ひらめき生涯一教師、生涯一研究者で頑張りますパンチ


2007年02月06日

もうすぐ産まれる…


昨日の手術前のレントゲン写真と今日撮ったレントゲン写真を並べて,見せてもらった。

昨日の写真に写っていた膀胱前にあった結石は、今回の写真には写っていない。無事、破壊されたみたいだ。

その代わりに,出口近くにうっすらと二つの影が映っていた。どうやら砕けた結石の欠片のようだ。3,4ミリ程の小さな破片だ。

この破片が、もうすぐ出てくるのだ…

この2ヶ月僕を苦しめた結石の破片が…

医者曰く、石が出てくるときも激痛がはしるそうだ(気付かぬうちに出てしまう場合もある・・とか)。まさに産みの苦しみだ…

どんな痛み,苦しみなのだろう・・・

未体験ゾーンへ・・・

もう,何でもきやがれってんだ!!

前に、激痛で夜中に病院行ったときのことを考えたら、何にも怖くないぜ。。。

そして、痛みや苦しみに耐えてこその人生じゃ!!

(といいつつ,かな〜り不安なんだな〜)

明日になるか、来週になるか、数週間後になるか、神のみぞ知る。。。
ニックネーム kei at 12:24| Comment(4) | TrackBack(0) | 病と健康

2007年02月05日

●人生初の手術●病院から♪

今日は朝から病院へ!

昨年から僕を蝕む「結石」。別の病院で検査は受けつつも、決定的な解決になっていない。。。

今日は、再度病院で検査。二つの検査をして、先生の問診。

検査の結果を見ると、やはり「結石」が僕の身体の中に作られていた。けれど、それが「現在の痛み」につながっているわけではない。先生は、最初、「もう石がでちゃったのかな?」と思ったらしい。「もう痛みはない?」と聞かれ、「はい。ないです」と僕は答えた。「あ、そう」と先生。その後、さりげなく、「あ、でも、まだ残尿感がありますね」と言った。先生は、その言葉を聞き逃さなかった。「まだ、残尿感があるの?・・・」、しばしば沈黙。検査結果のフィルムと格闘していた。

そして、しばらくして、

遂に発見、尿管結石!!!

うっすらと影になっている部分があって、それが結石である可能性が高い、と。。。で、再度、すぐにレントゲン検査。

すると、結構大きめの結石がはっきりと確認できた。長さ9ミリ、幅4ミリの石があったのだ。前の病院では見つけられなかったもので,これが痛みの元になっていたようだ。

この結石、放置しておくか,七万円(保険なしだと20万円也)払って手術をするかの選択を迫られた。・・・インフォームド・コンセントはいいんだけど、「どうする?」って聞かれても・・・

ほっておいても,また痛みが出てきて、再発するだけなので,手術することにした。しかも本日・・・

突然,人生初の手術をすることになっちゃった。結構ドキドキ。医療技術の発展のおかげで,痛みなく手術ができるようだ。しかも日帰りで。ただ,石を砕くので,砕かれた石が尿と一緒にでるときに激痛がはしるらしい…

今は手術待ち。朝から何も食べてない。タバコもダメ。余計な水分もダメ。コーヒーもダメ。何もできず,ただ時間が来るのを待っている。『退屈の小さな哲学』という本を読みながら… しかし,七万円は高いなあ… ラーメン100杯分だ。ああ,ラーメンで値段を測ってる自分がイヤになる…

ま,そんなわけで,もうすぐ手術前の点滴だ!今日は,おもいきり『患者』を体験して,味わってみようっと。悲壮感はない。どんな状況にあっても,その人生にイエスと言おう,フランクルのように!!

受けるのは、体外衝撃波結石破砕術(Extracorporeal Shock-wave Lithotripsy:ESWL)というもので、ドイツで開発された装置を用いた手術。ものすごくでっかい機械で、ちょっとびびる。。

IMG_7221.JPG

その後⇒
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ニックネーム kei at 12:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 病と健康

2007年02月04日

◇朝ごはん、しっかり食べてますか?◇


朝ごはん。

僕は、もう何年も規則正しい食生活をしていない。ラーメンの食べすぎはもとより、朝、昼、夜、きちんと三食、決まった時間に食べることがほとんどない。起きる時間も、寝る時間も定まっておらず、不規則な生活習慣が出来上がってしまっている。

そんな不規則な食生活は、僕だけじゃなく、現代人の大きな特徴かもしれない。自炊だけで一ヶ月しっかり食べている人はどれだけいるだろうか。外食やコンビニに頼らず、自炊だけで生活している人はどれだけ残っているのだろう。このことは、子どもにも通じる。

子どもの食生活の乱れは、深刻な問題となっている。それは日本だけではなかった。ドイツでも、子どもの食生活の乱れの問題は深刻になってきているようだ。「Schule」という雑誌の記事を読んだ。以下、翻訳してみたので、ご紹介しよう。

soonsoon

大抵の子どもたちは、しっかり自分で栄養を摂るようになる前に、飢え死にしてしまうかもしれないのだ。子どもたちには、ビタミンや繊維についての書物も、祖母の助言も役に立たない。それどころか、授業で配られた厚生大臣のパンフレットも全く役に立たない。子どもはそんなものがほしいのではない。多くの親がいつ日か自分の過ちを認めるまで、子どもは、涙をこぼしたり、怒りで頬を真っ赤にしたりするのだろう。子どもが完全に痩せこけてしまう前だったら、親たちは、「子どもは、少なくとも自分がおいしいと思うものを食べるべきだ」、と、親しい友人たちの前で自分を正当化するだろう−たとえそれが、栄養学者の考え方と全く相反するものであったとしても、だ。

戦いは早朝に始まる。目覚まし時計が鳴る六時半。このとき、親は、ありあわせのもので朝食の準備をしなければならない。医者らが強調するように、朝食は一日の中で最も重要な食事なのだ。朝食の時間は、夜間に空っぽになったエネルギー貯蔵庫を再び満杯にする時間である。とりわけ、栄養価の高いたんぱく質、筋肉や神経のために必要な基礎物質、炭水化物を摂るとよい。これらは、しんどい学校生活のためのエネルギーの補給源となる。学術研究では、やる気(成果を修めたい気持ち:Leistungsbereitschaft)は、毎日、午前11時に頂点に達する、と言われている。むろん、身体や脳が元気になるために必要な朝食を摂っている、ということが前提条件なのだが・・・。

しかし、現実は違う。30パーセントに達するほどの生徒たちが、胃を空っぽにして学校にやってきている、という調査結果が出たのだ。ヘルシンキ大学の研究チームは、このように朝食を食べない生徒たちは、朝食を食べてくる生徒よりも、後にタバコを吸う頻度が高くなるし、アルコールの摂取量も高くなる、と指摘する。その上さらに、そういう生徒たちは、三つの点で、悪いことを学習してしまう。彼らのような子どもは、しばしば、体重オーバーになる、栄養不足に陥ってしまう、ということが、フロリダ大学、ミネソタ大学が昨年調査した85の研究で明らかにされている。また、朝の事故の頻度さえも、朝食を食べないことによる注意不足に関連している、と、国民健康保険協会(Krankenkasse)は考えている。

一日に摂取する穀類と牛乳と5種の果物・野菜−最近の研究では、7種ほど必要だと言われているほどだ−は、子どもに是非とも食べさせたい。この推奨は、ただ学校で強く要求されるだけではダメで、さらにもっと増大されねばならないのだ。幼少期の栄養摂取量によって、該当する子どもたちが大人になったときの疾病にかかるリスクがどの程度なのかが決まってしまうのだ。例えば、カルシウムの摂取量が、後の骨粗しょう症を引き起こすかどうかを決定する。専門家たちによれば、およそ8歳で、食習慣が強く作られてしまい、その後、その習慣を変えることは非常難しい、というのである。

朝食は、活発な一日を完璧にしてくれるものであるし、肉体的・知的な成果を上げるための備えなのである。だが、多くの子どもたちが、色んな理由で、朝食を取る気持ちを損ねてしまっているのだ。子どもたちの胃袋は機能していない。彼らはナーバスになっている。テストの不安があるからだ。また、別の子どもたちは、黒パン(全麦パン)やフルーツやムースリーを食べさせようとする親の働きかけを、頑なに拒絶する。子どもたちは、疲れすぎていて、噛むことができない。そして、甘いものやパリパリしたものを食べたがる。

言い争いは無用。食べろ、食べないと言い争っても、胃をただ刺激するだけだ。そして、長期にわたる摂食障害をもたらすことになる。子どもをあるがままに受けとめてあげてほしい。しかし、目的を忘れないでほしい。というのも、単なる説教よりも、偏った食習慣を打ち壊すほうがより重要だからだ。その際、概して、いかなるトリックも助けにはならない。

endend

これを読んで、「やばいなあ」と思った。子どもはもちろんだが、大人自身が「朝食を取らない」ということに慣れてしまっている。ちょっと、危機感が湧いてきた。

これから、出来るだけしっかり朝食を取るようにしようっと!!

朝ごはん、しっかり食べてますか?
ニックネーム kei at 13:12| Comment(4) | TrackBack(0) | 病と健康

2007年01月29日

●よい医者とよくない医者●

昨年末から、「結石」なる病に苦しんでいる。結石の痛みは、突然不意に襲ってくる。その痛みは、子を産む痛さに匹敵するとか。。

福祉や教育を専門とする僕にとって、医療はまたとても興味のある分野。近代医学の細分化された各々の専門知は、僕みたいな門外漢には太刀打ちできないが、医者のあり方、医者と患者の関係、医者の知識の患者への適用、看護師と患者の関係、かかわり方、コミュニケーションは、非常に気になるところである(また、そういう本も少なからず出版されている)

今日、先回とは違う病院の泌尿器科に行った。正直なところ、先回の病院の医師は僕的にあまり好きになれなかった。相性もあるのだろうけど、患者として、また観てもらいたいと思う医師ではなかった(決して悪い医師ではないんですが!!!!)

今回の病院の医師は、「こわい先生」とうわさされる先生らしく、どんな先生なのか、結構楽しみであった。「こわい」にも色んな「こわい」があるわけで、どういうこわい先生なのか、ドキドキであった。

泌尿器科は、とにかく尿を採ることからスタートする。尿の検査の後に問診が始まる。採尿した後、待合席で待っていると、正面が診察室の扉で、中の様子がちらちらと見える。先生も当然見えた。外見、たしかに「怖い先生」だった(どう怖かったかはプライバシーもあるので割愛)。

僕の番号が呼ばれた。診察室に入り、先生の顔をじっと見る。40歳くらいだろうか。目がギラギラしていて、肌に艶のある男性医師だった。ちょっとモゴモゴ話す感じの人で、話すスピードもかなり速い。熱心さの伝わってくる人だった。「前の病院はどこ?」、「結石はレントゲンとかで見せてもらった?」、「前の結石がまだ残っているんじゃないか?」と、短い言葉をポンポン話す。こちらが「新しい結石ができたんじゃないでしょうか」と言うと、「そんなもん、検査してみないと分からないよ!」とやや怪訝そうな顔で答える。こっちが何か変なことを言うと、怒り出しそうな雰囲気。。たしかに「こわそうな先生」だ。。

問診の最後に、「結石を根本的に治すにはどうしたらいいんですか?」と質問すると、「そんなもん、ないよ! 水をしっかり飲むことだな」、と、やや笑顔で答えてくれた。さらに、「どういう食事を食べたらいいんですか?」と尋ねると、かなり笑い顔になって、「一般的に、普通の食事をバランスよくすればいいの。あんまり難しいこと考えないで! バランスよく色々食べることだよ」と説明してくれた。

ちょっと強面の先生だったが、どこかシンパシーを感じた。今日の先生も、前の先生同様、「上目線」ではあったが、何かが違ったような感じがした。

本題。よい医者。よい医者を考える上で、「目線」というのがある。「上目線」か、「同じ目線」か。今回の場合、どちらもおもいっきり上目線だった。前回の病院の場合、自分より年下で上目線だったのはちょっとイタかったが、目線が上か同じかどうかは、あんまり重要じゃないように思った。今回も前回も、同じく「上目線」だった。

前回の若い医師と今回のミドルの医師の違いは、「目線」にあるのではなく、「背後にあるもの」だったような気がした。前回の医師は、「おぼっちゃん」という感じで、また、「俺は医者なんだ」っていうようなオーラが前面に出ていた。今回の医師は、「ロックンローラー」っぽい武骨な感じで、「おら、俺の言うことを聴け、このやろ〜」みたいな人だった。「同じ人間同士」っていう雰囲気が出ていた。

この両者の違いは、見た目や表面上に現れるものからでは確認することができないような差異である。こちら側の受け取り方次第のところもあり、非常に「主観的」な違いである。けれど、その「主観」をあえて判断基準にしておきたい。

医師を見る目はまだまだ養われていない。これから先、きっとたくさんの医師とかかわるだろう。よい医者とそうでない医者の区別の仕方に、マニュアルがあるわけではない。今回の結石の場合、医者たちの言うことはどれも共通していた。「水をたくさん飲め」。それだけだった。とすれば、よい医者とよくない医者の見極め方は、「発言内容」ではない、ということになる。また「目線」でもなかった。

一人の人間のまるごと全部、とでも言おうか。あるいは、その人のもつ雰囲気やオーラみたいなものか。そういう目に見えないものが、医者の良し悪しを決めるのかもしれない。それは、医者だけでなく、教師や保育士やソーシャルワーカーなどにも共通していえるのかもしれない。

つまりは、よい医者を見つけられるかどうかは、患者側の「人を見る目」にかかっているのかもしれない・・・・
ニックネーム kei at 15:00| Comment(5) | TrackBack(0) | 病と健康

2007年01月09日

筋肉が骨になる・・・難病指定が待たれる『FOP』

この世の中、いろんな病、障害がある。そして、まだ認定されていない「難病」もたくさんある。その一つに、FOPという病い(まだ難病指定を受けていない)がある。

200万人に1人。完全なるマイノリティーに相当する病いだろう。

FOPについてはこちら

難病(121種)の全リストはこちら

今、テレビでこの病いのことが紹介されていた。僕自身、このFOPについては全く知らなかった。。テレビでは、渡久地優子さんが出演されていて、じかに映像で目にすることができた。

Fibrodysplasis Ossificans Progressiva (FOP):日本語名「進行性骨化繊維増殖症」(?!)

このFOPは、次のように説明されている。

進行性硬化性骨化筋炎( Fibrodysplasis Ossificans Progressiva (FOP) )は、生後 10 年または 20 年の間に発病し、体の筋肉組織や結合組織が骨に変わっていくという非常に稀な遺伝性疾患です。 FOP をもつ子供は、先天性の足の母指奇形(通常は関節の欠如)があることを除けば、生まれたときには他の異常は見られません。その後、痛みを伴う腫瘍様の腫脹が現われます。この腫脹は大きくなったり移動したりすることもあれば、また消えたりすることもあり、そしてこの“骨化した筋肉組織や結合組織“のため徐々に体の動きが奪われていきます。 FOP の症状は進行性であり、もしくは外傷を受けることによってその進行が早まることもあります。これまでのところ、世界中で約 400 例の FOP 症例が確認されています。


引用元

体中の筋肉が、骨化していく、というのだ。。。

僕らの身体は、骨と筋肉、そして脂肪など色々な要素が合わさって、成り立っている。身体を曲げることも、この要素のバランスが取れていて、はじめて可能となるのだ。

けれど、FOPの場合、体が棒のように動かなくなる、というのだ。車椅子も、特注のものでなければならない。。。

このFOPは、まだ400例ほどしか症例が集まっておらず、難病認定されるに至っていない。今後、症例の「数」を集めることが重要になる。。(数を集めなければ認定されないというのもなんともいえないのだが)

この世の中、どうしようもない状況に立たされることや、どうにもこうにもならない事態に陥ることは、不可避であろう。もちろん、医療技術の発展も重要だ。だけど、治る病であれ、治らない病であれ、われわれは、命ある限り、生きなければならないし、善く生きることはできよう。どんな障害を持とうと、どんな病に臥しようと、絶望せず、明日をめざして生きることはできる(可能性は有している)。フランクルが「夜と霧」で示しているように。。

「それでも人生にイエスという」

自分だって、いつ、どうなるかなんて分からない。常に、今をしっかり生きたいと思う・・・
ニックネーム kei at 22:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年12月21日

◆Dr.keiの「一日禁煙」ドキュメント◆

今日一日、遊びで、『一日禁煙』をしてみることにした。

なぜ禁煙?と聴くことなかれ(といいつつ語るkei)。理由は「なんとなく」だ。来年から止めたいとふと思った。じゃあ、本当に止められるのか?止める時にどんな辛さを味わうのか? 実験してみようとふと思っただけだ。

どこまで耐えられるのか?

いらいらはどの程度なのか。どの程度追いつめられるのか。

自分の体を使った人体実験と内省記述をやってみよう。「タバコはやめられない」と思っていたのだが、本当に止められないのか。

とりあえず、どこまでディープに苦しむのか。。。

今日一日の自分の状況を記述していこうと思う。

お?ドキュメンタリー??

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ニックネーム kei at 09:00| Comment(9) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年12月11日

悪意ある悪戯から学んだこと

今日、超ムカついたことがありました。ホントにクソ腹がたちました。

お昼ごろ、一本の電話が僕の携帯に入りました。僕はそれに気付きませんでした。僕が気付いたのはそれから数分後。着信をみたら「留守番電話」に何か入っているようなので、聴いてみたら、、、

何が入っていたと思います??

『あの、お父様(おとうとさま?)が亡くなられました。ご連絡ください。失礼します』

と入っていたのだ。誰からの電話なのか分からない。携帯のディスプレーでは「非通知」となっていた。低い声で。警察か? 誰だ??

僕は顔面蒼白、喧々諤々となって、胸がドキドキしてきた。「え?何?なんで?」 父が亡くなった?? どうしていいか分からずパニックになってしまった。ええ??

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ニックネーム kei at 01:20| Comment(3) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年12月07日

【鯨飲馬食】にご用心!


今年ももうすぐ終わり!

今年は、いつの年にも増してラーメンを食べた。食べに食べて、400杯に達した。

11月暮れに体を壊したせいで、記録はこの先伸び悩みそうだが、十分食べた気がする。これだけ食べることはもうないだろう。もっと一杯一杯を味わおうと思う。

そこで、格言。

【鯨飲馬食(げいいんばしょく)】

これは、「たくさん食べてたくさん飲むこと」を意味している言葉だ。

今年は、ラーメンを食べに食べて、スープを飲みに飲んだ。

それはそれですごく楽しかったけれど、こうした生活が後の苦しい病に結びつくことを知った、身をもって。

これからは、鯨飲馬食をやめて、ほどよく食べ歩くラーメンフリークになろうと思う。

ラーメンだけじゃない。何事もセルフコントロールをしつつ、鯨飲馬食をひかえて、つつましく生きよう。10年後、20年後に泣かないために、今からしっかり自己コントロールできておかないと!

でも、たばこもお酒もラーメンもやめられないなあ〜〜

こまったお人だ。。。
ニックネーム kei at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年11月23日

【ラーメン行脚もこれまでか・・・】塩分と油分の恐怖


昨日、僕を襲った【尿管結石】、恐ろしいほどの激痛。。。

今朝も、この激痛はやってきた。けれど、昨日の経験が生きているのか、それほど辛くない。「痛みは生存の証」と思っている僕としては、「来るなら来い」と、やや戦闘体勢。。。

今日は、兎にも角にも、大きな総合病院に行って、詳しく検査しなければならない。いったい自分の身体に何が起こっているのか?!

担当の医師は、僕と同い年。かなりかっこよかった(苦笑)。検査の最中、「う〜ん、う〜ん」と唸る。その唸り声で、ドキドキしてくる。そして、医師が「ねえ、今、体重何キロくらいなの?」と聴いてくる。なんとストレートな質問を・・ 僕が「××kg」と言うと、「うわ〜 ホント?! 僕なんて同じくらいの身長で55キロだよ」と言い出す。しるか、ボケ!と思いつつも、黙るkei。僕が、ぼそっと「ラーメンの食べ過ぎかなあ」と言うと、興味深そうに、「どれくらい食べるの?」と聴いてきやがる。「今年で400杯弱かな?」と答えると、「うわ〜〜〜、そりゃまずいよ。死んじゃうよ。。腎臓にとって塩分と油は最大の敵だからね」、と説明する。どうやら、今回の【尿管結石】は、ラーメンの異常な食べ過ぎと関連があるようだ。。。

「結石は、『生活習慣病』だよ。まだ若いからいいけど、これから先どうするの? 人工透析とかになるとたいへんだよ。海外旅行も行けないよ。週に三日、病院に来なくちゃいけなくなるよ。塩分と油分はとにかく控えよう。ラーメンも・・・週に一度にしてよ。週に一度でも多いんだけど。。手遅れになったら本当にたいへんだよ」

医師は、超マジな顔で、ぽつぽつと語りだした。僕は、正直、冷や汗が出てきた。『透析』・・・ 確かにめちゃくちゃたいへんだということは知っている。が、まさか、自分が将来人工透析だなんて・・ 行く末が恐くなってきた。塩分と油分は、中毒性が強い。僕は、今、ラーメン依存症というか、ラーメン中毒なのかもしれない。今、なんとかしなければ、後でたいへんなことになる。まさに、僕に対する「警告」だった。(検査の結果、とりわけ大きな異常は見つからなかった。ただし、「結石」は間違えなさそうだ。再来週に大々的な検査を行う)

今ならまだ間に合う。今後どうするか。ラーメンの探求は続けたい。けれど、今のような食生活は続けられない。今のような食生活をし続けていたら、近い未来、とんでもないしっぺ返しを食らうことになる。かといって、今すぐに「生きがい」のラーメンを断つなんて考えられない。

さあ、どうする、keiよ・・・

思わず発症した【尿管結石】から、ラーメンフリークとしての生存が脅かされるに至った。いったい他のフリークたちはどのようにして、自分の健康を保っているのだろう。。。
ニックネーム kei at 01:08| Comment(9) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年11月21日

【尿管結石】? 耐え難い痛み


朝、目覚めたら、強烈な痛みを感じた。腹部で、わき腹から背中にかけて、ガンガン痛みを感じる。僕は、何かと、腹部に痛みを感じやすいので、またいつものようにストレスからくる心因性の痛みだと解釈した。最近、バタバタと忙しかったので、そういうストレスから痛みが発症していると思った。「もう一眠りすれば治るだろう」、とのんきに考えていた。そして、トイレに行った。

だが、もう一度、ベッドに横になっても、腹部の痛みが強すぎて、寝ていられない。「ぐわ〜〜〜」。痛みが激しすぎて、とてもじゃないけど寝てられない。寝ることもできないのか?? 立っても痛い。イスに座っても痛い。横になっても痛い。しかも、かなり耐え難い痛みだった。

(ところが、マゾなのか何なのか、この耐え難い痛みが、強烈な「生」の体験のように思えて、痛いのに、なんか嬉しいというか・・)

10分ほど痛みを耐えつつ悶えていたのだけど、「これは我慢の限度を越えている」と思い、早速、近所の「内科」に行った。診察券を出してから「診察」までに30分くらい待たなければならない。その間、一人で(かなり奇妙だが)「う〜ん、う〜ん」と唸りながら、待合室で悶えていた。隣のおばちゃんは、怪訝な顔でこっちを見ている。

意識が朦朧としながら、待合所のすみっこで目を閉じて痛みに耐えていた。このとき、気になっていたのは、「いったい自分はどうなっちゃうんだろう?」というわけの分からない不安だった。「この痛みの原因は何だろう?」ともちょっと思ったが、主に、「いったい自分はどうなるのか?」、「死ぬんじゃないか」、「あ、生命保険に入ってなかったな」とか、若干「飛躍した思考」が頭の中をグルグル回った。

目を閉じて、じっと痛みに耐えていたら、少し楽になってきた。痛みがひいてきた。そして、自分の名前が呼ばれる頃には、痛みはかなりひいていた。「あ、また精神的なものだったのか?」とやや及び腰になりながら、ドクターに、痛みの内実を語った。そうしたら、ドクターは、「わき腹?背中?じゃあ、『にょうかんけっせき』の可能性があるなあ」とぽつりと語った。「なぬ?!ニョウカンケッセキ?」、なんじゃそりゃ? そして、「おいおい、それだけで分かっちゃうのかよ?」とも・・

尿検査の結果、「尿管結石」の疑いはかなり強まった。しかし、小さな町医者ではどうにもできないので、大病院でさらに詳しく見てもらうことに。。紹介状も書いてもらった。町医者は、病気を治すだけの十分な装置はなくとも、患者の病気が何なのかをきちんと解釈することができる。一番身近なところにいる「町医者」。彼らは、たしかに専門技術・知識をもった医師ではあるが、それ以前に、僕らの生活の基盤となる身体を守り、解釈してくれる「実践解釈学者」とも言えなくもない。まだ、本当に「ニョウカンケッセキ」かどうかはわからないけど、僕という一人の患者に一つの解釈を投げかけてくれた。

痛みは耐えがたい。だけど、痛みは、僕らの生存そのものを体感させてくれる。「死の予感」を感じさせる。僕は、今日、痛みを感じると共に、普段考えないようなことや経験できないようなことを体験できた気がする。強烈な痛みを感じている最中の思考内容、町医者の意義、なかなか実り多い「尿管結石経験」だった。さて、本当に「尿管結石」なのか? 明日まで分からない・・・

*また、あの「猛烈な痛み」が来るかと思うと不安になる・・・
ニックネーム kei at 23:53| Comment(15) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年11月01日

■【翻訳】騙される消費者■食品の安全性■

出典;FOCUS,Nr.40 2.Oktober 2006 pp.56-57

Einkaufs-Report
Verbraucher wird getäuscht;
騙される消費者

当然ながら、買い物ワゴンを棚に突っ込む人間などいない(自分の買った食品のことをつっ込んで考える人間などいない):ティロ・ボーデ氏(Here)と一緒にスーパーマーケットを訪れると、不安になる。グリーンピースの元リーダーであり、消費者保護-団体Foodwatchの創設者のボーデ氏は言う。「この国の消費者は、アザラシほどの権利も与えられていない」。 この59才の氏は、果物・野菜売り場にあった一皿のスグリの実を高く掲げた:「ここの販売員に殺虫剤がどれくらい使われているかを尋ねてみてください。彼らは、おそらく、良い商品だけを売っている、と答えるでしょう」。 それから、ボーデは、より厳密な食品法の必要性を熱弁し始めた。客にとっては、正当な保障と透明性だけが大切なのだ。「客には、これまで少しの機会もありませんでした」。まずこうした問題がある。

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ニックネーム kei at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年10月30日

もてぷよ@STORY 太っていて何が悪いのか?


『もてぷよ』なる言葉が巷で話題になっている。解釈すれば、『ぷよっとしていてもてる』みたいな感じなのかな?

40代のファッション雑誌『STORY』という本がこの言葉を作り、世に打ち出している。元JJ読者層がターゲット。バブル時代の女性たちが読む雑誌だ。そんなSTORYの編集長がテレビでこんなことを言っていた。

『ぶよは、痩せることを諦めてしまっている人。ぷよは、太っているけど、痩せようと頑張っている人』


たしかに、太ることは健康に良くない。心臓にも脳にも負担がかかる。肢体への負担もでかい。痩せることは健康的にもいいことだ。ぶよはダメだ(keiはぶよかも?痩せる気なし!)。だけど、決して痩せている必要もないのだ。痩せすぎもやはり多くの問題をもつ。ちょっと太っているくらいで十分なのだ。でも、それは健康上の観点から。本雑誌の「もてぷよ」は、もっと人間学的だった。つまり、コンプレックスの部分(ぷよっとしたお腹、たるんだおしりなど)を上手に利用しようという運動なのだ。STORYの編集長は言う。

『ときどき、他人から、自分がコンプレックスに思っているところを誉められたりすることがあるんですよね。え?これっていいことなの?もしかしたら個性なのかもしれない?、と思う人も多いんですよ』


そう、コンプレックスは、自分がネガティブだと思う目立つ箇所のこと。誰も「目が二つあること」で悩みはしない。「目の形」で苦しむのだ。なぜか。人と違うからだ。これは、「コンプレックス」にも「個性」にもなり得るのだ。悲しいかな、人と違うということに人は苦しむのかもしれない。(もし日本人の過半数以上が太ったらどうなるんだろう?太っていることが当たり前になったら??)

ヴィジュアル的なものは、不易流行であり、時代に応じて変化していく。近代社会は、「やせている」ということを美としている。今の女性たちは痩せすぎていると思う。江戸時代の絵画などを見ると、もう少しふくよかな感じがする。

痩せたいと嘆く前に。。。やはり考えておきたい。

『なぜ太っていてはダメなのか?』
(多くの答えは、デパートで着られる服がない、というものかな?)
健康問題(太っていると身体に悪い)と供給問題(太っている人用の服がない)以外に理由はあるのだろうか? 結局はもてたい、ということになってしまうのか??(なんとなく、という意見もあるだろう)

もっと詳しく知りたい人はこちら!
ニックネーム kei at 13:15| Comment(6) | TrackBack(1) | 病と健康

2006年10月04日

30時間起き続けると抑うつ状態になる?!


今日は、とてもキツイ一日。

昨日、チューリッヒ、7時に起きた(日本時間昨日の14時)。

それから、ずーと起きている(途中数十分間飛行機の中でうとうと寝たが・・・)

今、チューリッヒは、12時くらい(日本時間は19時)。

昨日の朝7時から今日の正午まで置き続けている、ということになる。

今日は、ひたすらなんだか憂鬱で、厭世観たっぷりだった。

なんか、まわりすべてが意味なく思えた。見えた。

眠気はとっくに通り過ぎた、が、なんかぼーーーーっとしている。

で、なんか、胸の奥底がいやな気分になっていて、まわりすべてが空々しく見える。悲観的にしか考えられない。ネガティブ、ペッシミスティックな感覚。

寝りゃいいんだろうけど、頭は冴えている。でも、ボーっとしている。

30時間でこれだ。3,4日寝られない人もいる。いったいどうなるんだろう?

今の僕でももうフラフラ。60時間起きつづけるとどうなっちゃうんだろう?

もう、精神的にフラフラなので、寝ることにしましょう。

明日は朝一番で講義なのです・・・(大汗)
ニックネーム kei at 19:13| Comment(7) | TrackBack(1) | 病と健康

2006年09月03日

『マニア』という病い■マニアの解釈学

日常会話で、よく「僕は・・・マニアだ」という発言を聴く。このブログを見てくれている人の中にも、Kei=ラーメンマニア、ヴィジュアル系マニア、ドイツ語マニアだ、と理解してくれる人もいる。

じゃあ、マニアって何だ?ということが疑問として残る。僕は果たしてマニアの名にふさわしい人物なのか。「マニア」(mania, manie)は、医学用語では『躁病』、日常語では、『〜狂』、『熱狂的に何かに執り付かれている人』という意味である。ドイツ語を見ても、同じような語感である。

また、似た言葉で、「フリーク」という言葉がある。freakという英語の場合、「・・・狂」、「異常なほど何かに狂ったようにはまる人」と解釈することができる。フリークも、マニアも、同じように、『何かしらの対象に対して、熱狂的・狂ったようにのめりこんでしまう人』という意味になる。

ここまでが、マニアの言葉の辞書的な理解。けれど、これだけだったら、趣味人とか娯楽人とあまり変わらなくなってしまう。マニアはやはり『病的性』が入らなければならない。『何かしらの対象に対して、病的に、熱狂する人』でなければならない。

さしあたって、僕は、マニアという言葉を次のように理解したい。

≪マニアとは、真の探求者である。目的と行為が一致している。それ自体が自ずと目的となっているような行為者である。しかも、それが病的なほどに狂信的なのである。そういう病的で追求的な存在者こそ、マニアの看板を背負うのに最もふさわしい人物である≫

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ニックネーム kei at 15:32| Comment(13) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年08月26日

【先の見えない暫定的状況に陥るとき】『夜と霧』より


フランクルという実存主義的な心理学者がいる。

彼の名著『夜と霧』は、あまりにも有名ではあるが、それほど彼の文章が吟味されているとは言いがたいようにも思える。

フランクルが残した言葉には、戦後61年経った今もわれわれが学ばなければならないことがたくさん含まれている。

特に、これだけ平和が続いて、戦争や飢餓や貧困や疾病といった究極的な状況にリアリティーを感じない僕ら世代は深刻だ。(書いている僕自身、戦争の悲惨さやむごさをリアルに実感することができていない)

僕らは先(未来・目的)が見えなくなる恐怖をもちあわせていない。逆に、先(未来・目的)が見えすぎていて、無気力に陥っている(のかもしれない)。いずれにせよ、かつての人間がリアルに感じた悲惨な状況を、僕らは思い描くことができない。

そんな中、フランクルは、戦時中の人間(特にナチスに迫害されたユダヤ人)の心理的状況を、失業者の状況と重ね合わせて考えている。失業者、つまり仕事を失った人々の状況なら、僕らもリアルに実感することはできる。仕事を失い、どこにも行くこともできなくなり、なんらかの目的に向かって生きられなくなる状態は、まだ僕らにとってもリアルな状況なのだから。

そんな人間の在り方について論じている部分がある。その部分を翻訳してみた。この文章は、僕がもっとも大好きな部分なので、興味がある人は是非読んでいただきたいと思う。

フランクルの文章はこちら⇒続きを読む
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2006年08月22日

◆頑張ろう!30代◆

昨日、朝日新聞のトップ記事で『心の病 30代社員急増』というのがあった。企業で働いていて、心の病に苦しんでいる社員の六割が30代だという。

朝日新聞の記事

今の30代は、本当に不幸な世代だったと思う。就職はとても厳しかった。リストラが叫ばれたのも、今の30代が就職する時期と重なってしまった。バブルがはじけて、不況のどん底で、就職の時期を迎えた。

私事で恐縮だが、僕自身、一つの夢を諦めざるを得なかった。僕は、学生時代、中学校の先生になりたかった。けれど、どうにもこうにも、僕の教員免許で、採用される確率はほぼゼロパーセントだった。『中学教師』の道は完全に絶たれてしまった。

「頑張ってもダメ」

続きはこちら⇒続きを読む
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2006年08月07日

30代の社会人【心の病】増加

(財)社会経済生産性本部(理事長:谷口恒明)が、面白い調査結果を発表した。30代の社会人の間で、【心の病】が増加傾向にある、というのだ。

(財)社会経済生産性本部の調査結果はこちら

このHPでは、この結果を次のようにまとめている。

1. 最近3年間における「心の病」は、6割以上(61.5%)の企業が「増加傾向」と回答。この割合は、過去2回の結果と比較すると一貫して増加している。2002年(48.9%)→2004年(58.2%)→今回2006年(61.5%)
2. 年齢別にみると、「心の病」は30代に集中する傾向がより鮮明になっている。
3. 「心の病」による「1ヶ月以上の休業者」は、74.8%の企業で存在。この割合も、過去2回の結果と比較すると一貫して増加している。2002年(58.5%)→2004年(66.8%)→今回2006年(74.8%)
4. 従業員の健康づくり施策全体の中で、メンタルヘルスに関する対策に力を入れる企業が急増している。2002年(33.3%)→2004年(46.3%)→今回2006年(59.2%)

引用元はこちら

僕を含む30代はかなり複雑だ。30代後半は『バブル世代』に属し、前半は『団塊ジュニア−貧乏クジ世代』に属していて、同じ30代でも、若き日の過ごし方ではかなり違っているからだ。

けれど、共通点もある。それは、『中途半端な個人主義者』という共通点だ。かつてのような『愛社精神』や『企業家族』といった精神は、今の30代にはあまりない。会社組織に対する帰属意識はきわめて低い。会社への忠誠心も、(マスコミなどの)色々な影響もあって、持ってはいけないような気持ちさえある。

とはいえ、欧米人のような『人は人、私は私』という強烈な個人主義も持ち合わせていない。今の学生たちをみていても、強烈な個人主義を持ち合わせている人は皆無である。ましてや、僕らの世代となると、そういう個人主義者は、国外に逃亡するか、自分の人格を自ら破壊し、朱に交われば赤くなる人間に己を改造しなければならなかったことだろう。「個性は大事」と教えられながらも、現実には「個人を生きるな」と突きつけられたのだ。組織に入るときは「個性」が重んじられながらも、「個性的」に働くことはゆるされない。とはいえ、「自己責任」の時代に変わってしまった。僕らは、「どうしたらいい??」と悩む。

こうした背景があって、上述のHPも、「職場でのコミュニケーションの機会が減少した企業においては、心の病の増加した割合が71.8%にのぼっている」と言われているのではないか。個性が重んじられつつも、まだ、個人では生きられないのだ。

僕らは、時代精神として、『中途半端な個人主義』を持ち合わせている。がゆえに、そういう精神をもった真面目な人(ピュアな人)であればあるほど、自分の思想に苦しむことになる。【心の病】は、繊細な人ほど陥りやすいと思う。個人を生きることができないのだ。

続きはこちら⇒続きを読む
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2006年06月20日

『ジロジロ見ないで』


偶然見つけた良質本。

ジロジロ見ないで

サブタイトルは、「〜“普通の顔”を喪った9人の物語〜」だ。文字通り、いろんな事情があって、ジロジロ見られてしまうほど、顔が変形してしまった9人の人たちの言葉を集めた本だ。本人の写真も掲載されている。実に、興味深い本だった。

その中でも、最初に登場する『藤井輝明さん』の文章は、何度も読む価値のあるものだった。

詳しくは、彼自身のHPがあるので、是非ご覧になっていただきたい。

タッチ先生 藤井輝明 official site

彼の文章は、「なまの自分自身をそのまま受け入れる」ということが、どういうことかが、ありありと伝わってくる。自分自身をそのまままるごと引き受けているからこそ、ジロジロみてくる人(他人)に対して、ほほえむことができるのだろう。そういう強さこそ、自分自身をうけいれている証拠なのだろう。

なお、彼のHPでは、彼の講演の映像を見ることができる。少し内容的に「ありきたりさ」も感じてしまうが、今の自分自身を受け入れきれずに悩んでいる人がいたら、是非彼の言葉に耳を傾けてもらいたい、と願う。
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2006年04月25日

◇パチンコという魔物◇

僕はパチンコをあまりやらない。パチンコをするなら、ラーメンを食べるか、ヴィジュアル系の本やCDを買うか、ドイツに行くか、ロッテの応援に行く。でも、パチンコが好きな人にとってみれば、ラーメンを食べるお金があるくらいなら、パチンコに使うし、ドイツに行く金があるなら、パチンコの軍資金にしたい。

通常、パチンコは、数ある趣味・嗜好の一つであり、好きな人もいれば嫌いな人もいる。その限りで、パチンコを他者がどうこういうものではない。僕がラーメンを異常なくらいに食べたり、CDを買い込んだりすることを、他人にガタガタいわれたくはない。

だが、パチンコには、他の趣味・嗜好にはない『強い吸引力』がある、というのだ。つまり、パチンコは、人を骨の髄まで麻痺させるくらいの『魅力』がある、というのだ。そして、さらに「パチンコは人や家族を崩壊させる」とまでいう人もいるのだ(参照)。ん?パチンコってそんなに恐ろしいものなのか??!!

その消極的な表現が『パチンコ依存症』という言葉だ。

パチンコ依存症は、『アディクション』と呼ばれるカテゴリーに属する。『やめたくてもやめられない』、という依存傾向の見られる現象だ。他には、アルコール、薬物、ギャンブル、暴力、リストカット、
ストーキング、セックス、テレビゲームなどのアディクションがある。(ここを参照

パチンコにはまりすぎて、仕事ができないくらいになり、パチンコしたさに借金に手を出し、家庭の家政を顧みず、ただただパチンコだけに没頭する。パチンコだけが人生になってしまう、というのだ。

そんなにパチンコって、魅力があるのか?? パチンコってどこがそんなに人をひきつけてしまうんだろう?? パチンコをせずにいられない人はパチンコのどの瞬間に取り付かれるんだろう? どんどん疑問が浮かんできた。

「パチンコをするな」とか、「パチンコ依存症だから仕方ない」とか、「病気なんだ」とか、そういう決まり文句がある。どの言葉も、「パチンコはいけない。やめなさい」という価値を前提としている。こういう判断は、日常的判断であり、通俗的判断としては妥当性を得ている。だが、ここで反省的思考を働かせて、「そもそも、パチンコとは何なのか?パチンコの魅力(あるいは魔力)はどこにあるのか?」という問いを立ててみた。

そして、今日、さっそくパチンコなるものをやってみた。(パチンコ大好きの友人の協力を得て、店内を案内してもらい、やり方も説明してくれた!ありがとう!!)

続き⇒続きを読む
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2006年04月03日

孤独について

最近、『孤独』を感じる足

じゃあ、『孤独』って何?って問われると、何が孤独か分からない。けれど、孤独のようなものを感じる。

僕は、孤独を感じている。けれど、誰からもはぶられていないし、無視されているわけでもない。とりあえず仕事もあるし、自分なりに頑張ってる。周りにいるたくさんの人の愛情や友情もひしひしと感じる。職業上、色んな人との交流もあるし、かわいいかわいい学生たちもたくさんいる。このブログを通じて出会った素晴らしい人々、ラーメンやビジュアル系やドイツを通じた友人もたくさんいる。

それなのに、最近、なんか『孤独』としかいいようがない気分になる。何なんだろう?

「孤独」を辞書で調べると、

「頼りになる人や心の通じあう人がなく、ひとりぼっちで、さびしい・こと(さま)」

と、書いてある。(HERE)

う〜ん、、 そういうんじゃないんだよなあ。。「人」はいるんだよなあ・・

英語だと、solitude(孤独状態、独居、隔絶状態、僻地)、loneliness(孤独)、isolation(孤立)などある。lonelinessのloneは、aloneのaが抜けたもの。連れのない、ただ一つの、といった形容詞。どれも、「他者から離れてしまった状態」に感じる感情を意味する言葉ばかり。「人」がいないがゆえの孤独じゃないんだよなあ・・

違う 違う・・・そうじゃない・・(鈴木雅之バッド(下向き矢印)

ドイツ語だと、Einsamkeit、Alleinsein、Vereinsamung、Verlassenheit、Absonderung、Isolierung、Zuruckgezogenheitなど、たくさんある。これは期待できそうだ。僕の感じる「孤独らしきもの」の正体をつかめるかも?!


その正体とは⇒続きを読む
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2006年03月17日

■トゥレット症候群■医学の限界と社会の理解


人間世界の中には、僕らの知らない「病」がたくさん存在している。「病」が、「病」として承認されている場合、その病にかかった人は、何の差別も受けることなく、治療に専念することができるし、また、多くの人からの「励まし」を受けることができる。例えば、「インフルエンザ」。これは、社会的に承認されているメジャーな病だ。もちろん、感染する病気なので、「一時的隔離」がなされるが、きちんと薬を飲めば、ほんの数日で回復するし、差別を受けることはない。

けれど、「病」が、「病」として承認されず、無理解のままであったならば、その病気にかかった人は、病気に苦しむのと同時に、社会的な差別・軽蔑の目にさらされることになり、二重の苦しみを抱えることになる。例えば、精神の病がこれにあたる。精神の病に苦しむ患者は、その病気そのものに苦しむと同時に、周囲の目、世間の目に苦しむことになる。医療や福祉の問題は、「症状」や「病気」だけでなく、「社会」や「理解」や「承認」というファクターも含んでいるのだ。

トゥレット(Tourette)症候群」も、また、こうした二重の苦しみの上に立っている。この症状を持つ人は、身体的・心理的な苦しみを抱え、またそれと同時に、社会的・間主観的な苦しみを抱えなければならない。(或る当事者の方は、「人の目が気になって仕方ない」と語っていた)

この「トゥレット症候群」は、「運動チック」と「音声チック」の両方が長期間にわたって(一年以上)続く症状のことだ。チックとは、「不随意的、突発的、急速、反復性、非律動的、常同的な運動あるいは発声」のことをいう(参考)。なお、現在の医学で、完全に治すことは不可能で、薬物投与によって、症状を抑えることは可能だとされている。だいたい7歳くらいに発症するので、「こども関係従事者」は知っておかなければならない症状だと思う。

「運動チック」の特徴は、コプロプラキシア(一般的には奇妙と思われる不随意な動作)、エコプラキシア(他人の動作の不随意的な模倣)、とされている。これらの特徴で重要なのは、「われわれの無理解によって、『奇妙』と思われてしまう」ということだ。「音声チック」も、同様で、不随意的に、意味ない声や意味ある声が出てしまうことで、これも、また、一般の人には、「奇妙」と思われてしまう。「不随意的」なので、自分で意思的に、行為したり、発話したりしているわけではない。「出てしまう」。

トゥレット症候群■詳しくはこちら







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ニックネーム kei at 19:36| Comment(4) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年02月17日

「僕のおじいちゃん」との対話 93歳のココロ

僕の大好きなおじいちゃんと会食した!
(おじいちゃんについては、ブログの左下のプロフィールを御覧下さい!)

image/sehensucht-2006-02-17T21:54:48-1.data

最近、仕事がたくさんあって、なかなか祖父母に会えない。けど、「忙しいから」と言って、会わないでいたら、いざっていう時に絶対後悔する。だから、日々の喧騒の合間を使って、無理にでも会おうと決めた。(会いたい人と会いたいって思うときにこそ、会うべし!って感じで・・)

そんなおじいちゃん、僕が生まれたときからずっとずっと僕を見続けてきてくれていた。そして、明治、大正、昭和を生き抜いてきた。学問好きで、歴史好きで、ドイツ好きで、きっと潜在的におじいちゃんから色んな影響を受けているんだろうな、と思う。

いずれにしても93歳。しかも、心理学を学んできたおじいちゃん。だから、自分のことを語る言葉を持っている。おじいちゃんとの対話は、僕の貴重な学びの場なのだ。

そんなおじいちゃんが語ってくれたこと。

「おじいちゃんね、年とってね、たいへんなことばかりだよ。前は、なんてことなくできていたこともできなくなってきちゃう。例えばね、(インスタント)ラーメンを作るとするでしょ。ラーメンの作り方なんて、わかってるはずでしょ。手順がA,B,C,D,Eとあったとしたらね、A,B,Cといったら、またBに戻っちゃう。あるいは、Cを忘れちゃうんだ。なんだか、恥でね。。恥ずかしいよ、おじいちゃん。」

「たいへんなことばかり」というおじいちゃんの言葉から、老いのこころを少し学ぶことができた気がした。そして、「恥」という言葉。普通にできたことができなくなって、恥ずかしさを覚えたと語るおじいちゃん。僕には、この言葉の真意など分かりえないが、老いることの苦しさの具体的な内実を知ることができた。

それでも、おじいちゃんは、好奇心旺盛。自分の趣味を存分に楽しんでいる。「たいへんなことばかり」と言うけど、その後で、「おじいちゃん、今日楽しかった?」と聞くと、「うん、ありがとうね」とにこりと笑って答えてくれた。そして、僕がラーメンの本を差し出して、「この近くにも、おいしいラーメン屋さんがあるんだよ」と言って、或るラーメン屋さんを紹介すると、「じゃあ、今度行こうか?」と言ってきた。僕が、「おじいちゃん、ラーメン好きなの?」と聞くと、嬉しそうな顔を浮かべて、「うん」と答えてくれた。



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ニックネーム kei at 21:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 病と健康

2006年02月07日

『顔面移植手術』を受けたイザベル・ディノワールさん


社会福祉は、一般に、公的扶助、児童福祉、障害者福祉、高齢者福祉の四つに分類される。

その中に、障害者福祉があり、これは、身体障害、知的障害、精神障害の三つが区分されている。そして、また同時に、先天的なものと後天的なものとが区別されている。

その中で、身体障害は、『手術』という医療行為(治療行為)と密接に関連している。身体障害は、実に様々で、手術によって、あるいはリハビリによって回復可能なものもあれば、一度機能を失うことで、(現時点では)回復できないものもある。

医学や医療行為は、常に進化し続ける分野で、かつては全く考えられなかった技術が当たり前になったりする。

そんな中、イザベル・ディノワールさんというフランス人の女性が、顔面移植手術を行い、成功をおさめたようだ。

詳しい記事はこちら

そしてその背景はこちら

イザベルさんは、昨年五月に、犬に咬まれ、「上下の唇や鼻の一部、あごなどを食いちぎられた」。損傷がひどく、話すことも食べることも困難を極めていた。

そんな中、イザベルさんは、脳死状態に陥った女性の顔面部分を提供してもらえる機会を得た。そして、脳死状態の女性から、皮膚や皮下組織、顔面の微細な筋肉、血管などを採取し、イザベルさんに移植した、というのだ。

まだ、完全回復ではなく、まだ再手術をしなければならないようだが、話すことは可能になったようだ。

もし移植ができなかったら・・・

彼女は、話すことも食べることもできない。とすると、「身体障害」を背負い、看護・介護を受けて生活しなければならなかっただろう。しかも、女性の顔面ということもあり、精神的な苦痛も相当なものだっただろう。通常ならば、あごと唇を失った場合、ノーマルな状態で食事を取ることはたいへん難しい。

身体障害と医療技術は紙一重なのかもしれない。


あと、顔面手術が行き過ぎたら、、、

顔面そのものの移植なんていうのも実現してしまうのかもしれない。

「自分の顔は嫌だから、あの人の顔と取り替えて・・」

ちょっと怖くなる・・・
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2006年01月23日

病気が治って分かったこと−ブログの人間関係−


先週末、土日に熱でDownしたKei。

そして、ちょっと元気になって、ブログの更新。

そしたら、有り難いことに、4人の方のコメントが届けられた。とても嬉しかった。

ありがとうございますわーい(嬉しい顔)わーい(嬉しい顔)わーい(嬉しい顔)

トッシーくん、ありがとうございます。

Shocola様、ありがとうございます。

ゆき様 ありがとうございます。

坂もっちゃん ありがとうございます。

(Shocola様とゆき様に関してはリンクしてあります!どちらもかなり綺麗でこだわっています。どちらのブログも正直おなかがへります・・ そして色んなカルチャーを見せてくれます)

ブログでの人間関係も全然すてたもんじゃない、というか、ブログの人間関係って、日常の人間関係とは違っていても、質的に付加的なものなんかじゃないんだって思った。

辛いとき、苦しいときに心配してもらえるコメントをもらうと、ホントに励まされる。僕はとても励まされた気がした。

日々つきあう日常の友達だって大切。だけど、ブログで出会う人間関係だって勇気をもらえるし、大切な言葉をかけてもらえる。いいブログを作ろうと頑張っていれば、いいブログを作っている人とつながれる。

いつもコメントをくれる ぽむ様のブログ や、昔からの友人の 錫さんのブログ もとても素晴らしいです。

今日は、あらためて、ブログの人間関係の良さっていうのを実感しました。

こういうあったかさもあるんですね〜〜〜〜わーい(嬉しい顔)わーい(嬉しい顔)ひらめき
ニックネーム kei at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 病と健康

2005年12月19日

煙草は、吸うのが悪い?売るのが悪い?


今年12月のJRダイア改正で、千葉方面のすべての特急が、全車両で禁煙になった。

そして、また煙草の値段が上がることも決定した。また、街中での喫煙歩行(くわえ煙草)もどんどん排除されている。煙草の取り締まりは、エスカレートするばかり。

たしかに、健康を考えれば良いことだろう。
(医学的にも、煙草の害は確実に言えるそうだ)

けれど・・・

煙草は街中で普通に売っている。販売機の数も膨大だ。手軽に買える。

だから、思う。それだけ禁止にするなら、いっそ煙草なんて売らなければ良いのに・・

「煙草は、自分の意思で止められる」

そういう声をよく聞く。そして、煙草を止めた人の体験談が語られる。たしかに止めた人はすごいと思う。でも、体験談は、当の当事者にとっては、他人の一経験にすぎない。

やっぱ、僕は止められない。

意識的には「止めたい」とは思う。頭では、「体に悪い」って十分に分かっているから。そりゃ、止められるものなら止めたい。お金だってかかるんだから。毎日300円、一ヶ月で9300円。一年で、11万1600円。十年煙草を吸えば、111万6000円。車一台買えてしまう。煙草を止めれば、一年に一回ドイツにだって行ける。

でも、やっぱり止められない。身近にあるんだもの・・・売っているんだもの・・・

たまに、妄想的に考える。

「もし煙草がなくなっちゃったら・・」

そう。売ってなければ買わない。買えない。そしたら、諦めもつくってわけだ。

煙草は、吸う人が悪いのか? 
それとも、売る人が悪いのか? 

難しい問いだもうやだ〜(悲しい顔)もうやだ〜(悲しい顔)

JTオフィシャルHP
ニックネーム kei at 23:24| Comment(9) | TrackBack(0) | 病と健康

2005年11月14日

一寸先は霧…

image/sehensucht-2005-11-14T22:09:28-1.jpg

人生は難しい…

一寸先は霧の中…

前に進むも人生

立ち止まるも人生

立ち戻るも人生

でも・・

いつか、必ず、人は、霧の中へ向かう

どこに向かうかもわからづに・・・
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2005年09月11日

健康の一般的な考え方

広辞苑だと、健康は、「身体に悪いところがなく心身がすこやかなこと。達者。丈夫。壮健。また、病気の有無に関する、体の状態」となっている。

そして、分解すると、「健」は、「人が堂々と立っている」という意味で、「康」が、「稲がよく実っている象形文字で、安らかである」という意味を持っていることが分かる。解釈すれば、健康は、「稲のようによく実り、安らかで、堂々と立つことのできる状態」ということになるだろう。これは示唆的だ。

また、Healthは、"the general condition of your body, and how healty you are"とされている。

さらに、WHO(World Health Organization=世界保健機関)は、「健康」をこう定義している。

「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会福祉の(社会的に完全な良好な)状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」

そして、続いて、

「到達しうる最高基準の健康を享有することは、人種、宗教、政治的信念又は経済的もしくは社会条件の差別なしに万人の有する基本的権利の一つである」

と、している。

やはり、健康は、捉えがたい言葉だ・・・ちっ(怒った顔)
ニックネーム kei at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 病と健康

2005年08月25日

■楽しみについて語るカント■


 本ブログのサブタイトルは、『きっと誰もが楽しく生きられる・・はず』である。keiの根本的な研究課題は、「楽しみ」である。人間は、辛かったり、苦しかったり、迷ったり、不安になったり、路頭に迷ったり、行き場をなくしたり、目の前が真っ暗になったり、明日が見えなくなったり、絶望したり、虚無に襲われたり、と、様々な『悲しみ』に直面する。でも、人間は、それを乗り越えていくことが可能な存在でもある。どうしたら、笑えるんだろう? どうしたら、悲しみをこらえ、笑顔になれるのだろう。単なる馬鹿笑いじゃなく、悲しみを含めた笑顔ってどんなのだろう。あるいは、悲しみを超えた平安ってどんなのだろう。これが、ボクの最大の問いだ。この疑問に満足のいく解答はまだ得られていない。そんな中、カントの次の一文は、なかなか興味深い。(kei訳なので、微妙に変かもしれませんが、ご勘弁をふらふら

次項有次項有次項有

 これまで何度も述べてきたが、「判断することだけで満足させてくれるもの」と「(感覚的に満足させてくれるような)楽しませてくれるもの」は、本質的に、違うものなのである。後者の「楽しませてくれるもの(Vergnügung)」は、前者の「判断することだけで満足させてくれるもの」とは違って、すべての人に要求することができるようなものではない。「楽しませてくれるもの」は、(たとえその原因が未だ理念の中にあるにせよ、)いつでも、人間の生活全体を高めてくれる感情の中にあり、肉体的に健全であるという感情、つまり健康(Gesundheit)という感情の中にあるように思われる。このように考える限り、「すべての楽しみは根本的に肉体的な感覚なのだ」と称したエピクロスは、おそらく、正しいだろう。しかし、その「楽しみ」の中に、「知的なもの」や、それだけでなく「実践的(道徳的)に満足させてくれるもの」さえも、数え入れてしまった点で、エピクロス自身、誤解してしまっただけなのだ。この「知的なもの」と「楽しませてくれるもの」の違いを念頭におけば、次のような問いを説明することができるだろう。すなわち、「楽しみを感じる人に、不満までも与えてしまうような楽しみはどのようなものか(例えば、自分を愛してくれているがケチな父親から受け取る相続財産に対して抱く、貧しいが思慮深いような人の喜びなど)」、あるいは、「悲しいにもかかわらず、それに苦しむ人に満足を与えてしまう深い悲しみはどのようなものか(例えば、業績のある自分の夫の死に対して抱く寡婦の悲しみなど)」、あるいは、「楽しくて、その上さらに満足も与えてくれるような楽しみはどのようなものか(例えば、われわれが行う諸学問に対する楽しみなど)」、あるいは「悲しいにもかかわらず、さらにそれに加えて、不満までも与えてしまうような悲しみはどのようなものか(例えば、憎しみや嫉妬や復讐心など)」、といった問いに答えることができるだろう。ここで言う「満足」や「不満」というのは、「理性」に基づいており、「承認」や「否認」と同一のものである。しかし、「楽しみ」と「悲しみ」は、ただ「感情」にのみ基づき得るものであり、(たとえいかなる理由があろうとも)可能な健全さと不健全さの見込みに基づき得るものなのである。

『判断力批判』第54節 Anmerkung
Immanuel Kant Kritik der Urteilskraft“ S.226.Felix Meiner Verlag Hamburg.2001.
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2005年08月10日

病気になって気づくこと -体と身体part2-

病気になって気づくことがある。健康の大切さや普通に生きられることの喜びなど。だけど、そんなありがたさも健康になってしまえば、すぐに忘却してしまう。病気はつかの間の経験とも言える。苦しんでいるその時は「永遠の時間」が流れるが、苦しみが去ってしまうと、その「永遠の時間」はつかの間の経験にすり替わってしまい、日常の時間が舞い戻ってくる。ボクらは、病気のときに何を学び、何を経験しているのか。

そんなテーマの論文がこれ。前回の訳の続きです。(続き物なのでこれだけ読んでもなんのことか分からないと思いますので・・あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)

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前回は こちら

 このこと(病気になって自分自身と出会うということ)が、身体だけに通用するのではなく、つまり、主観的な自己−感覚の内で自分自身の性質(Natur:素質、本質)を経験することだけに通用するのではなく、また(物質的な)体にも通用する、ということは注目に値します。われわれは、体というものを、人間に関する客観的に経験可能な性質と理解しています。さて、すべての人は、学校の授業で、体(Körper)について学びます。つまり、人間の解剖学や、生物学的過程や、遺伝などを学んでいます。それどころか、より厳密に言いますと、学校で教えられるこうした人間の性質に関する知識は、実際にはただ(物質的な)体としての性質にのみ関与しているだけなのです。きっと、このことも、「なぜこのような[学校で学ぶ]知識は生徒たちの記憶にほとんど残らないのか」ということの原因なのでしょう。こうした知識が私に関わっているということは、なんともはっきりしていないのです。こうした知識は、まさに客観的であるが故に、外的な知識であり、他者の知識であります。けれども、人は生きながら他者そのものであらねばならないために、こうした他者の知識がその人を襲撃するのです。しかしながら、多くの人間にとって、こうした関連は、病気にならないと明確になりません。病気になってようやく、人は、例えばきちんと機能しないどこかの腺(Drüse=分泌活動を行う細胞の集まり)が自分の中にあることに気づきます。けれども、ここで重大なのは、それがまぎれもなく自分自身の腺であり、自分は腺が機能しないという病気の状態を生きなければならない、ということです。したがって、通常、病気になって自らと出会うということは、次のことを意味します。すなわち、人間としてのわれわれが病気になってようやく生理学的体質におけるわれわれ自身と出会う、ということを意味しているのです。そして、病気になってようやくわれわれは、甲状腺や前立腺といったようなものがあるということを知るのです。人は、こうした諸器官によって引き起こされる病気に陥って初めて、驚きと驚愕をもって、「通常生の遂行を目立たずに可能にしているものがもろもろの器官とそれらのみごとな重なり合いと結びつきである」ということを認識するのです。自律神経系、椎間板、すい臓、リンパ系があるということ、またこれらが何のためにあるのか、また何を果たしてのかということ、こうしたことすべてを常にすでに知ることができるはずなのです。しかし、つまるところ、人は、こうした知識を習得しなければなりません。そして、そこから、自分自身の性質に対する注意(Achtung)が育つのでしょう。この注意は、もちろんしばしば遅れてやってくる注意です。つまり、非理性的で全く容赦のない行為によって自然な生の基盤がとっくに傷ついてしまっている時に生じるような注意なのです。

病院病院病院

このベーメ夫妻の本の面白いところは、哲学的な「身体」だけでなく、自然科学的・医学的な「体」も、病気と共に認識されるというところだ。たしかに病気になってはじめて、腎臓や肝臓や心臓やリンパ腺の不思議な機能に気づく。もちろんじかにそうした器官を触ったり見たりするわけじゃないけど、そういう器官が普段はうまく機能していることに気づく。病気は、嫌なことだけど、いろんなことに気づかせてくれるし、いろんなことを教えてくれる。どんな人間も、病気には無力だ。どうしようもない痛みに苦しまない人間はいない。また、病気や傷に苦しんではじめて、人間がなんたるかを知るのだろう。現代社会では信じがたい残酷な事件が多発しているが、それも「痛みのない社会」故のことなのかもしれない。ずっと健康であるという病ほど怖い病気はないのかもしれない。
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2005年08月09日

「致死的退屈症」

 「致死的退屈症」という言葉を知っているだろうか。もしかしたら、現代社会に密かに蔓延する重大な病かもしれない・・・死に至るかもしれないがゆえに深刻だ・・・

 いやいや、そんなことはないふらふら

 『モモ』を読んだことのある人は聴いたことがあるだろう。この致死的退屈症は、決して実際にある病気や障害ではなく、物語『モモ』の中に出てくる奇妙な病だ。どんな病気かというと、こんな具合だ。

 「はじめのうちは気のつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。なにについても関心がなくなり、なにをしてもおもしろくない。この無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなっていく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなる。気分はますますゆううつになり、心のなかはますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世のなかにたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世のなかはすっかり遠のいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くこともわすれてしまう。そうなると心のなかはひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こみがない。あとにももどることはできないのだよ。うつろな灰色の顔をしてせかせかと動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。そう、こうなったら灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ」(p.360)

 モモやモモの友達や町の人全員に襲いかかる灰色の男たち。彼らは、町中の人間たちから、彼らの時間を奪おうとする。時間を奪われた人たちは、暇や余暇の時間を失い、ただ生きるために必要なことをする時間しか持てなくなる。人々はゆとりや楽しみや笑いあうことを忘れ、ただがむしゃらに働くようになる。大人だけではなく、子どもまでも遊ぶ時間を失い、「子どもの家」に収容されて、将来役立つことしかできなくなる。余計な時間、ぜいたくな時間は灰色の男たちにすべて奪われてしまう。灰色の男たちは、人間から奪い取った時間を生きる糧にする。灰色の男たちは、時間を葉巻にして、それを吸って生きる。だが、この灰色の男たちの出す葉巻の煙が時間に混じってしまうと、人間がこれを吸うことになる。それを吸ってしまうと、まさに「致死的退屈病」になってしまうのだ。上の引用文は、マイスター・ホラの談話で、灰色の男たちに苦しめられるモモに対して言った言葉だ。

 ボクはこの一文を読んで、ドキリとしてしまった。読めば読むほど、ボクらの時代に当てはまる病気だからだ。いや、社会全体がこの病気にかかっているのかもしれない。一生懸命働いても、きりがないし、ダラダラ生きることも許されない。「能力給」というけむりがボクらを襲う。「成果」が上がらなければ、給料も上がらない。「サービス残業」という名の無料奉仕活動に勤しまなければならない。そして、その結果、まさに「どうでもいいや」というあきらめがでてきて、致死的退屈病になってしまう。ひょっとすると、ボクらはそんな社会を生きているのかもしれない。

 今日で、長崎に原爆を落とされてから60年が経つ。戦争というおぞましい事件は、今の日本にはない。平和だし、ボクらの生活は信じられないほど快適になった。だけど、ボクらの時間は豊かになったのだろうか。もしかしたら今もまだ灰色の男たちにどんどんボクらの時間が奪われているのではないだろうか。人間が生み出したもの(灰色の男)がボクらの時間を吸い取っていく。そんな悲劇はせめて物語だけの出来事であってほしいと願っている!! 楽をすることやのんびり生きることはそんなにダメなことなのだろうか?

参考
ニックネーム kei at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 病と健康