最近、世の中を震撼させる少年事件が二つあった。劇物を肉親に投与した16歳の少女。そして、
恋愛幻想から同級生の女の子の命を奪った16歳の少年。彼らは1989年生まれ。くしくも、日本の世の中が激変する中(バブル崩壊)で生まれた世代に属する。ボケベル・ケータイの到来直前の世代。ゆとり教育の恩恵を受けた世代。
パソコンが身近になっている世代。いろいろ言えそうだ。。
この二つの事件は、一方で、この世代の少年たちの『もろさ』、『あやうさ』を露呈するものだった。
また他方で、『
ファンタジーの欠如』を予感させるものだった。『もし・・・ならば、次に・・・となる』といった『仮定法』の欠如といってもいいかもしれない。例えば、『もし店の物を盗んでばれたら、警察につきだされ、親や
学校に通報され、やばいことになる』というファンタジーを抱くから、多くの人は万引きをしない。また『もし人をここで殴ったら、相手が痛がるから、相手が不快になるから、殴らない』というのも、ファンタジーによる制御だ。
どんどん、
子どもたちがファンタジーを失い、夢を見出せず、現実、現実、現実に閉じ込められているのではないか?? 現実主義、現実主義、現実・・・
そこで、思いついたのが「ロマン主義」という言葉だった。
現実的なものが溢れているこの時代。
ロマンティックなものがこの現実の中に見出せない。
希望も、夢も、未来予想図も、何もかも・・
小さな希望じゃなくて、大きな希望が見出せない。
で、今日の朝日新聞に、梅原猛さんの『西田幾多郎論』(?)が掲載されていた。見出しには、『西田哲学はロマンティシズムか』とあった。
『理性の哲学』に対抗できる『新しいロマンティシズム』の構築へ。
梅原は、西田の次の一文に注目している。『思索と体験』の一節。
「しかし、古きロマンチシズムは未だ十分客観そのものの根底に達し、客観そのものをして語らしめた主観主義ではなかった、なお客観を無視した抽象的主観主義であった。これその自然科学の勃興と共に久しからずして滅びざるを得なかった所以である。
現代のロマンチシズムは自然科学の煉獄を経たロマンチシズムである。自然主義や実証主義の徹底から出た理想主義である。古きロマンチストは抒情詩を歌った、新しいロマンチシストはドラマチストとならねばならぬ」
西田にとって、この問題は、あれかこれかの問題ではない。客観主義VS主観主義の戦いでもない。ロマンティシズムは、『自然科学の煉獄を経て』こそ可能となる。梅原は「核戦争」、「環境破壊」、「生命科学」といったでっかいことを問題にしているが、上の二つの少年事件にも言えるのではないか。「パソコン」、「ネット」という煉獄の中に沈んで行った少女。「ねじれた恋心」、「恋愛幻想」に屈した少年。
彼らが見失ったのは、ことを起こす前の
シナリオ作りだった。ドラマチスト(劇作家)の役割を生きられなかった。「もし・・・ならば、その時、・・・となる」というファンタジーを描けなかった。この「仮定法的思考」は、いずれの思考においても欠かせないものであり、未来を描く大切な思考なのだ。
少女が描けなかったのは、ネットから現実へと戻る道筋。
「僕」から「私」への戻り方。
少年が描けなかったのは、
失恋から立ち直るまでの道筋。
「愛されていなかった現実」に対する対応策。
これは、決して、彼らだけの問題ではない。現代社会の問題なのだ、、と思う。
最後に、梅原は、西田の考えを受け入れつつ、ロマンティシズムについてこう言っていた。
「それ(ロマンティシズム)は、東洋の知恵に学びつつ、また最近の自然科学の成果も取り入れつつ、近代文明の成果も取り入れつつ、近代文明の自然克服の思想を徹底的に批判して、水爆あるいは環境破壊による人類滅亡の危機を避け、人類の滅亡の危機を避け、人類の末永い安泰を図る哲学でなければならない」
*うーん。西田はともかく、梅原さんの考えは、どうもでっかすぎる、というか、形式的なところでの議論になってしまっているように思う。