ひらめき生涯一教師、生涯一研究者で頑張りますパンチ


2006年09月17日

人生は何事をも為さぬにはあまりにも長いが・・・

僕が好きな言葉で、こういうのがある。

『人生は何事をも為さぬにはあまりにも長いが、何事かを為すには余りにも短い』

(出典:山月記、中島敦、新潮文庫)

なぜだか、心に響く。

何もしないで生きるって、すごく長いけど、
何かをする、し終えるっていうことを考えると、人生はあまりにも短い。きっと、死ぬ時になって、この言葉の本当の意味を実感できるんだろうと思う。

何にもしない無為な一日。

何かを達成しようと必死に送る一日。

同じ一日でも、全然違う。


僕も、何かを為そうと必死になっている気がする。為すというのは、ただ何かをするというのではなくて、ある程度の結果を残す、ということだと思う。その答えが出ている人はうらやましい。僕は何にも答えも結果も出していない。そこに焦りを感じる。

でも、仕方ない。能力もなければ、時間も足りない。そんな制約の中で、なんとか『為そう』と努力する。なんにもない無限の自由時間っていうのは、あまりにも長そうだ。

僕らの人生は、有限だ。絶対に有限だ。

今は無限だと感じていても、やがて終りが来る。必ず来る。

きっと人生を悔いるだろう。あれもしていない、これもしていない、と。

きっと、目の前に綺麗な黄色い花が咲いていたとしても、それに目もくれず、内的な世界に留まるのだろう。そして、大いに悔いるのだろう。

早かれ遅かれ、あと100年もすれば、僕のまわりにいる人間も僕も誰もいない。今日生まれた子どもも、120年後にはいない。今、この世に存在する全ての人間は、120年後にはおそらく誰もいないだろう。絶滅しているのだ。でも、『人間』は絶滅しない。(最も最悪な事態が生じなければ)

僕らは消滅する。でも、人間は消滅しない。

考えてみれば、とても奇妙なことだと思う。

で、おやすみZZzzz。。。。
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2006年09月08日

■小さなオスネコ(1)Das Kleine Kater■メルヘン■

童話やメルヘンが好きな人は是非!!

ここ、Dr.Keiの研究室でしか読めないメルヘン、、、だと思われます。。。

1996年に出されたドイツ語の童話/メルヘン、『Das Kleine Kater』を訳出しました。著者は、ブリギッテ・シュパンゲンベルクさん。here(スザーネさんの『親の離婚と子どもの心』の中の一節より)

ブリギッテさんの本についてはこちら(ドイツ語)

これが、また長〜いメルヘン。なので、二回に分けてご紹介します。

ちょっと不幸な子ネコのお話。ちょっとずつ子ネコが成長していく姿がとてもいいです。でも、ケガはするし、魔女に追いかけられるし、とってもかわいそうな子ネコちゃん。

いったいどうなるのでしょう??

(親が離婚した子どもに読ませたいメルヘン、とスザーネさんは言っておりますが、どうでしょう?!)

メルヘン『小さなオスネコ』はこちら⇒続きを読む
ニックネーム kei at 06:17| Comment(5) | TrackBack(0) | Books and Interpretation

2006年08月26日

『こころの鳥』

小さな物語、『こころの鳥』を訳してみた。

ちょっと不思議な話なのですが、面白かったので。。。


『こころ』って不思議。

でも、こころには鳥が棲んでいるの。

どんな鳥なんだろう??

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2006年08月05日

未来を予想すること


少し古い文章ですが、色々と考えさせられる文章だったので、ここに掲載してみます。

人は誰でも「未来」のことを考えると思います。自分ひとりの個人的な未来を考える人もいれば、(稀に)全人類の未来について危惧を抱きつつ考える人もいます。

学者やアーチストやミュージシャンの中にも、全人類の世界平和を、未来に託そうとしている人も多数います。

憎しみに生きる人がいれば、愛を願いながら己の欲望を超えて活動している人もいます。小さな日常に感動を覚える人もいれば、全宇宙に感動する人もいます。

でも、誰もがみんな、平和で穏やかで安心できる社会に住みたいと願っていると思います。殺し合いや破壊活動を、心の底から歓迎するひとは、ほとんどいないと思います。たいていは、『復讐』だったり、『仇討ち』だったりします。みんな誰もが救われたいのかもしれません。

そういう『みんなが救われる社会』にするために、われわれは何ができるのでしょう。

そういう文脈の文章でした。

本編はこちら⇒続きを読む
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2006年07月14日

Peter Bichsel作◆『Kindergeschichten』より


ドイツやオーストリアでは結構有名なお話・・らしいです。有名な児童文学作品の中の一作品。

コロンビンの物語』

宮殿に、強い人々と利口な人々がいた。王は一国の主だった。女性たちは美しく、男性たちは強かった。牧師は敬虔で、調理場の女中さんは忙しかった。ただコロンビンだけ、コロンビンだけはなんでもなかった。誰かが、「来いよ、コロンビン。俺と戦おうぜ」と言うと、コロンビンは、「僕は君より弱いよ」、と答えていた。また誰かが、「2×7は?」と質問すると、コロンビンは、「僕は君よりバカだから」と答えるだけだった。また誰かが、「この小川を飛び越える勇気はあるかい?」と尋ねると、コロンビアは、「いいや、そんな勇気はないよ」と答えていた。そして、王様が、「コロンビン、お前は何になりたいんだ?」と尋ねると、コロンビンはこう答えた。「僕は何にもなりたくありません。僕はもう何者かなんです。僕はコロンビンなんです」、と。

ドイツ語の原著はこちら⇒続きを読む
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2006年06月07日

『簡素な生活』シャルル・ヴァクネル

久々の本紹介たらーっ(汗)たらーっ(汗)

シャルル・ヴァクネルの『簡素な生活(LA VIE SIMPLE)』(大塚幸男訳・祖田修監修)講談社学術文庫。

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この本の書評
「現代文明は人類に物的な豊かさをもたらした。だが反面、私たちは果てしなく欲望をふくらませ、人間として大切な多くのものを失ってきたのではないだろうか―。ヴァグネルは精神や思想、言葉、家庭、教育など日常的なテーマをとり上げて簡素の本質を論じ、人間の永遠の幸福の基礎は心の簡素、生活の簡素にあると説く。百年前の書でありながら、今もなお新しい。」(引用元


彼の主張は、エピクロスの『隠れて生きよ』の精神にも通ずるもので、社会福祉学、教育思想などにおいて、非常に有意義な内容を含んでいるように思われる。

彼の根本的な考え方は、次のようなものである。

「揺籠から墓場に至るまで、その欲求においても快楽においても、また世界と自分自身とについての考え方においても、近代人は数知れぬ複雑なものの只中でもがいています。もはや何一つ簡素なものはなくなりました−考えることも、行動することも、遊ぶことも、死ぬことでさえも」(p.20)

シャルルによれば、複雑な現代社会には、もはや「簡素なもの」は何一つないのである。つまり、この本に書かれてある「簡素なもの」とは、僕らの社会には存在しないもののことなのである。(100年前、すでになかった、ということになる)

では、僕らが失った「簡素なもの」とは、いったいどんなものなのか?簡素に考えるとは?簡素に行動するとは?簡素に遊ぶとは?簡素に死ぬとは? 100年前にはすでに失われていた「簡素なもの」とは一体・・

続く⇒続きを読む
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2006年04月29日

ドイツ人の休暇


翻訳モノです。(ドイツ人論)

次項有次項有

ドイツ人の休暇

「いったいフランドル(ベルギー・オランダ・フランスをまたがる地域)なんかで長期休暇を過ごすことはできるのでしょうか?」。この問いは、私が、ベルギー近くで、妻と長期休暇について話していた時に、ある若い女性が私に言ってきたものだ。

私は言った。その問いは、まったくばかばかしいが、まさにドイツっぽい質問だ、と。

ドイツ人たちの長期休暇の夢なんていうのは、こういった類のものなのだ。もしドイツ人が復活祭や夏の日にデュッセルドルフやハンブルクやフランクフルトの空港で大勢集まっていて、互いに足を踏みつけあっていたら、ドイツ人たちは、「いよいよ長期休暇が始まった」、ということが分かるだろう。彼らは、おそらく、デュッセルドルフの空港で、近所の人と会うだろうし、また、彼らは、ファル(ポルトガル)の空港やアルガルヴェのホテルで(12〜15階立て)、その近所の人と再会するだろう。そのとき、彼らは喜び、そこが我が家とほとんどそっくりだということが分かる。そして、その後、1000人は収容するプレイルームでボーイさんが、衣のついたシュニッツェルとジャーマンポテトとドルトムント産のビールを運んできた時に、まるまる一時間のきついフライトの後の世界は、ようやく落ち着くのである。

人は、長期休暇を終えたドイツ人に、「何を見てきたの?」と尋ねてはならない。彼らの報告は、死ぬほどつまらない。彼らは、フェラグード(ポルトガル)の浜辺で、水着姿の女性や男性をぽかんと眺めているか、その周りにある高い建物のコンクリートをぽかんと眺めていただけなのである。彼らは、自分たちのホテルが五つ星であることや、ボーイさんが親切なポルトガル人であることは知っているが、それで終わりなのである。

アレンテジュの素晴らしい風景も、その地にある魅惑的なオリーブの森も、太古のコルクガンの庭園も、この地域で暮らす多くの人々が貧しいということも、夏に「コンクリートの城」(ホテル)に長期滞在するほとんどのドイツ人が知らない。今日の観光をようやく可能にしてくれた「カーネーション革命」が、数年前、南ポルトガルのこの地で、始まったことも、長期休暇を待望していたドイツ人たちは全く知らないのである。

無数の湖に恵まれたフィンランドで、本当の静けさを見出すために、自ら木の家を借りるドイツ人旅行者は、一人も、統計上、把握されていない。典型的なドイツ人旅行者が、ヨーロッパでも最も美しい国の一つであるノルウェーについて知っていることは、唯一つ、「ノルウェーではよく雨が降る」ということだけである。

(続く)
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2006年04月28日

カフカ『父の気がかり』keiバージョン

ボクの大好きな短編小説を紹介します。

カフカの作品で、『オドラテク』について書いてあります。

このつかみどころのない小説が、どこまでも大好きなんです。

5分で読める小説としては、最高傑作のひとつだと思っています。

『父の気がかり』本編→続きを読む
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2006年04月28日

『旅行』と『旅』の違い


休日に、仕事ではなく、どこか遠くに行くこと。

それは、『旅行』とも、『旅』ともいえる。

多くの人は、あまり意識することなく、この言葉をうまく使い分けているような気がする。

旅行と旅、同じようで、全然違うことを示しているように思う。

ドイツでも、同じような区別があった。

第二次世界大戦後、初のドイツ連邦共和国大統領Theodor Heussの言葉。

「Reisen heisst, an ein Ziel kommen. Wandern heisst, unterwegs sein」
(旅行は、目的地に行くこと、旅は途中にいること)

日本人の感覚でも、すとんと落ちるフレーズだと思う。

ぷらりと一人旅する時などは、当てなくして、なんとなしにぶらぶらして、そのつど出会ったものに関心を抱いて、そのつど出会う人と対話して、のんびりどこへ向かうのでもなく、さまよう。目的地は、その時その時の状況に応じて、変化する。いつの間にか、反対方向に向かっていた、なんてこともある。

また、目的地へ行く手段でも、同じことが言える。近年、ブルートレインが次々に廃止になり、もっぱら新幹線と飛行機でどこでも行けるようになった。目的地へ行くためには、最高の乗り物だろう。ブルートレインは、時間がかかり、古びていて、『合理的』、『経済的』ではない。

けれど、どこかへ行く途中を楽しむなら、やはりブルートレインなのだろう。ブルートレインの場合、『途中』が長いからだ。

あてどない旅。今はもう誰もしないのだろうか。

こころの旅も同じだろう。すべて目的(良い老後、良い死)のためにきちんと計画された人生の旅行をしている人が増えてきていないか? 目的のため、目的のためといって、今の自分を犠牲にしていないか? 「今」という「人生の旅の途中」を楽しんでいるか?

「旅行」と「旅」

なかなか、面白いテーマだなあ、と思う今日この頃・・・ 
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2006年02月03日

電子計算機(パソコンの基)を作った人ってドイツ人!?

今じゃ当たり前の「電子計算機」。とても便利だし、すごく早く難しい計算をやってくれる。しかも、この電子計算機が基になって、パソコンが生まれ、ネット社会が出現した。電子計算機なしでパソコンは語れない!じゃあ、誰がその基を作ったのか?

そう! 電子計算機もかつて誰かが発明したわけで・・・

一番最初に、計算機のもととなる卓上計算機(歯車を利用した計算機)を発明したのが、かの有名なパスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)だった。そう、『人間は考える葦である』といったフランスの哲学者だ。デカルトとよく対比の形で出てくる哲学者だ。

その後、より本格的な電子計算機を発見したのが、ドイツのライプニッツだった。彼はモナド論という独自の考え方をもった哲学者だったが、彼は同時に数学者でもあった。(いや、彼はオールマイティーな学者と言ったほうがいい)

ライプニッツの根本的な考え方についてはこちら

パスカルにせよ、ライプニッツにせよ、哲学史ではよくお目にかかるが、コンピュータの歴史としても重要な人物だったのだ。まさに彼らの恩恵をパソコンという仕方で蒙っているのだから・・・

パソコンの歴史についてはこちら

計算機の歴史についてはこちら

で、そんなライプニッツの話をちょこっと・・・





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2006年01月02日

S70年代の『貧乏クジ世代』

香山リカの単行本『貧乏クジ世代』(PHP新書)を読んだ。

keiは75年生まれの団塊ジュニア世代。親は『団塊世代』と呼ばれる世代。年初めに、「僕の世代ってどんな世代なのだろう?」と考えてみた。

香山も言うように、僕ら団塊ジュニア世代は、「苦悩は煩悶はないくどこか淡々としている」(p.23)世代で、「すでに人生をやり尽くした感」(p.14)の漂う世代だと思う。

団塊世代の人たちのような「社会への怒り」みたいなものはないし、「反骨精神」のみなぎっている世代でもない。かといって、「現在」に満足しているわけでもないし、日々を楽しくおかしく生きているわけでもない。かなり地味で真面目な世代だと思わなくはない。バブルを謳歌した60年代生まれの先輩たちほど、楽観的に生きられたわけでもない。バブル崩壊後の世代だからだ。

「神田うの」とか「B21スペシャル」といった人たちが、深夜のテレビでワイワイやっていたのは記憶に残っているが、自分たちがそれを味わったわけではない。テレビでは、空前のバンドブームで、なんだか楽しそうだった。

団塊ジュニア前半の人たちは、バブルの恩恵を蒙っている。会社の採用に関しても、引く手数多だったと聞いてきた。ジュリアナ東京では、毎夜、ワンレンボディコンの人たちがお立ち台の上でダンスをしていた。華やかそうだった。

が、しかし・・・

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2005年12月01日

『関係としての自己』

大学時代、最も影響を僕に与えてくれた存在の一人が木村敏。「人と人との間−精神病理学的日本論」(弘文堂)だった。人間関係を深く洞察する「現象学的人間研究」の可能性を感じたのも、この本がきっかけだった。また、彼を通じて、多くのドイツの精神病理学者の存在も知った。

そんな木村敏の最も新しい論文集が、2005年4月に出版された。

関係としての自己』(みすず書房)

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この本の中で、個の問題、時間の問題、他者の問題、「あいだ」の問題など、彼がこれまで思索してきた人間に関する諸問題が、木村独特の言い回しで、論じられている。(僕がこれまで触れてきた)彼の著書より、より明確ですっきりと書かれてあって、しかも新たな視点も加えられていて、にもかかわらず、難解度もアップしていて、楽しく、かつ、唸りながら読むことができた。

興味深かったのは、『私的な「私」と公共的な「私」』という第一章だった。

「対人恐怖症状」は、気心知れた「身内」、「仲間内」といった「私的世界」や、都会・都市など匿名の存在(アカの他人)となれるような「公共的世界」で発生するのではなく、「中途半端な顔見知りに囲まれた状況」(p.37)で発生する、という考え方だ。で、対人恐怖の症状は、「自分のことを、いまここでの唯一無二の私的な「私」として生きるべきか、それともだれにとっても通用する一般的規定としての公共的な「私」として理解すべきかの両義性」(同)の間で揺れ動くときに現れるというのだ。この三つの区分は興味深い。とりわけ、私的世界と公共世界のあいだの世界が気になる。

@私的世界(身内、仲間内=複数一人称性)⇒個と個の対立無し
A中途半端な顔見知りに囲まれた世界(挨拶の必要な状況)⇒個と個の対立有り
B公共世界(アカの他人、匿名の存在になれる場所)⇒個と個の対立なし

しかし、これは、対人恐怖の場合に限らないと思う。不登校子どもを見れば、彼らも、@とBでは無理なく存在できるが、「学区内」というAの領域に出ることができない。また、ニートや引きこもりも、「職場」や「学校」といったAを避けてこそ、起こり得ることだろう。また子どもたち(特に女の子)は、Aの世界の中で、すぐに@の世界(グループ)を形成しようとする。また、渋谷なんかでは、Bの世界で、@の「うちら集団」が無数にある。日本人は、@とBが好きで、Aが苦手ということになるのだろうか。

そういえば、ドイツにいたとき、僕はいつも「パーティー」に誘われていた。で、よくパーティーに参加したものだ。あの「パーティー」という場は、まさにAのような気がする。参加しているドイツ人同士であっても、挨拶程度の関係だと言うし、実に色んな学生がそれぞれ気ままに楽しんでいた。なんか「仲間内で楽しむ」って感じじゃなくて、友達の友達の友達と話したり、友達の恋人の幼馴染の恋人の兄貴と議論したり、ということがあった。もちろん、そこにいて安心できるという感じだけではなく、「対立」や「喧嘩」も起こりやすそうな感じがあった。でも、みんな、お互いに気を使いあい、言葉を介して、うまくコミュニケーションをしていたと思う。Aは日本人が苦手な領域なのかな?!Aの場合に、特に人は、西洋的な「個人」として生きなければならないからだ。

(注)
ただし、木村は、この三つの世界が独立してバラバラにあるとは全く考えていない。むしろ、「私」を反省し、この「私」が、@〜Bをそのつどあてどなく生きている、というパースペクティブを呈している。そして、日本人という固有な存在様式を通して、@とBの関係、アクチュアルな「私」とリアルな「私」との関係、一人称の「私」と三人称の「私」との関係、私的な「私」と公共的な「私」との関係(「私的な『私』と公共的な『私』の相補的な両義性」(p.48)を解明している。



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2005年11月15日

■ロマンティックな思想へ・・と■

最近、世の中を震撼させる少年事件が二つあった。劇物を肉親に投与した16歳の少女。そして、恋愛幻想から同級生の女の子の命を奪った16歳の少年。彼らは1989年生まれ。くしくも、日本の世の中が激変する中(バブル崩壊)で生まれた世代に属する。ボケベル・ケータイの到来直前の世代。ゆとり教育の恩恵を受けた世代。パソコンが身近になっている世代。いろいろ言えそうだ。。

この二つの事件は、一方で、この世代の少年たちの『もろさ』、『あやうさ』を露呈するものだった。

また他方で、『ファンタジーの欠如』を予感させるものだった。『もし・・・ならば、次に・・・となる』といった『仮定法』の欠如といってもいいかもしれない。例えば、『もし店の物を盗んでばれたら、警察につきだされ、親や学校に通報され、やばいことになる』というファンタジーを抱くから、多くの人は万引きをしない。また『もし人をここで殴ったら、相手が痛がるから、相手が不快になるから、殴らない』というのも、ファンタジーによる制御だ。

どんどん、子どもたちがファンタジーを失い、夢を見出せず、現実、現実、現実に閉じ込められているのではないか?? 現実主義、現実主義、現実・・・

そこで、思いついたのが「ロマン主義」という言葉だった。

現実的なものが溢れているこの時代。
ロマンティックなものがこの現実の中に見出せない。
希望も、夢も、未来予想図も、何もかも・・

小さな希望じゃなくて、大きな希望が見出せない。

で、今日の朝日新聞に、梅原猛さんの『西田幾多郎論』(?)が掲載されていた。見出しには、『西田哲学はロマンティシズムか』とあった。

『理性の哲学』に対抗できる『新しいロマンティシズム』の構築へ。

梅原は、西田の次の一文に注目している。『思索と体験』の一節。

「しかし、古きロマンチシズムは未だ十分客観そのものの根底に達し、客観そのものをして語らしめた主観主義ではなかった、なお客観を無視した抽象的主観主義であった。これその自然科学の勃興と共に久しからずして滅びざるを得なかった所以である。現代のロマンチシズムは自然科学の煉獄を経たロマンチシズムである。自然主義や実証主義の徹底から出た理想主義である。古きロマンチストは抒情詩を歌った、新しいロマンチシストはドラマチストとならねばならぬ」

西田にとって、この問題は、あれかこれかの問題ではない。客観主義VS主観主義の戦いでもない。ロマンティシズムは、『自然科学の煉獄を経て』こそ可能となる。梅原は「核戦争」、「環境破壊」、「生命科学」といったでっかいことを問題にしているが、上の二つの少年事件にも言えるのではないか。「パソコン」、「ネット」という煉獄の中に沈んで行った少女。「ねじれた恋心」、「恋愛幻想」に屈した少年。

彼らが見失ったのは、ことを起こす前のシナリオ作りだった。ドラマチスト(劇作家)の役割を生きられなかった。「もし・・・ならば、その時、・・・となる」というファンタジーを描けなかった。この「仮定法的思考」は、いずれの思考においても欠かせないものであり、未来を描く大切な思考なのだ。

少女が描けなかったのは、ネットから現実へと戻る道筋。
「僕」から「私」への戻り方。
少年が描けなかったのは、失恋から立ち直るまでの道筋。
「愛されていなかった現実」に対する対応策。

これは、決して、彼らだけの問題ではない。現代社会の問題なのだ、、と思う。

最後に、梅原は、西田の考えを受け入れつつ、ロマンティシズムについてこう言っていた。

「それ(ロマンティシズム)は、東洋の知恵に学びつつ、また最近の自然科学の成果も取り入れつつ、近代文明の成果も取り入れつつ、近代文明の自然克服の思想を徹底的に批判して、水爆あるいは環境破壊による人類滅亡の危機を避け、人類の滅亡の危機を避け、人類の末永い安泰を図る哲学でなければならない」

*うーん。西田はともかく、梅原さんの考えは、どうもでっかすぎる、というか、形式的なところでの議論になってしまっているように思う。
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2005年11月12日

実践者−評論家−受信者

ドラマーの神様、菅沼孝三氏の教則ビデオを見ていて気づいたこと。

彼のドラムは素晴らしい。本当にすごい。巧いなんでもんじゃない。

けれど、そのドラムテクニックは、客に聴かせるもの。いや、ドラムに限らず、そもそも、音楽演奏は、聞き手(お客さん)なしでは、成立し得ない。いくらテクニックがあり、豪華なホールでその手腕を披露したとしても、聞き手がいなければ、音楽の目的を達成することはできない。

じゃあ、お客さんは、どのようにして、菅沼の神的ドラムテクニックを知るのか。それは、雑誌テレビなど報道、あるいは口コミを通じて、である。また、たまたまという場合でも、何かしらの「媒体(メディア)」を通じている。(ぴあなどの情報誌でたまたま見つけた合同コンサートなど)。また、たとえ偶然に知った場合であっても、彼を知った後、彼のドラムを知るために、メディアを活用する。

じゃあ、その媒体となるメディア、メディアの作り手(批評家、評論者)は、どうなのか。彼らは、あくまでも、菅沼(演奏者)なしでは、彼の記事を書くことができない。菅沼についての知識がなければ、彼の報道など、しようがないのだ。

これは、ラーメンの場合にも通用する。作り手となるラーメン職人は、お客さんなしでは成立し得ない。けど、そのお客さんは、多くの場合、メディア(本やテレビなど)を通じて、そのお店の存在を知る。そのメディアは、ラーメン屋職人がいなければ成り立たない。たとえ口コミであったとしても、その口コミを流す情報の主体が「評論家」の役割りをになっているのだ。彼は、まさに「翻訳者の役割り」を演じている。

まさに、作り手、伝達媒体、受け手は、三位一体なのだ。

さらに、小説の場合も。書き手は、あくまでも読み手に向かって、何かを書く。けれど、その読み手は、たまたまその書き手を知る場合もあるが、多くの場合、新聞や雑誌やテレビなどの宣伝や紹介を通じて、その読み手に関心を持つ。メディアの発達した現代社会においては、ますますこの傾向が強い。けれど、その宣伝や報道も、あくまでも書き手あってこそ、はじめて成り立つ。まさに三位一体だ。

これを実践学的に言うと、

実践者−評論家−受信者の三位一体

と、言えるのではないか。

解釈学的に言うと、

作者−解釈者−読者

ということになるだろう。

この三位一体がうまく機能している場合と、うまく機能していない場合とでは、どのような違いが生じるのか。面白いテーマかもしれない。
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2005年11月06日

「ここに林檎がある」への問い

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やっぱり林檎は,もぎたてが一番だな。甘くて甘くてとろけそう!林檎狩りは、林檎と出会う一つの契機であり、現代社会を反省するうってつけの機会である。

まずもって、極上の甘い林檎を堪能できることは幸せなこと。普段馴染み深い林檎。

けれど、林檎の木をじかに見ると、考えてしまう。「林檎のこと、全然分かってないんだな」、と。

「ここに林檎がある」ということを伝統的な哲学に基づいて考えると、「ある」とはどういうことか?と問うことになる。よく従来の哲学では「林檎」が例として取り上げられるが、そのこと自体、深く考えられているわけではない。つまり、「例えば、ここに林檎がある」と言っているだけにすぎない。必ずしも林檎でなくてもよい。で、哲学(とりわけ認識論・存在論)が考えたいのは、「林檎」ではなく、「林檎の存在」、つまり、林檎の「表象」なのだ。決して、林檎そのものではなく、「林檎の現われ」がいかに生じ得るのか、ということを問題とする。哲学側からすれば、林檎を考えることが重要であるのではなく、「ある」や「あると知覚する」ということを反省することが重要なのである。

じゃあ、林檎はどうなる? ただの思考の材料に過ぎないのか? 林檎そのものを考えることを通じて、思考そのものの反省はできないのだろうか。「林檎そのもの」は、「それがそのように存在する」、「それをそのものとして知覚する」といったことよりも劣っていることなのであろうか。

林檎とはいえ、もぎたて直後の林檎は、市販で売っている「りんご」と全く違うものだ。市販で売られている「りんご」は、「りんごの生命」が切り取られた「死する林檎」だ。もぎたての林檎は、命の息吹を保ったままであり、まさに「生きた林檎」だ。この生きた林檎は、そのものとして、大地や自然といった超越論的観念を地平としてすでに持ち合わせており、まさにその大地や自然を基盤としつつ、われわれの目の前にたち現れてくるのだ。

「がぶり」とかじりつくとき、ボクらは、林檎を通じて、「自然の恵み」という普遍的概念を学習する。みずみずしい果実が口の中で踊ることで、林檎は、われわれの精神を浄化し、無心にさせてしまう。まさに、生きた林檎を通じて、われわれは、より根源的な諸概念を獲得し、それをわれわれの理解の地平へと受肉することができるのである。

まさに! これぞ「林檎」のミラクルと言えるだろう。頭だけで考えた思考はリアリティーを欠いた空虚な思い込みだ。しかし、みずみずしい自然の恵みを通して生まれてくる思考は、リアリティーの根源(超越論的概念)の伴ったファンタジーなのだ! 生きた世界の中でこそ、純粋な思考は可能なのだし、新鮮でみずみずしい林檎を通じてこそ、「ここに林檎がある」というモチーフを深く思考することが可能となるのである!!

(この記事は、半分パロディー、半分本気のものです。あしからず)
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2005年09月20日

『かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂』


『かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂』

これは、吉田松陰の言葉だ。これは、彼がアメリカ密航に失敗し、処刑される前に言った言葉のようだ。参考

最近の日本は、さらなる『アメリカ追従』と『愛国心』を強めている。現在、最強の支持を得ている自民党は、ブッシュ政権の追従と見ていいだろうし、また、こうした「強い政府」を支持してしまうのは、「国民の愛国心」をくすぐるからかもしれないのだ。今回の選挙の「自民圧勝」は、きっと『アメリカ』と『愛国心』という相対する概念がうまくかみ合ったことに起因しているのだろう。

そういう意味でも、この吉田松陰の言葉は含蓄がある。小泉さんに大和魂があるのか、それに反対する人々に大和魂があるのか。いや、そもそも「大和魂」とは何なのか?

吉田松陰は、「不死の魂」を想定していた。「肉体は滅んでも、魂は不滅」、と。こういう解釈がスタンダードだ。「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」という一句もある。しかし、大和魂はそれだけか?

だが、松蔭はこうも言っているのだ。

大和魂は良薬に及ばず

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少しずっこけるが、大和魂は良薬に及ばないというのだ。大和魂は良薬に屈するのか??良薬は、現在の『自然科学』に属するものか。それとも、『自然治癒力』に帰するものか。ここで、解釈が分かれてくるだろう。

吉田松陰、なかなか手ごわい人物であるふらふら。ちなみに、本ブログでこのコメントを書いたのは、僕個人の思いつきではなく、伝説のメタルバンド『ガーゴイル』のKIBA様の意見に影響されてのことです!
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2005年09月09日

カルマと輪廻転生


 カルマ(Karman)は、サンスクリット語で、「行為」、「原因と結果」を意味しており、紀元前600〜500年頃にインドで広まった哲学の一つである。

 カルマの法則は、「自分が行った行為は、必ず自分に帰ってくる」ということ、つまり、「すべてのものには必ず原因があり、それが条件を満たすとそれに見合った結果が返ってくる」、という法則のことだ、「因果応報」とも言う。カルマには、@輪廻を絶ち解脱(moksa=ブラフマンとの合一)へと向かう「善業(Akarma)」と、A苦しみが循環する「悪業(Vikarma)」がある。

 今日は、このカルマについてのドイツ語の文献を読んだ。ちなみに、「馬鹿(バカ)」という日本語は、サンスクリット語の「Baka」から来ているそうだ(前田専學、NHK、1998)!! ずる賢い、偽善者という意味だそうだ。

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2005年09月04日

ヘルマンヘッセは風の中のロックンローラー!

 ヘルマンヘッセは、実は、風のロックンローラーだったのかもしれない。デミアンの冒頭で、こういう言葉があった。

 「オレは、オレの中でやりたいと思ったことだけに人生をかけたいと願っていた。しかし、なぜそれはあんなにも難しかったのだろう?」 
 “Ich wollte ja nichts als das zu leben versuchen, was von selber aus mir heraus wollte. Warum war das so sehr schwer?”(Hesse, H."Demian",1974)

 すっごくかっこいい。というか、どこか「哀愁」さえ感じる。やりたいことだけをやってたかった。でも、それはすごく難しかった・・、と。好きなことだけやって生きていければ、そりゃ素晴らしい。けど、人生は、好きじゃないこと、嫌なこと、したくないこと、我慢して従わなければならないことの方がはるかに多い。「したいこと」だけをしていくことなんて無理なんだ。だけど、みんな、昔はそうじゃなかった。自分がやりたいことをやりたいようにやってたし、ずっとやりたいことだけをやれることを願っていた。お子様は、それを信じて夢を見る。大人は、「やりたいことだけをやること」の難しさを知っている。そういう思いが、このヘッセの一文から聞こえてきそうだ。

 でも! たしかに「やりたいと思ったことだけをやる」のは難しい。でも、自分自身の中から沸いて出てきた「衝動」は、ずっと死ぬまで大事にしたい。「自分が妥協すること」に慣れてはダメなんだ。もちろん「妥協」は生きていく上で必要だ。だけど、それがすべてではない。どこかで、自分の中の衝動に忠実でありたい。

 やはり、ヘッセは風の中のロックンローラーなんだexclamation×2exclamation×2exclamation×2どんっ(衝撃)
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2005年08月31日

なぜ空は青いのだろう?

海の空は青くて美しい。でも、どうして空は青いのだろう。空が青いから?宇宙が青いから?海の青さが反射しているから? なぜ夜の空は黒いの? 昼間の青さはどこから来てるの? 

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ドイツ語で「なぜ空は青いのか」を説明している文章があった。翻訳したので、「なぜ空は青いのか」が知りたい人は是非お読みください。

次項有次項有次項有

 Warum ist der Hinmmel blau? (なぜ空は青いのか?)

 空が青いのは、大気のせいではないだろう。もし大気がブロンズ色のフロントガラスのように青く塗られているのならば、われわれは青いガラス瓶の中で日中ぐるぐる歩き回ることになってしまう。青い太陽があるならば、その太陽は青い光ですべてを染め上げるだろう。そして、夜には、青い星たちや青い月が空に現れるだろう。
 空の青は、ほこりに原因を求めることもできない。砂利を敷いた駐車場や採石場の上の空気は青ではなく、白いではないか。
 同様に、水滴も空の青さの原因ではない。雲は水滴からできている。だが、雲は白い。空気の相対湿度を疑問視しても、空の青さとは何の関係もない(*相対湿度:その温度における飽和水蒸気量に対するその時の空気中の水蒸気量の比率。パーセントで表す)。アリゾナの乾いた空も、ミネソタの湿った空と同じように、青いのだ。
 青は宇宙空間の色でさえない。宇宙の背景(Hintergrund)は黒い。夜の空は黒い。太陽光線が大気に触れる日中の間だけ、空は青いのだ。
 太陽は、青や黄や赤など、虹のすべての色で輝いている。これらの色は、混ざり合って、白い光になっているのだ。赤と黄色の光が、難なく大気を通過するのに対して、青色の太陽光線は、大気の分子によって、あらゆる方向に拡散させられる。雲一つない晴れた日に空を見るとき、われわれは、窒素分子、酸素分子、二酸化炭素分子に拡散させられ、それによって太陽光線から解き放たれた青い光を見ているのである。

endendend

 要するに、太陽から放たれている太陽の光が地球上を照らしており、大気圏に入るときに、大気(空気)に接触する。このとき、太陽光線に立ち向かうのが、窒素君と酸素君と二酸化炭素君という門番だ。太陽光線(七色=赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)のうちの青以外の色は、三人の門番たちを簡単に突破してしまう。が、青色光線だけがこの門番によって分解(拡散)させられてしまうのだ。つまり、空の青は、太陽光線が拡散させられた「青い光の屑」、というわけなのだ。(ホントかな?!)

 さらに知りたい人はここ
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2005年08月15日

■戦後六十年と憲法第九条■

 今日は戦後六十年。

 60年は、365×60=21900=21900日。
 21900日は、21900×24=525600時間。
 525600時間は、525600×60=31,536,000分。
 31536000分は、31536000×60=1,892,160,000秒。

 つまり、戦争が終わって、18億9216万秒が経ったわけだ。すごい数字だ。あの太平洋戦争の大惨事、そして、ヨーロッパアジア諸国を巻き込んだ壮絶な一時代が終わって、およそ19億秒が過ぎた。2万1900日が過ぎた。その中で、ボクらは生まれた。ボクなんかまだおよそ1万1000日しか生きていない。戦争の「せ」の字も知らない。だから、ボクらは、この世に誕生して2万2千日以上生きた人たちの話をもっと聞きたい。「平和」の重みをもっともっと実感したい。

 「平和主義」は、「国民主権」と「基本的人権の尊重」と共に、日本の三原則の一つだ。しかし、この「平和」という概念に、リアリティーが欠けてしまったというか、この概念から魂が抜けつつあるようだ。「愛と平和」、「平和と平安」、どれも「大事だ」と分かっていつつも、忘れてしまっているというか、切実感がないというか、そんな感じがする。「頭では分かっているけど、心で平和を感じない」というか・・ いや、そもそも「平和」って、「健康」と同様、忘却されてこそ平和なのかもしれない。「平和は隠蔽されてこそ平和である」というか・・

 さて、そんな平和。世界唯一の被爆国日本の憲法ではこう書かれている。

 第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
 一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 二 前項の目標を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 終戦から2万2千日が過ぎても、この第九条の重みは全く変わらない。いくら「平和」という言葉にリアリティーがなくなろうとも、「戦争」、「武力」の放棄については常に意識しておかなければならないだろう。筑紫キャスターもぽつりと言っていたけれど、「どんな思想があるにせよ、重要なのは『戦争をしない』ということだ」、ということが一番のリアルだろう。とりわけ福祉や教育の世界の人間は、このことを繰り返し思い出さなければならないだろう。子供、老人、障害者、女性たちこそ、戦争の一番の犠牲者なのだから・・・


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2005年08月13日

萬田銀次郎氏に学ぶ哲学?!


萬田銀次郎氏をご存知だろうか?

彼は難波付近では「ミナミの帝王」と呼ばれている高利貸しだ。トイチでお金を貸している!彼の名を聞いただけで、誰もが震え上がってしまう。

とはいえマンガの話だが‥

彼の言葉は深い。人間の罪深い一面を鋭く見抜いている!

「人間というやつは変わっとる。スーパーで20円30円の値段の差には敏感やのに、買い物が数千万という金額になると、とたんに思考能力が低下し、警戒心が欠如しよる。マイハウスをたてるときなんかにその傾向が如実に現れとる。本当はスーパーの買い物の何千倍も警戒せなあかんのに‥‥‥」(ミナミの帝王「眠る黄金編」より)

この言葉を胸にしまっておきたい!
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2005年08月10日

『土の中の子供』論考


 今日、文藝春秋にて、芥川賞受賞作品の『土の中の子供』が掲載された。作者は、1977年生まれの中村文則さん。この作品のテーマが虐待だったり、暴力だったり、落下だったりして、ちょっと現代っぽい感じだったので、どうかと思ったが、とりあえず読んでみた。

 主人公の27歳の男が若者たちにリンチされるシーンから始まる。痛々しいのだが、本人はとても冷めている。で、ボコボコにされたあとで、恋人(?)の白湯子が登場。彼女も、彼同様に、家族の問題を抱えているらしい。そんな彼女も非常にクールだ。主人公はタクシーの運転手をしていて、しばらくその話が続く。徐々に、彼の過去が暴かれていく。彼は、遠い親戚から非情な暴力を受けていた。今もフラッシュバックしている。苦しそうだ。そして、あてどない自問自答が繰り返されていく。「下へ下へと」。そんな中、白湯子がアルコールのせいで倒れてしまう。そこで彼と白湯子との対話が繰り広げられるが、ほとんど対話がかみ合わない。お互いがお互いのことをほどほどに思いつつ、自分のことを語る。二人とも過去におびえ、過去にこだわっている。こんなセリフがあった。

 「結局、私は親みたいな人生を送って死ぬのかもしれない。そう考えると怖いでしょう?私は嫌になるくらい母親に似ている。変えようとすればするほど、逆に似てくるのよ」(文藝春秋、9月号、p.400)

 親の拒否、親の否定、親の拒絶、ありがちといえばありがちだが、記述はなかなか重たい。主人公と白湯子のやり取りは、歯がゆいほどにかみあわないが、お互いにとっては慰めとなっている。で、本編は、また主人公の自問自答が繰り返される。そして再び白湯子がアルコールで倒れる。二度目はかなり重たくて、入院するはめに。そこでまた二人の対話が展開される。少しお互いの距離が縮まった印象を受ける。だが、白湯子の入院費をめぐって、主人公が奮闘する。かつての施設のヤマネさんを頼る。万事うまくいくかと思うや否や、次に、外国人のタクシー強盗に襲撃される(このあたりが唐突過ぎる)。一命を取り留めるが、その矢先に自動車事故にあう。まさに踏んだりけったりだ。だが、またまた一命を取り留める。そして、エンディングへ。

 話の流れはこんな感じだ。ひたすら自己省察し続ける小説だな、というのが第一の印象。一般には、虐待を受けた子供、施設で育った子供のトラウマを扱った心理社会的な私小説みたいな印象を与えるのかな。または、「人間の生きにくさ」や「それでないところのものになろうとする衝動」を描いた実存小説と命名されるのかな。どっちでもいいや。とにかく「他者不在」の一人称的小説だ。へたしたら、「なんちゃって実存小説」になりかねない・・ また、この作品は、どうもサルトルの影響を感じてしまう。というか、ぐるぐる回ってる感じ。でも、ま、いずれにせよ、必死に深い小説を書こうとする気概を感じさせる良い作品でありました。選考委員たちは好き勝手おっしゃってますが、ボクは素直にいいなあと思った。もう少し理屈っぽいとよかったかなたらーっ(汗) ただ宮本輝氏が言っているように、「中村氏は、何かのトラウマ、もしくは特殊な状況下に置かれた主人公を設定しなければ小説を構築できないのではないか」という危惧を、ボクも感じずにはいられなかった。(また、テーマそのものが今日的でタイムリーなので、それも気になった)。
ニックネーム kei at 23:55| Comment(5) | TrackBack(5) | Books and Interpretation

2005年02月08日

H.G.Gadamer◆健康について◆其の一

H.G.Gadamerの健康論の一部です。
個人的な研究の一環なので、興味ない人は読まなくても構いませんふらふら
ただ「健康」や「病気」に関心のある人には是非読んでもらいたい作品ですわーい(嬉しい顔)わーい(嬉しい顔)

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 われわれは病気に関する学問だけを有しているわけではない。病気は健康なしでは存在しないからである。ここで、われわれは解答しようのない問いの前に立つことになる。健康とは何か。恐らく、病気とは何かということは知っているだろう。病気は、いわゆる「欠損部分」の抵抗を受ける。病気は、その徴候に応じて、沈静すべき抵抗を為す対象なのである。この対象をルーペの下にやり、判定し、その病気の意義を示すことはできる。とはいえ、客観化する学問が近代自然科学の流れの中で手に入れた様々な研究方法で判定するのだが… だが、健康は、独特な仕方で、こうしたものすべてから免れているものなのだ。健康は、それ自体、研究で示されるようなものではなく、まさに免れているということによって存在するようなものなのである。したがって、健康は、常に意識されているわけでもないし、病気のように配慮されるわけでもない。それに、定期的な自己治療をわれわれに呼びかけたり、自己治療を強く促したりするようなこともない。健康は、驚くべき自己忘却の一つなのであるexclamation×2

 それに対して、理論、つまり「何を探すのか」、「何を見出すのか」という「純粋に目を向けること(das reine Hinsehen)」、こうしたことを行うところでは、人は肉体と魂の問題について語る。人は、「肉体とは何か」を知っていると思いこんでいる。だが、誰も、魂が何なのかについては知らない。もしかしたら、肉体と魂とは何かというのは、一つのダイナミズムなのかもしれないが、どうだろうか。いずれにせよ、肉体は、命(Leben)であり、生き生きとしたものである。魂は命を吹き込むものである。そしてこのように、両者は、その根源において、すでにお互いに反映され合っており、後者(魂)のない前者(肉体)の客観化、前者(肉体)のない後者(魂)の客観化の試みすべてがどこか笑い種になってしまうほどなのである。以上の事は、客観化する学問が導き出そうとするものとここでわれわれの課題としているものとの間の隔たりがどれほど大きいかを示しているにすぎない。

 私は、「精神の傷は、瘢痕を残すことなく、癒える」、というヘーゲルの言葉を思い出す。この興味深い言葉は次のように拡大されねばならない。『瘢痕も残すことなく精神の傷を癒す方法を心得ているというのは、自然の神秘ではないのか?』と。この場合、健康になることとは、回復した状態になった生活軌跡へと『再び−立ち戻るWieder-Zurücktreten』ようなことなのである。医師は、このような意味で、自然そのものが成し遂げることの補助をしている者に過ぎない。ギリシャの医師のアルクマイオン(Alkmaion;BC500、『自然について』)の名言に、「人間は、終わりを始まりに再び結び付けることを学ばず、それを実現することができないがゆえに死ななければならない」、というのがある。これは、実際、悪意ある言葉ではないのだろうか。この名言において、われわれには、何かが欠けているのではなく、すべてが欠けている。というのも、これは、負傷や発病の否定すべてを通じて、病気の終わりから再び始まりに戻るという、生きた自然、生き生きした自然を学んだからなのである。そしてアルクマイオンはこうも言う。「死でさえ、自然の循環へと入りこむこと(Eingehen)にすぎないのだ」、と。立ち戻りというこうした循環には為す術がないということを通じて、個々人の死の運命を定義した時、アルクマイオンは、明らかに、自然の自己再生という驚くべき青写真を持っていた。どれほどの賢明さが、この死と名づけない「入りこみ」のうちにあることか!!

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「健康」がいいことだというのは分かっている(つもりだ)。
だけど、普段から健康を意識しているかと言うとそうではない。
だが、そのことは決して咎めることではない。
われわれは、健康を忘却することで、無難に生きている。
また、病気も、単に悪いことなのではなく、終わりと始まりの循環を知らせてくれる重要な経験なんだ。101歳まで生きた哲学者gadamer、さすが!!!!
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2005年02月04日

3分で分かるハイデッガー?!

今日はドイツの哲学の分厚い入門書の一節を訳した!
「三分で分かるハイデッガー」?!かも。
超むずかしかったったらーっ(汗)たらーっ(汗)三時間くらいかかった!

あと眠れない人はこれをじっくり読んだらきっと眠れます!!

黒ハート黒ハート黒ハート黒ハート黒ハート黒ハート黒ハート黒ハート

 実際、現存在は、「世界内存在」であるexclamation×2。これは、二つの物体の空間的な並立という意味で理解されてはならないし、また、空間的に、「その内に存在するもの」、つまり「含有するもの」という意味で理解されてもならないし、同様に、「主体」と「客体」の関係と理解されてもならない。むしろ、世界内存在は現存在の基本構造なのであるわーい(嬉しい顔)。人間という現存在は、常にすでに、或るおのれの意思から退いた特定のはっきりした場所におのれを見出している。現存在は、「おのれの現へと被投されている」。したがって、被投性は、さらなる基本構造、実存範疇なのである。
 この世界という状態の現存在は、気遣うという存在様式、ハイデッガーのいうゾルゲ(慮・気)ふらふらという存在様式を持っている。現存在は、配慮−存在、配慮的気遣いという存在様式を持っているのだ。このような人間の慮(気)は、(確かにまた)他者、おのれの周りにいる存在者へと向かい、事物(事物的存在者)へと向かい、そして道具ないしは道具的存在者へと向かうのだが、核心においては、常に、おのれに固有な存在様式へと向かっている。人間は、第一に、「存在し」なければならない。このことは、おのれにはどうすることもできない。人間は、ただ単に存在しているだけでなく、またおのれにとって常にこうしたおのれの現存在も問題となっているような現存在なのである。まずもって現実のものとならなければならない存在として、現存在は「企投」なのである−したがって、被投された企投としての現存在、これが定式だパンチ
 人間の基本経験は不安であるがく〜(落胆した顔)。この不安は、別の存在者を前にして自ら怖がるというものではなく、むしろ世界内存在そのものを懸念するのである。厳密に言えば、自らが存在しないことの可能性(己自身の非−存在の可能性)を懸念するのである。この不安は、存在者すべてが人間の手から滑り落ちるような根本的な経験である。すなわち、自分自身の死と出会う、という経験である。しかし、この死は、外側から現存在と出会うのではない。死は現存在に属している。すなわち、現存在は、死−への−存在(Sein-zum-Tod)としてのみ存在する。このように絶対的な限界としての自分自身の死と出会うことで、人間という現存在の本来的な有意義性と切迫性は生ずる。もしわれわれが終わりなき長い時(時間)を有していたとしたら、差し迫ったものもなく、重要なものもなく、そして「実際的」なものもなかっただろう。日常、われわれは、こうした状況に目を向けており、“自分たちが自らの死に直面する時、われわれ自身のそのつどのまぎれもない生(取り違えようのない)を実現しなければならない”、ということを忘れている。われわれは、非本来性へと、非拘束性へと、「世人(俗人)」へと陥っている。しかし、ハイデッガーの考察は、われわれに次のことを認識するよう教えてくれる。すなわち、死は、われわれに己の実存を引きうけるようにと呼びかけている、死は、われわれのもろもろの決意が取り消せないということを露わにしてくれる、そして自由と自己責任における本来的で固有な(そのつど自分自身の)生を呼びかけている、ということを認識することを教えてくれるのだ。

おしまい♪
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2005年01月30日

カフカ『父の気がかり』

カフカは、『変身』や『城』などで有名なドイツ作家だ。
彼は、有名な作品の裏で、たくさんの短篇を書いている。

その中で、非常に興味深いのが、オドラテクの登場する『父の気がかり』だ。
(ボクの今年の年賀状の内容はこれに由来している)

オドラテクは、ひらべったい星状の糸巻きのようなヤツだ。
全体としてはよくまとまっているが、なんかに使われるような、
なにかに役立つようなものではない。
とにかくよくわからない存在なんだ。

そんなオドラテクは、ふらふらと家を離れては、しばらくして家に戻ってくる。
階段にいたかと思えば、廊下にいたりするし、すぐにまた別のところにいってしまう。
楽しそうにおしゃべりするかと思いきや、すぐに黙り込んでしまう。
オドラテクは、人間のように、目的を持ったり、あくせく働いたりしない。
有用なことはなんにもしないのだ。

ボクは、こんなオドラテクにとても心惹かれる。

人間は、意味を求め、意義ある仕事をし、あくせく生きる。
有用性を求め、実用性を愛する。
良きにせよ悪しきにせよ、それが人間というものなのかもしれない。
それにひきかえ、オドラテクは、人間じゃなさそうだし、死なないらしい(カフカ談)

でもちょっと待った。
最近流行りのニートだとか引きこもりだとかいう人々。
もしかしたらオドラテクの精神が乗り移った人々なのかもしれない。
もしオドラテクを読んで自らニートの道を選択したならば、
それはそれですごいことかもしれない。

でも、ボクは、やはり意味を求め、実用性を追ってしまう・・
所詮、オドラテクの前では、ボクも一人の人間に過ぎないのだ・・・
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Auf Wiedersehen!!

DEAR NEXT!!