆるすべての芸術活動と同様、詩においても、何かを言いたいとか、何かに影響を与えたいといった気持ちに囚われている人は、芸術の前段階(前庭)に入る価値さえない」

「反骨精神を持った人も、人生に御託を並べたり、人生に不満を抱く人も、ごちゃごちゃした考え方を示すに過ぎない。こういう人間は、芸術から追放(破門・ausschliessen)ししておかねばならない」

「詩の価値を決めるのは、意味ではない。(もし意味が詩の価値を決めるなら、それは知恵とか学問知識とかそういうものと何も変わらない) そうではなくて、詩の価値を決めるのは、形式(Form)なのである。つまり、決して表面的ではないもの(うわべでないもの)であって、尺度(韻律)や響きの中にあって人の心を深く響かせるものなのである。こうした<形式>があるかないかで、いつの時代でも、ホンモノの詩人や、職人的詩人は、後追いの詩人もどきや二流の芸術家たちから区別されるのである」

ゲオルゲは、とても厳しい人だと思う。自分のことを詩で歌ったり、人生や社会への不平・不満を歌うような人など破門せよ!っていうのだから。

ブログであっても、詩であっても、どんな芸術であっても、自己主張が重視される。自分の表現というか・・ そういう思いを持っている人の詩は、ゲオルゲに言わせれば、二流のものであり、追放されるべきものなのである。言いたいことを言うのは詩ではない・・・と。。。

「意味」ではなく、「形式」・・・

ふーむ。。。。

さて、、今年もあと6時間☆(もう一度くらい更新するかな?!)

!!良いお年を!!続きを読む
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2005年11月08日

★メッセージ論★?!? from ラファエル・カプーロ


カプーロ(Rafael Capurro)は、1945年ウルグアイのMontevideo出身の哲学者(?)で、「情報学」や「情報倫理学」、そして「実践哲学」を研究している。ガダマーの解釈学の発想を学びつつ、彼独自の一学問領域、『Angeletik(メッセージ論)』を展開している。この概念は、ギリシャ語「angelía」に由来していて、「Botschaft(重要な知らせ・公的メッセージ・message〔英〕)」と同義であるようだ。本人曰く、「天使(Angel)」の起源がこのangeliaらしい。で、さらに言うと、「神の根源に依拠しないメッセージ現象の研究(die Untersuchung des Botschaftsphänomens unabhängig vom göttlichen Ursprung)」であって、さらには、「人間の状況(条件)の限界における(in den Grenzen der condition humaine)メッセージ現象の研究」ということを行うらしい。で、さらにネット時代である現代における「応用解釈学(?!)」っぽいことを試みようとしているようだ。

彼は、今日の学問世界で、ガダマーに学びつつ、『伝達』、『コミュニケーション』、『メッセージ』の新たなパースペクティブを示しており、貴重な存在かもしれないな。

ちなみに、Angeletikは、A Message Theoryとされていて、『一メッセージの理論』と言い換えられるようだ。また、学際的理論(an Interdisciplinary Theory)であり、さらに、『メッセージの現象学』とも言い換え可能なようだ。。ふーむ。

ラファエル・カプーロ氏』について
http://www.capurro.de/index.html

カプーロ氏の論文リスト(電子図書館?!)
http://www.capurro.de/db.htm

カプーロ氏の論文『解釈学の展望−メッセージ論入門』(ドイツ語)
http://www.capurro.de/hermwww.html

カプーロ氏の論文『メッセージ論とは何か』(日本語)
http://homepage2.nifty.com/tempura/messeji-ron.htm#_edn1

彼の研究を行っている竹之内禎さんについて
http://homepage2.nifty.com/tempura/japanese.htm
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2005年08月27日

越中万葉集より

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大伴家持の歌だ!

なかなか叙情的な詩だ!日本人の心を打つ《何か》が潜んでいそうだ!

だが、この詩の言葉の一つを問うことで、一気に突如分からなくなる。《遥か》という言葉だ。

《遥か》という言葉は、そもそも「時間的距離」と「空間的距離」を含む二義的な副詞(形容詞)だ。
とすると、この詩には二つの解釈可能性があることになる。
「遠くにいる舟人の歌が(現在)聞こえているのか?」それとも「遠い昔に聞いた舟人の歌を思い浮かべている」のだろうか?

ふーむ…
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2005年08月23日

解釈学と心理学〔邦訳〕

 解釈学は、解釈(Deuten・Auslegen)や理解(Verstehen)の方法である。解釈学は、根源的には、文字で書かれたテクストに応用されていた(聖書解釈)。〔しかし〕その後、語られる言葉に応用され、ついには、意味を持つものや意味をもつ可能性のあるもの、すべてのシンボル体系に応用されるようになった。人は、テクストに新しい≪読み方≫を持ち込み、≪行間≫を読み、テクストの成立諸条件や著者の生活状況を考慮し、(うわべの表面的な)表現と(その裏に潜んでいる)意味を区別すること(解釈Interpretation)で、矛盾箇所や不明点やその他の破損箇所を理解しようとする。こうした方法の基底には、≪解釈学的循環≫というのがある。すなわち、「テクスト全体との関係においてのみ、個々のものを理解することができるのだが、そのテクスト全体は、個々のものの適切な解釈によってのみ、理解可能なのである」、というのが、≪解釈学的循環≫である。こうした循環は、先行理解(Vorverständnisse)を基にしなければ、打ち破ることができない。人は、取り扱うテーマについて、何らかのことをすでに知っていなければならないのだ。さしあたり、人は、この〔先行理解という〕基盤に基づいて、暫定的な解釈を試み、テクストの助けを借りながら、その解釈を、再び検討し直し、補完し、修正するのである。そして、こうした循環を数回繰り返した後、納得できる一つの了解が得られるのである。

 心理学においては、先の世紀の変わり目に、ディルタイの≪了解心理学≫として、またフロイトの精神分析で言えば、≪深層解釈学≫として、解釈学の効果があった。例えば、患者たちの夢や不安やその他の症状などに関する報告などが、解釈すべきシンボル体系(Symbolsysteme)となった。古典精神分析では、セラピー(実践)と研究(理論)は一つのことだったが、数十年前から、アメリカの心理学では、精神分析的な対話の方法(:解釈学)は、研究手段としてそれぞれ用いられており、その点で、精神分析は、質的研究方法の一つとみなされている。

文献
Leiterhäuser,T.&Volmerg,B(1979). Anleitung zur empirischen Hermeneutik.Frankfurt.M
Mayring.P(1996). Einführung in die qualitative Sozialforschung.3.Aufl.München.
Seiffert,H&Radinitzky,G (Hg).(1989). Handlexikon zur Wissenschaftstheorie.München.
Sommer, J.(1987). Dialogische Forschungsmethoden. München/Weinheim.

邦訳原本
『心理学の根本概念』(1998), S.229,rowohlts enzyklopaedie.
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ニックネーム kei at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 現象学と解釈学

2005年05月10日

古代から学ぶことの意味

 
 最近、僕は「古代(アンティーク)」に魅せられている。古代にさかのぼり、理解しようのない文章を見つけることが楽しくて仕方ない。とりわけ、ギリシャ・ローマ時代の思想を、現代の教育や社会福祉と関連付けつつ、読解することが楽しいのである。

 現代社会の大きな動きに飲み込まれず、体制に取り込まれないためにも、また現代社会・日常生活から距離を取るためにも、古代にさかのぼることは悪いことではないだろう。もし僕が古典を通して古代人の感覚を獲得し得たならば、現代人とは違った感覚で、この現代社会を捉えることができるだろう。また、古典そのものをも、当時の古代人とは別の仕方で、理解することができるだろう。古代人の感覚を学ぶことはできても、古代人になることは不可能だ。ゆえに、当時のテクストを当時の読者と同じ感覚で読むことはできない。古典と現代社会の間には、決して同化し得ない<深い隔たり>が常に存在しているのである。だが、この隔たりを自覚しつつも、確かに、古典を読むことを通じて、自分自身の感覚を磨くことはできるだろう。そして、それと共に、「現代」という感覚をいったん保留し、現代とは別の感覚を学ぶことができるに違いない。
ニックネーム kei at 02:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 現象学と解釈学

2005年02月25日

●クラウス・ヘルトの現象学●

以下で紹介する文章は、クラウス・ヘルトの日本での講演(2001)の原稿の翻訳です★
(ドイツ語学校の今週のテキストなので訳しました・・ふらふら

ここで彼は「現象学」の課題について語っています。これは理論と実践の問題や理性と感情の問題、つまりアタマとココロの問題(二元論的アプローチ)と関連する内容で、友情と愛情の区別問題とも関連しているように思われるのです。感情とみなされる「恋愛」、そして理性とみなされる「友情」、でも、実はそれほど単純なものではなく、恋愛も友情も非常にやっかいな問題なのだと思います。こうした二項対立を反省することが、現象学の大きな課題の一つと言ってもいいでしょう。クラウスヘルトは、意識と本能、理性と感情、理論と実践といった近代の思考パターンに意義を唱えているように思われます。(でも、今回はさわりだけですが)*エピステーメはアタマ(友情)、ドクサはココロ(愛情)と置きかえると面白いかも?!です。

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 現象学にとって、あらゆる伝統的諸文化を「普遍的に」一つにまとめることは、こうした世界状況にふさわしい自己理解へと向かわせるきっかけとなる。これは、ただ歴史的な思慮によってのみ可能となる。というのも、現象学、とりわけ100年前にエドムント・フッサールによって導かれた現象学は、紀元前6世紀から4世紀のギリシャにおいて哲学がその根源の内でまだ統一を形成していた学問の伝統の内へと自らを置いたからである。したがって、私は、以下で、−後期フッサールの言語で表現しつつ−、哲学的・学問的な思想の由来となる初期の「原創立(Urstiftung=根源的成立;原初創立[中])を引き合いに出すことにする。

 世界の主題化不可能性を擁護しながら世界を主題化すること、したがって、主題化することが不可能であるということの端緒的な主題化という不確かさ(疑わしさ)を意識しながら、哲学的−学問的思考の原創立を繰り返す、ということの内に、現象学の本来的で歴史的な課題があると私は考えている。フッサールは、エピステーメとドクサの対立へとさかのぼり、つまりプラトンがヘラクレイトスとパルメニデスという早期ギリシャ思想の精神を結び付ける手段として用いた対概念へとさかのぼることで、現象学のこうした回帰を、「危機書」の歴史的な原創設へと、そして、その言語に対する様式へと導いたのである。フッサールにとっては、一方で、哲学を「エピステーメ」、つまりこのエピステーメの概念の強い意味を持つ「知」として復活させることが問題であった。だが、もう一方で、彼は、次のことを通じて、以上のことを為し遂げようとしていた。すなわち、彼は、ドクサ、つまり革命的に新しい思考様式としてのエピステーメと古くから批判的に区別されていた思考様式を復権させることを通じて、このエピステーメ/知を復活させようとしていたのである。

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ニックネーム kei at 02:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 現象学と解釈学

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