2007年02月03日
むむ?!体罰の見直し⇒ゼロ・トレランス?!
いよいよ小中高での「体罰」の見直しが始まった。これまでは、「体罰禁止基準」なるものがあって、ありとあらゆる体罰が禁止されていた。これに噛み付いたのが、政府の教育再生会議だった。
「政府の教育再生会議が体罰禁止基準の見直しを打ち出した背景には、いじめや学級崩壊など混乱する教育現場の実態に対応するため、教員に対し指導方法の「裁量」を拡大する狙いがある」(引用元)
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主に見直されるのは以下の通りだ。
@放課後も教室に残して指導する
A授業中、教室に起立させる
B学習課題や掃除当番をほかの子供より多く課す
C授業中に立ち歩く子供をしかって席につかせる
D騒いでほかの子供の邪魔をした場合などに、別室で指導するなどの措置をとった上で教室の外に出す
E授業中にメールを打つなど学習に支障を与える場合、子供から携帯電話を一時的に預かる
F暴力を振るう子供から教師が身を守るためなどやむを得ない場合、力を行使して子供を制止する
いよいよ、「ゼロ・トレランス」の導入に踏み込むのか?
親と教師の軋轢も色々と問題になってきている。教育は誰のためのに行われるのか。教師はどのような存在なのか。親はどこまで教育に関与できるのか。教育の根本が非常に見えにくくなってきている現在、ある程度の「線引き」は必要なのだろう。つぶれる教師の数は決して少なくない。。
だから、厳しく対応すれば一定の成果は収めることだろう。けれど、厳しくなるだけでは根本の解決にはならないのも当然。授業を聞かない子どもは、その子自身の問題の場合もあるし、授業の質の低さによるものかもしれないし、教師や教育そのものを子どもたちがなめているのかもしれないし、現代のストレス社会の一つのアウラ(兆候)ってこともありうる。
教師も、ただ子どもに厳しくするだけでなく、自らの授業の質を高め、聴く態度を持ち、常に自己を厳しく戒める強い精神をもたなければ、何の意味も成長もないだろう。
かつて「暴力教師」や「権威を振りかざす教師」がいて、それに対する子どもたちの反抗が強い時代もあった。あまい教育と厳しい教育の二元論ではなく、筋の通った教育、真理を拓く教育であってほしいと願う。ただ厳しくして、体罰を課せば、子どもたちが良くなる、というわけではないのだから。。
子どもたちを惹きつける授業、子どもたちに魅力のある学校、筋の通ったタフな方針、そういう基本的なことがしっかり保障されない限り、いくら厳しくしたとしても、問題の本質は全く改善されることはないだろう。。。
今後、ますます教師のあり方が問われてくる。僕的には、しっかりバランスの取れた良い教師が増え、眼の輝く子どもが増えることを祈ってやまない。。
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2007年01月23日
ゆとり教育の見直し、ゆとりのない現代社会
昨年くらいから「ゆとり教育」が向かい風に立たされている。それ以前から、「学力低下論争」が繰り広げられ、「ゆとり教育」の立場はぐらぐらと揺らいでいた。
週休二日制も見直されそうだ。総合的な学習の時間も雲行きが怪しくなってきた。そして、「小学校の英語導入」も登場してきた。今年、一気に「ゆとり」から「せわしなさ」へと移行してしまいそうだ。
現代社会はますますせわしなくなってきている。
大人の世界は、かつてないほどに、目まぐるしく変わりつつある。2007年問題も迫りつつある。いろいろと教育問題が取り上げられているが、「どのような人間を育てたいのか」という究極目標は全然取り上げられていない。
今の社会に適応できる人間を!という痛烈なメッセージは読み取れる。だが、社会に順応させること、社会にとって役立つ人材を育成することが、教育の目標ではないはず。。。子どもの頃から、今の大人のようなせわしなさを生き続けていたらどんな人間に育つのか。
家族もボロボロ。地域社会もボロボロ。治安も悪化の一方。先生たちもボロボロ。企業も生き残りをかけて必死。平和なはずの日常生活も、消費社会のせいか、物欲にまみれてしまっている。子どもを育てる親たちは、借金まみれ。子育てに希望が持てず、誰にも相談できない大人たち。女性の社会進出は進んでも、変わらない女性の不利な立場。
ゆとりをもてない現代社会。「ゆとり教育バッシング」は、大人たちの子どもたちへの妬みも入っているのかもしれない。
子どもたちも、忙しすぎる。学校と塾だけじゃない。欲しいゲームソフトは次々と出てくるし、読みたい漫画もどんどん出てくる。大人たちがどんどん「売り上げ」のために、子どもたちの欲望を刺激する。そして、それに振り回される子どもたち。
誰も、無機質で無感動な子どもを作りたくはないはずだ。のびのびと、生き生きと幼少時代を生きてもらいたいと願っているはず。死んだ目の夢のない子どもを育てたいとは思わないはず。。ゆとりのある生活を子どもたちにプレゼントするのは、大人たちの使命なのではないのかな? 携帯を持たせることがゆとりなんじゃない。むしろ、携帯をあげないことが子どもたちにゆとりを与えることなんじゃないか。ゲームや遊び道具を安易に買ってあげることがゆとりを与えることなんじゃなくて、ゲーム類を与えないことが、子どもたちにゆとりを与えることなのではないか。
教師だって、いったい誰が子どもたちにゆとりを与えたのか? 世間のしがらみから離れて、一つの物事に向かい、徹底的に調べ上げる、それが学びというものだろう。観想して、抽象的世界を堪能する。思考する喜びを味わう。そういう贅沢な時間は、どのようにして保証されるべきなのか。。。
人生は長いようで短い。30歳を過ぎれば、出会いよりも別れの方が多くなる。僕らはどのように生きるべきか。そういう究極の命題を考慮して、教育の問題は議論してもらいたい。。
笑顔のない子どもなんて見たくない。
元気のない子どもなんて見たくない。
もっと理想の子ども像について話し合ってもいいのではないか、と思えてくる。。。
2006年12月28日
【教授学研究の会】冬の合宿 学び合う教師集団!
今日は、「教授学研究の会」の冬合宿に参加。この会は、現場の先生たちと互いに学び合う貴重な場であり、僕の教師人生の「原点」となっている場だ。
この教授学研究の会は、50年〜60年代の教育界でカリスマ的人気を博した故斉藤喜博先生の考え方を土台に、様々な教師たちが自分たちの実践を持ち寄り、互いに検討し合う会で、「民間教育研究団体」の中ではかなりコアな研究会だと思う。
授業や学校活動すべてを射程に入れ、それをどこまでも深く突き詰めていく。もちろん技術的な向上も考慮されているが、最も根源的には、教師という人間存在をどこまでも追いつめ、どこまでも突き詰めていこうとする教師の生き様や態度を見つめる。上っ面の小手先をマニュアル的に学ぶやり方を封じ、教師主導の授業に警告の鐘を鳴らし、さらに子どもへのうわべの尊重をも退ける。
今年定年される某小学校の校長先生もこの会の大切なメンバー。その校長先生はこう言っていた。
「きっとね、この会に来てなかったら、今のこの時期、達成感とやりとげたっていう感覚があると思うの。でも、今の僕は、なんかあわてていて、焦っていて、何もかも遣り残した感があるんだ。普通だったら、「終わった〜」って晴れ晴れしいんだろうけど、僕はちっとも晴れ晴れしくない。59歳なのにね。」
この校長先生の言葉に、この会のエッセンスが含まれているように思う。最後の最後まで全然納得できないまま、教師人生を終えていく。それこそ、人間のリアリティーなんじゃないかっておもう。斉藤先生の下で働いておられたO先生(ブログに度々登場しております)は、「斉藤先生は、よく、教師っていうのは、直線じゃなくて、らせん状に成長していくと言われていた」、と話してくれた。
この会は、60年代の自由な教師の姿を今も写し残している。現在、「問題解決型学習」とかなんとか言っているが、教師自身が「問題解決」のために必死になる。教師自身が「問題解決」できずに、子どもたちにどうそれを教えるというのか。教師が教師を誉めて、批判して、批評して、議論して、そして、自分自身を再発見する。その不断の繰り返し。
現在の日本の教育界はかつてないほど揺れている。教育基本法改正だけじゃない。教師の裁量権がどんどん失われてきている。教師の授業力を高める民間教育団体も消滅寸前である(その代わりに新任研修がばっちり用意されている)。一般の人には見えない部分であるが、今の教師は、自分の授業の力を高めるための場所がどこにも用意されていない。かつては先輩先生が新任先生をどんどん研究会に連れていった。全国各地に民間教育研究団体があった。今の教師(特に僕ら30代の教師)は、そういう洗礼を受けていない。
教師だけじゃない。今の親世代(30〜40歳代)は、親(人生の先輩)として知っておくべき基本的な知恵をどこからも学んでいない。最近「子どもが壊れる」という言葉をよく聴くが、そもそも今の親世代(僕ら世代以降)そのものが壊れていた。「新人類」もその一つ。30代後半の人たちはまさに「ヤンキー世代」。なめ猫なんていうのもあった。ビーバップハイスクールも今の親世代だ。また「東京ラブストーリー」(柴門ふみ)でも分かるように、自由恋愛をかなり謳歌した世代でもある。そしてその後の僕ら団塊ジュニア世代。香山リカもこの世代に注目している。
今後、団塊世代の熱い教師たちがいなくなったとき、教師教育はどうなるのか? 一方で金太郎飴的紋切り型の教育を受け、他方で自由を謳歌した新人類世代・団塊ジュニア世代の教師たちは何をよりどころにして、何を支えにして授業をし、後の教師を育てていくのか。中堅教師・30代教師につけられている課題はかなり多い。
今回の研究会はわずか半日の参加だったけれど、ものすごく得るものがあった。今後、もっともっと頑張らねば!と思うkeiセンセでした。
2006年11月29日
現場の人間が一番「現場」のことを知っている・・か?
教育や福祉や医療や心理や看護など「人間」に関わる領域の間で、よく聞く言葉がある。
「現場の人間がその現場の人たちのことを一番よく知っている」
あるいは、
「当事者だけが、当事者のことを一番よく知っている」
こうした言葉は、部外者からしてみれば、「おっしゃるとおり」としか言いようがなく、また、当事者からしてみれば、「そのとおり」と言いたくなる。「他人に自分たちのことなど分かるわけがない」。「分かりたければ、その場で、働く人と一緒に居合わせて学ばなければならない」。
自分の話から言えば、大学機関で働く僕は、大学や短大のことを誰よりも知っているか?そして、大学生や短大生のことを良く知っているか?また、当事者としては、不登校児のことを誰よりも知っているか?多動児のことをよく知っているか? 大学の先生にならなければ大学生のことは分からないか?
続きはこちら⇒続きを読む
「現場の人間がその現場の人たちのことを一番よく知っている」
あるいは、
「当事者だけが、当事者のことを一番よく知っている」
こうした言葉は、部外者からしてみれば、「おっしゃるとおり」としか言いようがなく、また、当事者からしてみれば、「そのとおり」と言いたくなる。「他人に自分たちのことなど分かるわけがない」。「分かりたければ、その場で、働く人と一緒に居合わせて学ばなければならない」。
自分の話から言えば、大学機関で働く僕は、大学や短大のことを誰よりも知っているか?そして、大学生や短大生のことを良く知っているか?また、当事者としては、不登校児のことを誰よりも知っているか?多動児のことをよく知っているか? 大学の先生にならなければ大学生のことは分からないか?
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2006年10月27日
≪何を根拠にして、自分の職業を選択してはならないか?≫
久々の翻訳モノです。ドイツ人の高校教師の文章です。ドイツの高校生たちはどのようにして職業を決定しているのでしょう??
ドイツの教育思想がチラリと見える文章かと思われますが・・・
Wonach sollte man seinen Beruf nicht auswählen?
何を根拠にして、自分の職業を選択してはならないか?
学校の成績を根拠にしてはいけない。きっと、数学が好きだからこそ、君の数学の成績が5なのだろう。でも、本当は、色んなものをスケッチしたり、文章を書いたりすることの方が好きだったりする。たしかに、それに関する科目の成績が悪いかもしれない。けれど、スケッチしたり、文章を書いたりする方が君にとっては楽しい。もしそうだったら、君は、自分の興味と自分の能力を共に見極めながら、君自身の職業を選ぶべきであろう。建築家やエンジニアはどうだろうか? あるいは、広報の仕事はどうだろうか。宣伝のスペシャリストやグラフィックデザイナーも面白いかもしれない。いずれにしても、数学の成績が良いからといって、必ずしも数学者になる必要はないのだ。君が嬉しいと感じられるような職業を選びさえすればいい。そうすれば、たくさんの時間と労力を、自分の専門の職業教育や仕事に費やすことができるだろう。また、たくさんのお金が稼げると見込めたとしても、職業を選ぶ上での決定的な決め手にはならない。もし君ができるだけたくさんの利益を望んでいるのなら、手工業の職人として活気ある仕事に就いたり、自分の想像力を自由に働かせる仕事に就いたりしないで、手堅いどこかの省庁の役人になればいいのかもしれない。
所感⇒続きを読む
2006年10月27日
■批判できない、批判されたくない日本の若者■
(まだスケッチ段階。)
前回の記事と反対面に迫る。
今どきの若者を見ていると、面白い現象に気づく。若者たちは、互いに相手を批判しないようにと細心の注意を払っているのだ。ちょっと相手に指摘するときも、「Cちゃん、ごめんね。批判しているわけじゃないの」、という枕詞をつける。
批判するのを極端に恐れている。
しかしまた、批判されることに対して、ものすごい抵抗感を感じている。自分は相手を批判しない代わりに、相手に批判されるのは御免なのである。「ちっとも共感してくれなかった」、「話しただけなのに、批判された」、等々。
日本人は、あまり誉められていないし、ネガティブなことを言われる機会が多い。押さえつけられることも多い。だからか、セルフエスティームは低い。自尊心、自己価値感情は恐ろしいほどに欠如している。けれど、言葉で批判されたり、厳しい指摘を受けたりすることも極めて欠如している。
大人たちは、子どもを誉めていなければ、批判や指摘も厳しくしていない、ということだろうか。子どもをしかったり、ののしったりするのは得意でも、誉めたり、批判したりすることは不得意なのだろうか。
相手を批判することには、勇気が必要だ。
相手に批判されても動じないためには、自尊心が必要だ。
批判することもできなくて、批判されることにも耐えられないというのには、裏に、アイデンティティーの脆弱性という問題がある、と考えられ得る。厳しい批判は、自分の根底をぐらつかせてくる。自分自身の考えが否定されたら、自分としては当然面白くない。だけど、そういう批判があってこそ、自己の精神の成長は実現する。
批判できない若者、批判されたくない若者の根底には、自尊心、自己価値感情の危うさというテーマが隠れているように思われる。
批判とは何か。ネット社会が広がることで、批判はどのようなスタイルになり、どのような価値を持つことになるのだろう。どんな時代になっても、そのつど、批判はかならずついて回ってくる。批判とは何か。思想的に批判を考えても面白いかもしれない。
2006年10月21日
『三歩下がって師の影踏まず』
くまもと来来ラーメンのおやじさんに素敵な言葉を教えてもらった。
『三歩下がって師の影踏まず』
おやじさんの時代では、先生の影を踏むなんてとんでもない、というのが「当たり前」だった、と話してくれた。
(そのもともとの意味は、師の影を踏んでしまうと、師を越えられなくなる、といった意味だそうだが、ここでは、一般的な意味で理解しておく)
『先生』という言葉は、かつての『先生』とは全然違う意味になってしまった、と考えてよさそうだ。もはやかつてのような敬意と尊敬の念は、この言葉にはなくなってしまっている・・・
これをどう理解したらいいか。
一ついえることは、『先生』という言葉には、二重の価値がパラレルに存在している、ということだ。一方で、先生は、『先生らしさ』という先入観にさらされて、『人間の模範』として生きなければならない。『赤髪の先生』や『モヒカンの先生』などあってはならない、と考えられている。その一方で、先生は、『つまらない人』、『ただの人間』、『退屈な授業をする人』と見なされている。あるいは、『友達のような存在』。このように自分を捉えている先生も少なくない。
まさに、一人の教師の中に二つの価値が潜んでいる。「聖人」か「俗人」か。どちらも、か? 教師を「つまらないただの人」と見なすならば、教師の不祥事も、他の職業の人と同様の扱いを受けなければならない。けれど、教師の不祥事は、どんな不祥事よりも強く叩かれる。その背景には、われわれの「教師=聖人=悪いことをしない/すべきでない」、という強い先入観がある。聖人とはいわないまでも、「教師=いい人」という図式は、未だ多くの人の意識の中にあると思われる。
多くの人は、未だなお、『先生は善い存在だ』という神話を有しているるのではないか。教師は、特別な善い存在(聖人)か、他の職業の人と同様、不正も悪も偽善も備えた俗的な存在か。その間はあるのか。考えたい問題がどんどん出てきてしまう。。。
『三歩下がって師の影踏まず』
おやじさんの時代では、先生の影を踏むなんてとんでもない、というのが「当たり前」だった、と話してくれた。
(そのもともとの意味は、師の影を踏んでしまうと、師を越えられなくなる、といった意味だそうだが、ここでは、一般的な意味で理解しておく)
『先生』という言葉は、かつての『先生』とは全然違う意味になってしまった、と考えてよさそうだ。もはやかつてのような敬意と尊敬の念は、この言葉にはなくなってしまっている・・・
これをどう理解したらいいか。
一ついえることは、『先生』という言葉には、二重の価値がパラレルに存在している、ということだ。一方で、先生は、『先生らしさ』という先入観にさらされて、『人間の模範』として生きなければならない。『赤髪の先生』や『モヒカンの先生』などあってはならない、と考えられている。その一方で、先生は、『つまらない人』、『ただの人間』、『退屈な授業をする人』と見なされている。あるいは、『友達のような存在』。このように自分を捉えている先生も少なくない。
まさに、一人の教師の中に二つの価値が潜んでいる。「聖人」か「俗人」か。どちらも、か? 教師を「つまらないただの人」と見なすならば、教師の不祥事も、他の職業の人と同様の扱いを受けなければならない。けれど、教師の不祥事は、どんな不祥事よりも強く叩かれる。その背景には、われわれの「教師=聖人=悪いことをしない/すべきでない」、という強い先入観がある。聖人とはいわないまでも、「教師=いい人」という図式は、未だ多くの人の意識の中にあると思われる。
多くの人は、未だなお、『先生は善い存在だ』という神話を有しているるのではないか。教師は、特別な善い存在(聖人)か、他の職業の人と同様、不正も悪も偽善も備えた俗的な存在か。その間はあるのか。考えたい問題がどんどん出てきてしまう。。。
2006年10月20日
大学の講義は面白くない?!
徳島の有名IT企業のジャストシステムが面白いアンケートを実施し、その結果を取りまとめた。「大学の中で一番面白くないこと」というアンケートだ。
ジャストシステムのアンケート結果はこちら
これを読むと、大学機関に勤める僕としては耳が痛い。大学生活の中で一番面白くないのは「講義」だ、というのだから。
その背景には、学生と大学教員との間の大きな隔たりがあるように思われる。「面白い講義」のお互いの価値観が全然違っていると思うのだ。大学機関は、本来、「研究すること」が主な存在理由であり、「真理の追究」という大きな目的を持っていた。教員は、まさに、「研究するということ」と、「研究するための基盤」を、講義を通じて、学生たちに伝えようとしている。大学教員にとって、面白い講義とは、自分が長い時間をかけて探求してきた成果の一部をきちんと学生たちの前で語るような講義である。もちろん、板書など可能な限りしないほうが良いし、分かりやすくて楽しいだけの無責任な事柄をペラペラと語らないほうが良い。
ところが、(一般的な)学生の側からみれば、「研究すること」をしたくて大学に入ってくるわけではないし、「真理の追究」など、一部の学生を除いて、全くどうでもよいことになってしまう。多くの学生にとって大切なのは、四年間どうやって友だちや恋人とエンジョイするかということで、「学問の追求」ではない。とりわけ、実社会で役立つ『実学』と直接に結びつかないような文学や哲学や形而上学や論理学は、学生たちにとっては、もはや(心地よい眠りを誘う)「呪文」にしか聴こえないのかもしれない。
学生と教員との間の溝はとてつもなく深いのかもしれない。その根底にはどんな背景があるのか。いろんな人がいろんなこと(例えば、今の大学は研究機関ではなくレジャー施設とか)を言っているので、いちいち取り上げたりはしないが、非常に深刻な問題だと思う。大学の講義は、これからどうなるのか? 学生が面白いと思い、教員が納得できる講義が一番理想的だが、それを作り出すのは容易ではなさそうだ。
僕も、面白い講義を!と心がけているが、ただの面白い講義だと僕自身が納得できない。僕が納得できる(抽象的な)内容を話すと、学生はつまらないと言う。どこまで学生たちの関心に近づけばいいのか。学生たちの関心や興味に合わせていたら、いつまでたっても「抽象的かつ形而上学的なレベル」に近づかない。(もちろん、そういう抽象的な議論に最初からついてくる学生も多々いるが・・・)
多かれ少なかれ、現代人は、分かりやすくて、手軽で、楽しくて、愉快で、日常的で、身近で、具体的で、実用的で、功利的なものを好む。そういう話を主に聴きたいなら、大学に行くのではなく、別の学校や勤め先に行った方がよい、そう考える教員は少なくないだろう。
今の社会は、大学の講義に何を望んでいるのだろう? 真理の追究や、学問の探求や、抽象的思考の育成や、普遍的な事柄の解明を大学に期待している人はどれだけいるのだろう。これまで培ってきた教養の伝統はもう途絶えてしまったのだろうか。
おまけ⇒続きを読む
ジャストシステムのアンケート結果はこちら
これを読むと、大学機関に勤める僕としては耳が痛い。大学生活の中で一番面白くないのは「講義」だ、というのだから。
その背景には、学生と大学教員との間の大きな隔たりがあるように思われる。「面白い講義」のお互いの価値観が全然違っていると思うのだ。大学機関は、本来、「研究すること」が主な存在理由であり、「真理の追究」という大きな目的を持っていた。教員は、まさに、「研究するということ」と、「研究するための基盤」を、講義を通じて、学生たちに伝えようとしている。大学教員にとって、面白い講義とは、自分が長い時間をかけて探求してきた成果の一部をきちんと学生たちの前で語るような講義である。もちろん、板書など可能な限りしないほうが良いし、分かりやすくて楽しいだけの無責任な事柄をペラペラと語らないほうが良い。
ところが、(一般的な)学生の側からみれば、「研究すること」をしたくて大学に入ってくるわけではないし、「真理の追究」など、一部の学生を除いて、全くどうでもよいことになってしまう。多くの学生にとって大切なのは、四年間どうやって友だちや恋人とエンジョイするかということで、「学問の追求」ではない。とりわけ、実社会で役立つ『実学』と直接に結びつかないような文学や哲学や形而上学や論理学は、学生たちにとっては、もはや(心地よい眠りを誘う)「呪文」にしか聴こえないのかもしれない。
学生と教員との間の溝はとてつもなく深いのかもしれない。その根底にはどんな背景があるのか。いろんな人がいろんなこと(例えば、今の大学は研究機関ではなくレジャー施設とか)を言っているので、いちいち取り上げたりはしないが、非常に深刻な問題だと思う。大学の講義は、これからどうなるのか? 学生が面白いと思い、教員が納得できる講義が一番理想的だが、それを作り出すのは容易ではなさそうだ。
僕も、面白い講義を!と心がけているが、ただの面白い講義だと僕自身が納得できない。僕が納得できる(抽象的な)内容を話すと、学生はつまらないと言う。どこまで学生たちの関心に近づけばいいのか。学生たちの関心や興味に合わせていたら、いつまでたっても「抽象的かつ形而上学的なレベル」に近づかない。(もちろん、そういう抽象的な議論に最初からついてくる学生も多々いるが・・・)
多かれ少なかれ、現代人は、分かりやすくて、手軽で、楽しくて、愉快で、日常的で、身近で、具体的で、実用的で、功利的なものを好む。そういう話を主に聴きたいなら、大学に行くのではなく、別の学校や勤め先に行った方がよい、そう考える教員は少なくないだろう。
今の社会は、大学の講義に何を望んでいるのだろう? 真理の追究や、学問の探求や、抽象的思考の育成や、普遍的な事柄の解明を大学に期待している人はどれだけいるのだろう。これまで培ってきた教養の伝統はもう途絶えてしまったのだろうか。
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2006年10月19日
■教育再生会議について■
「教育」。
教育は、いつの時代でも、活発に議論される大テーマだ。しかも、いつも「問題あり!」の視点で語られる。ダメなところが指摘され、「現行の教育は悪い」という前提から出発する。いつの時代も・・・
何にでも言えることだが、現存するすべてのものには、それが生まれたプロセスや背景というのがある。今ある教育も、それ以前の教育を更新しながら時間をかけて作られてきたものだ。教育を語るのであれば、「〜すべき」という議論から出発するのではなく、しっかり教育の歴史や背景を理解することから出発しなければならない(これは教育だけに限った話ではないだろう)。
ところが、教育というのは、誰にでも語れてしまうところがある。誰もが「教育」を経験しているからだ。法律や医療や物理や生物や数学よりも、語りやすいし、意見も言いやすい。だから、いわゆる「門外漢」が次から次に口を出してくる。(法律家や医師の言うことには素直に聞くのに、教師のいうことには素直に応じられない、といった例など)
これは、「権威」や「権力」の問題だけでなく、「教育」そのものに原因があるように思われる。その問題は別で触れることにして、「教育再生会議」。この会議の主なメンバーは、次の通り。
浅利慶太 劇団四季代表・演出家
池田守男 株式会社資生堂相談役
海老名香葉子 エッセイスト
小野元之 独立行政法人日本学術振興会理事長
陰山英男 立命館小学校副校長
葛西敬之 東海旅客鉄道株式会社代表取締役会長
門川大作 京都市教育委員会教育長
川勝平太 国際日本文化研究センター教授
小谷実可子 スポーツコメンテーター
小宮山 宏 東京大学総長
品川裕香 教育ジャーナリスト
白石真澄 東洋大学経済学部教授
張 富士夫 トヨタ自動車株式会社会長
中嶋嶺雄 国際教養大学理事長・学長
野依良治 独立行政法人理化学研究所理事長
義家弘介 横浜市教育委員会教育委員、東北福祉大学特任講師
渡邉美樹 ワタミ株式会社代表取締役社長・CEO、
こうして、メンバーを眺めてみると、「教育」や「教育学」の専門家がいないことに気付く。「学問」のスペシャリストや、企業人や、有名人(タレント)で成り立っている。いわゆる「オーソリティー」で編成されている。生々しい「教育現場」や生きた「子ども」について熟知している人がほとんどいない。「子どもの代弁者もどき」はいても、深く子どもという存在を捉えている有識者がいない。「強い大人側」の大人がずらりと並んでいるのだ。
こうした高尚な人々が「教育」について語るとき、どんな議論が生じるのだろうか。正直、生の議論の場所は見てみたい気もする。けれど、たとえ聴いても、子どもの理解にはつながらないだろうし、「操作的思考」から抜け出すこともできないだろう。(「どうしたらニッポンにとってよい人材が育成できるか」という発想から自由になれそうにない。「よきニッポン」が目的になることこそ、「操作的思考」の現われだ)
「再生論」はいつの時代でもあった。ただ、ここで一ついえることは、この会議での決定で、また子どもたちはますます忙しくなる、ということだ。システムが複雑になると、忙しくなるのは子ども(ないしは教師)の方。せめて今のシステムより「簡素」な方向に行ってくれることだけを望む。「あれもしよう」「これもしよう」じゃあ、子どもも教師もやってられない。バウチャーであれ、奉仕義務であれ、ますます子どもが忙しくなることは必死だ。
何かを新たに始めるだけじゃなくて、
何を削って、何を残すかの方が重要じゃないかな?と思う今日この頃。
教育は、いつの時代でも、活発に議論される大テーマだ。しかも、いつも「問題あり!」の視点で語られる。ダメなところが指摘され、「現行の教育は悪い」という前提から出発する。いつの時代も・・・
何にでも言えることだが、現存するすべてのものには、それが生まれたプロセスや背景というのがある。今ある教育も、それ以前の教育を更新しながら時間をかけて作られてきたものだ。教育を語るのであれば、「〜すべき」という議論から出発するのではなく、しっかり教育の歴史や背景を理解することから出発しなければならない(これは教育だけに限った話ではないだろう)。
ところが、教育というのは、誰にでも語れてしまうところがある。誰もが「教育」を経験しているからだ。法律や医療や物理や生物や数学よりも、語りやすいし、意見も言いやすい。だから、いわゆる「門外漢」が次から次に口を出してくる。(法律家や医師の言うことには素直に聞くのに、教師のいうことには素直に応じられない、といった例など)
これは、「権威」や「権力」の問題だけでなく、「教育」そのものに原因があるように思われる。その問題は別で触れることにして、「教育再生会議」。この会議の主なメンバーは、次の通り。
浅利慶太 劇団四季代表・演出家
池田守男 株式会社資生堂相談役
海老名香葉子 エッセイスト
小野元之 独立行政法人日本学術振興会理事長
陰山英男 立命館小学校副校長
葛西敬之 東海旅客鉄道株式会社代表取締役会長
門川大作 京都市教育委員会教育長
川勝平太 国際日本文化研究センター教授
小谷実可子 スポーツコメンテーター
小宮山 宏 東京大学総長
品川裕香 教育ジャーナリスト
白石真澄 東洋大学経済学部教授
張 富士夫 トヨタ自動車株式会社会長
中嶋嶺雄 国際教養大学理事長・学長
野依良治 独立行政法人理化学研究所理事長
義家弘介 横浜市教育委員会教育委員、東北福祉大学特任講師
渡邉美樹 ワタミ株式会社代表取締役社長・CEO、
こうして、メンバーを眺めてみると、「教育」や「教育学」の専門家がいないことに気付く。「学問」のスペシャリストや、企業人や、有名人(タレント)で成り立っている。いわゆる「オーソリティー」で編成されている。生々しい「教育現場」や生きた「子ども」について熟知している人がほとんどいない。「子どもの代弁者もどき」はいても、深く子どもという存在を捉えている有識者がいない。「強い大人側」の大人がずらりと並んでいるのだ。
こうした高尚な人々が「教育」について語るとき、どんな議論が生じるのだろうか。正直、生の議論の場所は見てみたい気もする。けれど、たとえ聴いても、子どもの理解にはつながらないだろうし、「操作的思考」から抜け出すこともできないだろう。(「どうしたらニッポンにとってよい人材が育成できるか」という発想から自由になれそうにない。「よきニッポン」が目的になることこそ、「操作的思考」の現われだ)
「再生論」はいつの時代でもあった。ただ、ここで一ついえることは、この会議での決定で、また子どもたちはますます忙しくなる、ということだ。システムが複雑になると、忙しくなるのは子ども(ないしは教師)の方。せめて今のシステムより「簡素」な方向に行ってくれることだけを望む。「あれもしよう」「これもしよう」じゃあ、子どもも教師もやってられない。バウチャーであれ、奉仕義務であれ、ますます子どもが忙しくなることは必死だ。
何かを新たに始めるだけじゃなくて、
何を削って、何を残すかの方が重要じゃないかな?と思う今日この頃。
2006年10月14日
熱血と根性VS自由と責任
今年のプロ野球、パリーグは、北海道日本ハムファイターズが優勝した。25年ぶりの優勝ということで、非常にめでたい出来事だった。千葉ロッテが優勝できなかったのはとても悲しくて悔しかったが、パリーグそのものを愛する僕にとって、そして、長年パリーグを見続けてきた僕にとって、日ハムの優勝は、素直に嬉しかった。
去年は、ボビー率いる千葉ロッテが優勝し、今年はヒルマン率いる日ハムが優勝した。二年続けて、外人監督が「優勝」へとチームを導いた。
ここで、僕はふと気になったことがある。
それは、日本の監督と欧米の監督のことだ。日本の監督は、(やや乱暴に言えば)熱血と根性がベースになっているような気がする。日本の監督というより、日本の教育のベースに、熱血と根性という価値観が流れているように思われる。冷静な名監督だった広岡監督も森監督も、ホットで熱い星野監督も、中日の落合監督も、分析的なノムさんも、みんな熱血と根性がベースになっているように見えるのだ。もちろんその現場を直接見ているわけではないので、なんともいえないが、日本の監督はどうも厳しくて固くて精神論好きのように思える。選手たちもやはり真面目で熱血で、根性で生きているように見える(長島監督だけはどうも典型的日本人の像からはかけ離れてしまう)。
その一方、ヒルマン監督やボビーは、選手たちを必要以上に管理したり、コントロールしたりしないように思われる。里崎選手らのブログも、新庄選手の自由奔放さも、外国人監督ならではのような気がしてならない。根底に、自由さがあるように思われる。必要以上の精神論は説かず、ファンが喜び、チームが和むのであれば、ある程度の暴走も容認する。その代わり、選手ひとりひとりの成果に対しては非常にクールに判断している。自由を与える代わりに責任を問う。熱血であっても、熱血でなくてもどっちでもいい。ど根性で頑張っても、頑張らなくてもいい。ようは打てばいい。ある意味、究極のプラグマティズムが外国人監督の根底にあるように見えるのだ。外国人監督は、普段は誉めて誉めて誉めまくるような気がする。彼らが厳しいのは「結果」だけで、それ以外は非常にラフで自由なような気がする。
日本の熱血精神・ど根性精神とアメリカの自由と責任。
ある意味で、非常に象徴的な対立のようにも思われるのだ。
これまでは、同じ日本人の監督のもとで、同じように頑張ってくればよかった。けれど、来年も外国人監督のチームが優勝したとしたら・・・きっと日本の野球のあり方そのものが見直されだすだろう。来年、西武の松坂がメジャーに行く。すでに多くの選手がアメリカに行っているが、それは、単にブランドが高いというだけではなく、日本の野球の仕方そのものへの反発なのかもしれない。日本は日本のやり方で、というのは正しいのか、間違えなのか。
熱血と根性が、人を育てるのか。
自由と責任が、人を育てるのか。
これは、教育学的にも、永遠の循環の問題でもある。
ボビー・バレンタインの実践思想についてはこちら
去年は、ボビー率いる千葉ロッテが優勝し、今年はヒルマン率いる日ハムが優勝した。二年続けて、外人監督が「優勝」へとチームを導いた。
ここで、僕はふと気になったことがある。
それは、日本の監督と欧米の監督のことだ。日本の監督は、(やや乱暴に言えば)熱血と根性がベースになっているような気がする。日本の監督というより、日本の教育のベースに、熱血と根性という価値観が流れているように思われる。冷静な名監督だった広岡監督も森監督も、ホットで熱い星野監督も、中日の落合監督も、分析的なノムさんも、みんな熱血と根性がベースになっているように見えるのだ。もちろんその現場を直接見ているわけではないので、なんともいえないが、日本の監督はどうも厳しくて固くて精神論好きのように思える。選手たちもやはり真面目で熱血で、根性で生きているように見える(長島監督だけはどうも典型的日本人の像からはかけ離れてしまう)。
その一方、ヒルマン監督やボビーは、選手たちを必要以上に管理したり、コントロールしたりしないように思われる。里崎選手らのブログも、新庄選手の自由奔放さも、外国人監督ならではのような気がしてならない。根底に、自由さがあるように思われる。必要以上の精神論は説かず、ファンが喜び、チームが和むのであれば、ある程度の暴走も容認する。その代わり、選手ひとりひとりの成果に対しては非常にクールに判断している。自由を与える代わりに責任を問う。熱血であっても、熱血でなくてもどっちでもいい。ど根性で頑張っても、頑張らなくてもいい。ようは打てばいい。ある意味、究極のプラグマティズムが外国人監督の根底にあるように見えるのだ。外国人監督は、普段は誉めて誉めて誉めまくるような気がする。彼らが厳しいのは「結果」だけで、それ以外は非常にラフで自由なような気がする。
日本の熱血精神・ど根性精神とアメリカの自由と責任。
ある意味で、非常に象徴的な対立のようにも思われるのだ。
これまでは、同じ日本人の監督のもとで、同じように頑張ってくればよかった。けれど、来年も外国人監督のチームが優勝したとしたら・・・きっと日本の野球のあり方そのものが見直されだすだろう。来年、西武の松坂がメジャーに行く。すでに多くの選手がアメリカに行っているが、それは、単にブランドが高いというだけではなく、日本の野球の仕方そのものへの反発なのかもしれない。日本は日本のやり方で、というのは正しいのか、間違えなのか。
熱血と根性が、人を育てるのか。
自由と責任が、人を育てるのか。
これは、教育学的にも、永遠の循環の問題でもある。
ボビー・バレンタインの実践思想についてはこちら
2006年10月02日
オーストリアで学んだこと。
僕の『短期留学』もあと残り二日。
@スザーネさんとの協働の仕事はとても楽しかった。そして、学ぶことも多かった。彼女も、僕との協働を歓迎してくれた。貴重な時間をだいぶ割いてくれて、たくさん議論ができた。
ABaby-Klappe/BabyNestの挑戦も興味深かった。赤ちゃんを助ける、緊急時にある親を助ける、徹底した救済主義に感銘を受けた。能書きの前にとにかく救う。そういう強い姿勢が垣間見られた。
B学童保育の一場面を見て、『遊び』を通じた保育の重要性を再認識。遊びは、人間の根源となる人間性を養う。遊びを初等教育の中心においているオーストリアは、日本と似ていた。徹底した遊び主義。そして、造形や遊具を通じた感性の教育。
Cこっちの初等教育の専門指導員の教育プログラムについても生で聴くことができた。こっちは、とにかく実習の嵐。講義もあるが、メインは実習。高校を出てすぐ高等教育機関に入る。そして、最初の学期にもう2週間の実習。実習の量は、日本の比ではなかった。
Dそして、数々の対話の中で感じた『個人主義』と『共同性』。こっちの人は、『相手が自分をどう見るか』ということに囚われない。ちょっと太っていたって、お腹丸出しの服装をする。女性であっても腋毛をそらないで丸出しにする人も少なくない。いくら顔がまずくても、全然ひるまない強気な姿勢。日本ほど、体型や外見に対するコンプレックスが激しくない。そして、根源的な孤独というか、親しくてもたえずとどまる他者との距離。絶対的な『私』の存在。
一つ印象的だったのは、重度の障害者の叔父さんが電動車いすで移動していた。右手に小さな子どもを抱えて、左手で運転をしていた。もちろん介助者などいない。平然と子どもを抱っこして、街を歩いているのだ。周りの人たちは全然彼らをじろじろみない。「個人主義」の障害者の姿を目のあたりにした。「おれはおれ」。「わたしはわたし」。強いアイデンティティーを感じずにはいられなかった。
スザーネさんの文章も、根底に「アイデンティティー」の問題が潜んでいた。
「他者とつながりたい」という願望ではなく、
「他者とはつながれない」という絶望。
「他者の視点」に惑わされるのではなく、
「自分の視点」を自分にも相手にも求める姿勢。
こうした「個人主義」が土台となって、「共同性」が問題となる。絶対的な私が、絶対的な他者とどうかかわるのか。ハンスハインリッヒおじいさんは、「パートナーシップ」と言っていた。パートナーは、あくまでも自立した個人と自立した他者が共に生きることを言う。
そこには、たえず「孤独」と「隔絶」と「距離」がある。だからこそ、他者を欲する。他者とどう生きていくか。ヨーロッパは常にこの問題と向き合ってきたように思う。今のユーロは、まさにそうした「他国との共生」というプロジェクトを果たそうとする無謀かつロマンティックな試みなのかもしれない。もうオーストリアとドイツの国境は政治上のものでしかない。もちろんオーストリア人としてのアイデンティティーが消滅したわけではない。けれど、個人主義がゆえの連帯意識は、かなり強いと思う。日本はどうなのだろう? 日本でも「他者とつながりたい」という願望はある。けれど、こっちの「他者とつながりたい」という願望とは全然質の違ったものであるように思われる。
以上、多くのことを吸収できた。そして、新たに一つの問いを手にした。『ヨーロッパの根底に流れる個人を重んじる思想は、現在、どのような仕方で表出されているのか?』。その一つの現れが、BabyNestのように思われるのだ。
2006年09月09日
真夜中の家族の悲痛な叫び
深夜、ずっと翻訳の仕事をしていた僕。
もう外は涼しいので、網戸にして、夜の風をやさしく感じていた。仕事は山場を迎えていた。いよいよ仕事が終わる、、、というとき。
外で、なにやら叫び声が聴こえてきた。いつものような若者の酔っ払った声じゃない。結構年配の方の声だった。その声は尋常ではなかった。
ベランダに出て、外を見ると、お父さんとお母さん、そして娘がいた。お母さんが、娘に向かって、ものすごい勢いでなにやら叫んでいる。
見たところ、夜の世界を徘徊する娘を、両親が探して、見つけた場面だったようだ。両親の悲痛な叫びが真夜中の街に響き渡っていた。「あんた、いったいこんな時間になにしてんのよ!!!」
娘はとても冷静そうだった。けれど、すごい反抗心むき出しだった。父親は、ただただ、荒れ狂う母親を抑えることで精一杯だったようだ。黙って、荒れ狂う母親をなだめるしかできていなかった。父親の苦しみも伝わってきた。母親も、愛する我が娘だからこその怒りのように見えた。(それにしても、すごい音量だ・・・はっきりいって真夜中の騒音だった。)
娘は、母親の怒り、わめきをどのように受け止めていたのだろう。マンションのベランダからでは窺うことができなかった。
年頃の女の子、しかも反抗心むき出しの女の子をもつ親と、娘の葛藤。女の子の服装からしても、かなり派手な娘さんのように見えた。
すごくリアルだった。
僕もかつてお年頃だったころ、父親と真夜中に大喧嘩をした。父も僕も必死だったと思う。殴り合いだった。真夜中の叫びは日常茶飯事だった。あの日のころを思い出した。この真夜中の母と娘の言い争いにも、僕の経験に近いものがあると思った。しかし、凄まじかった。
子育て、特にお年頃の子どもと親とのぶつかり合いは、半端じゃない。そういう場面だった。母親は、思い余って、愛する愛娘をひっぱたく。それを黙って止めに入る父親。父親も母親も、そして娘も必死そうに見えた。でも、他人が介入できるようなものでもない。しばらくして、激しい罵倒が少し沈静化したところで、家族三人、家に帰っていった。
子育ては命がけ。
真夜中の僕は、すごく考えさせられる場面に偶然遭遇してしまった。午前四時、まだ太陽の昇る前の一エピソードだった。
2006年08月20日
■方向喪失■
ドイツ語で、Orientierungslosigkeitという言葉がある。
日本語に訳すのがとても難しい言葉だけど、すごく納得できる言葉なのだ。
直訳すると、「傾向を失うこと」、「方向性を失うこと」みたいな感じになる。
前に、ドイツ人の若者と話した時の日常会話に登場したことがある。
kei「君は大学生だっけ?」
C君「そうだよ」
kei「卒業したらどうするの?どんな仕事したいの?」
C君「・・・ 難しい質問をするね」
kei「フフフ」
C君「う〜ん、最近、方向を見失っているんだよね」
こんな感じで使われる「方向喪失」。
C君とは全然意味合いが違うけど、僕も、31年生きてきて、心の奥底で、そういう感情があることに最近気付く。
「僕はこれからどうなるんだろう?」
そういう根源的な問いが、僕のどこかでグルグル回っていることに気付く。もちろん「どうなるか」のたいていの予想はつく。だけど、そういうことじゃなくて、根源的に、「どうなるんだろう?」と問いたくなるのだ。
20代までは、なんか全部に一生懸命で、必死で、一日一日を全力で生きてきた気がする。もちろん今も全力投球で生きてはいるんだけど、なんか違うんだ。「何かのため」という大儀がないのだ。かつては、たしかに「何かのため」に頑張ってきた。けど、今は、「何かのため」が不在のまま、ただただ一生懸命な気がする。仕事にも追われている。やるべきことはたくさんある。けれど、それが、自分の人生全体の中で、うまく位置づけられないのだ。「今こうしてこうすることは、人生全体の中でこういう意味があるんだ」というような意味づけ。位置づけ。
仕事にやりがいがないわけではない。だけど、人生全体の中の位置づけがうまくいかないから、「何の為にやっているのか」が分からない。
このまま、仕事に追われて、歳をとってしまい、病に臥せるのではないか。何も達成できないまま、老いてしまうのではないか。けれど、今の生活から逃避するほど、差し迫って追いつめられているわけもない。ただ漠然と、「今の自分を生きること」が不安になる。
多分、一時的な感情なんだと思う。きっとまた明日になれば、仕事や日々の活動に追われて、「気の迷いだった」と、思い過ごすんだと思う。でも、今のこの瞬間の僕は、たしかに『方向喪失』を感じている。でも、どうしようもない。そういう感覚を、単なる気の迷いにしないで、自分の人生全体の中で、この方向喪失を、どうにか位置づけたいと思う。でも、どうしたらいいのかは分からない。
また、いつ日か、そういう『方向喪失』を感じるんだと思う。またその日がきたら、今日のこの日のことを思い返したいと思う。
see you...zzz
2006年08月14日
なぜ算数・数学を学ばなければならないのか?
算数/数学は、最も純粋な学問である。(アリストテレスは、これを、自然学として、最も純粋な学問と考えた)
算数/数学は、あらゆる勉強・学問の基礎である。(プラトンは門下生に30歳まで数学だけを勉強させていた)
算数/数学は、最も苦手になりやすい学問の一つである。(体育嫌い、音楽嫌い、国語嫌いよりも圧倒的に多い。ただ、社会、歴史なども嫌われる学問(教科)の一つである)
算数/数学は、「なぜ学ばなければならないのか」、ということが最も説明しにくい学問である。(と、同時に、「なんで数学なんて勉強しなきゃいけないんだよ?!」、「サインコサインタンジェント、覚えても意味がない!!」という子ども・青年もすごく多い)
このことに反論をする人はあまりいないだろう。
ボクは、ずっとこのことを考えていた。なぜ算数・数学は、大切な学問であるにもかかわらず、その価値が(一般の子ども・大人に)認められにくいのか。あるいは、算数/数学だけではなく、『教養一般』の価値は何なのか?? 教養とは何なのか?
で、この二年間くらい、学生たちと、『一般教養』を勉強してきて、自分なりに、教養について考えてきた。特に、冒頭の「算数・数学を学ぶのはなぜか」という問いについては、かなり考え、悩んだ。
そして、とりあえず、自分なりの解答を見出した。
結論から言えば、「算数/数学を学ぶということ」は、「演繹法的発想のレッスンをする」、ということだ。つまり、「普遍から特殊を考えるレッスン」、「一般から個別を考えるレッスン」、「抽象から具体を考えるレッスン」をする、ということだ。
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2006年08月10日
数字でみる現代の教育事情◆学校基本調査
yahoo!トップ記事で、こういうのがありました。
『中学不登校割合、4年ぶり増加=生徒36人に1人−05年度学校基本調査・文科省』
学校基本調査は、毎年文部科学省によって行われる学校教育の実情を数字で示す貴重な調査だ。
学校教育の現状を実数で示すことで、僕らに色んなことを教えてくれる。僕らの社会は、学校社会と切り離すことができない。社会的な自分の一生は学校と共に始まるし、学校生活を終える頃には、ほぼ自分の人生の筋書きは決まるといっても過言ではない(もちろん『全て』ではないが!!!)
この調査は、じっくり読むと面白いので、是非。僕も、一応まとめておこう(自分のために)。例えば、現在の小学生〜大学院生の数はどれくらい? 進学率は? 教員数は? 就職率は? といった素朴な疑問にはほぼ答えてくれている。(大学院のデータはすごく面白い!)
『学校基本調査』のHPはこちら
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2006年07月31日
『謙虚になれない先生』の今の僕
昨日から今日にかけて、とある教育関係の研究会合宿に参加した。
この会は、僕が学生のころから通い続けている研究会で、僕の足場というか、僕を0から育ててくれている研究会。大学一年の頃から参加し続けているので、計12年間参加し続けていることになる。現場の教師、教育研究者が集まり、互いの実践を見合ったり、検討し合ったりする。そして、教師とは何か?教師の実践とはどういうものか? どこまで授業を深められるか、どこまで自分自身を鍛え上げられるか、といったかなりコアな問いに真正面からぶつかっていく会で、参加者自身の気付きや反省を迫る。
折に触れて、僕もこの会で、様々な実践発表を行ってきた。学生時代のボランティア実践、障害者との学びの会(詩の解釈や絵の実践など)、自閉症児とのやりとり、不登校児の支援、教育実習の実践、福祉教育実践、老人ホームでの小学生の授業、自分の実践と呼べる実践はほとんどこの場で発表して、そのつど、いろんな人からアドヴァイスや厳しい意見やきつい指摘を受けてきた。いつも絶えず、無謀な僕を軌道修正してくれる、問題発見・課題発見の場であった。
今回は、はじめて、『模擬授業』というのをやらせていただいた。『模擬授業』は、実際に、現職の教師たちの前で、授業をやる、そして、実際に、授業の空間を作る、というもの。教師人生3年目の僕は、自分の実際の講義/授業を、そのまま、この研究会でやることになった。これは、かなりきつい作業だ。(かなり気合の入った、レベルの高い)先生の前で、新米教師の僕が、実際に授業をやる、というのは、自殺行為に等しい。自分の無力さや非力さを、ただただ思い知らされるだけだからだ。でも、やらないよりは、やった方がマシ。というか、『やってなんぼの世界』が教師の世界なので、兎にも角にもやってみるのが先と思い、挑戦してみた。
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2006年07月21日
テストでいったい何をテストしているのか?!
今日は、ロック人間keiから、教師keiに向かって語りかけてみる。
テストを受ける立場から、テストを行う立場に変わった。
テストは、きっとすべての日本人が苦しめられてきた産物だろう。テストで100点を取れば嬉しくて、0点をとれば泣けてくる。100点を取って嬉しくない人はほとんどいないだろう。また、0点を取って心から嬉しい人はどれだけいるだろうか?
そんな身近な存在であるテスト。
でも、一体テストで何をテストしているのか?!
授業や講義で教えたこと(知識)を、受講している学生/生徒がきちんと理解しているかどうかをチェックするのがテスト?(検査?) 例えば、矢野眞和氏はこのように述べている。
頭のいい学生とそうでない学生を区別するのがテスト?(試金石?)金銀の学生と金銀でない学生を区別できれば、エリート、非エリートを明確に線引きすることができるだろう。(選抜システムとしてのテスト制度)
参考記事も是非!
テストを行う側に立ってみると、いったいテストで何を計ろうとしているのかが分からない。「学んだ知識が身についているかどうか」というのが妥当な答えだろうけれど、「身についているかどうか」をきちんと計れているのかどうか・・・
続きはこちら→続きを読む
テストを受ける立場から、テストを行う立場に変わった。
テストは、きっとすべての日本人が苦しめられてきた産物だろう。テストで100点を取れば嬉しくて、0点をとれば泣けてくる。100点を取って嬉しくない人はほとんどいないだろう。また、0点を取って心から嬉しい人はどれだけいるだろうか?
そんな身近な存在であるテスト。
でも、一体テストで何をテストしているのか?!
授業や講義で教えたこと(知識)を、受講している学生/生徒がきちんと理解しているかどうかをチェックするのがテスト?(検査?) 例えば、矢野眞和氏はこのように述べている。
テストで測り得るものは、基本的にどの程度知識を身につけたかということだと思うんですよ。知識以外の人間的なものを測るのは難しいし、むしろ逆に、これが測れたら非常に恐ろしいと思うんですね。人間性をテストによって測ることが可能になった社会を想定すれば、あまりハッピーではない。(引用元)
頭のいい学生とそうでない学生を区別するのがテスト?(試金石?)金銀の学生と金銀でない学生を区別できれば、エリート、非エリートを明確に線引きすることができるだろう。(選抜システムとしてのテスト制度)
参考記事も是非!
テストを行う側に立ってみると、いったいテストで何を計ろうとしているのかが分からない。「学んだ知識が身についているかどうか」というのが妥当な答えだろうけれど、「身についているかどうか」をきちんと計れているのかどうか・・・
続きはこちら→続きを読む
2006年07月15日
◆苦悩するドイツの教師たち◆
昨日のネット記事。現在のドイツの教育問題の一端が垣間見られる記事だったので訳してみました。ドイツの中学校教師もたいへんそうです。特に、中学生の暴力問題は深刻そうです・・・(kei)



Studie: Arbeitsbelastung von Lehrern größer als bislang bekannt
研究:これまで以上に増大する教師の労働負担
7月14日(ドイツ)
Freitag 14. Juli 2006, 15:52 Uhr
記事の中身(翻訳)はこちら⇒続きを読む
Studie: Arbeitsbelastung von Lehrern größer als bislang bekannt
研究:これまで以上に増大する教師の労働負担
7月14日(ドイツ)
Freitag 14. Juli 2006, 15:52 Uhr
記事の中身(翻訳)はこちら⇒続きを読む
2006年07月07日
『与えられないと何もできない若者』
今日は出張だった。出張先で、高校の先生と対話することができた。そして、現代の高校生と直に接する先生から、色んな話を聴かせてもらえた。
その中で、印象に残った言葉が、
「与えられないと何もできない」
ということだった。今の若者たちは、かつての自由を求めた若者とは違い、大人から与えられることを待っている、というのである。
与えられることはきちんとやる。だから、彼らは与えられることを期待している。だから、高校の教師も、必至に何かを与えようとする。何かを与えれば、生徒たちは安心する。だから、どんどん何かを与えようと懸命になる。自由な校風の学校は敬遠され、過保護で何でも与えてくれる高校に人気が集中する。だから、どんどん生徒たちは、何かを与えられることを待つようになる。受身になる。その結果、自分の意思で責任をもって何かに取り組もうという意欲が失せてしまう。
親も同じようなことを期待する。あれやこれやと「してくれる学校」が「いい学校」になる。「なにもしてくれない学校」は、「なにやってるんだ?!」と思われてしまう。まさに「至れり尽くせり」こそ、「良い学校」の基準になってしまっている。
親と子と社会の共犯関係かもしれない。どんどん、学校は過保護になっていく。成人社会は相変わらずシビアで冷たいのに、学校はどんどん過保護になっていっている。きっと、親たちも「子の自立」を願っているのだろう。だけど、実際には、自立を阻む過剰な保護が、生徒自身の自己啓発を阻んでしまっている、というのである。
以上、このような話を聴かせて頂いた。「対話」に真摯に応じてくれた先生方には感謝したい。
続き⇒続きを読む
その中で、印象に残った言葉が、
「与えられないと何もできない」
ということだった。今の若者たちは、かつての自由を求めた若者とは違い、大人から与えられることを待っている、というのである。
与えられることはきちんとやる。だから、彼らは与えられることを期待している。だから、高校の教師も、必至に何かを与えようとする。何かを与えれば、生徒たちは安心する。だから、どんどん何かを与えようと懸命になる。自由な校風の学校は敬遠され、過保護で何でも与えてくれる高校に人気が集中する。だから、どんどん生徒たちは、何かを与えられることを待つようになる。受身になる。その結果、自分の意思で責任をもって何かに取り組もうという意欲が失せてしまう。
親も同じようなことを期待する。あれやこれやと「してくれる学校」が「いい学校」になる。「なにもしてくれない学校」は、「なにやってるんだ?!」と思われてしまう。まさに「至れり尽くせり」こそ、「良い学校」の基準になってしまっている。
親と子と社会の共犯関係かもしれない。どんどん、学校は過保護になっていく。成人社会は相変わらずシビアで冷たいのに、学校はどんどん過保護になっていっている。きっと、親たちも「子の自立」を願っているのだろう。だけど、実際には、自立を阻む過剰な保護が、生徒自身の自己啓発を阻んでしまっている、というのである。
以上、このような話を聴かせて頂いた。「対話」に真摯に応じてくれた先生方には感謝したい。
続き⇒続きを読む
2006年06月12日
2006年06月05日
バカしこい大人になろーぜ!
僕の最高の誉め言葉は「バカ」!!
バカって言われたら、どう感じますか? 状況にもよるけれど、基本的にバカやって生きていったほうが、人生楽しい。
バカにもいろんな意味がある。「野球バカ」、「サッカーバカ」、「ロックバカ」、こういうバカは、「そのことしか考えていないバカ」という意味でのバカだ。一日中、好きなこと、やりたいことだけをやっているバカだ。こういうバカは、ホント幸せだろう(でも、こういうバカはなかなかなれるものじゃない・・と思う・・)
また、先生とか上司とかに、「おまえ、バカだな」と言われた時、そのバカは、「みんなが出来ることができていない」、という意味になる。こういう文脈で、「バカ」って言われると、ちょっと傷つくかも、、、
けれど! みんなに出来ることなら、別の人にやってもらえばいい。譲ってしまえばいい。自分ひとりだけができないなら、逆に、それは嬉しいことになる(「できないこと」が貴重になるから)。みんなができるのなら、やれなくたってOK!! 逆に、みんながやっていないことや、やれないことを力いっぱいやればいい。そうしたら、自分にしかできないすごいことができるようになるかもしれない。ね、エジソン!
バカはバカでも、本当のバカだと、紙一重で、頭いい人になっちゃう。イチローなんかは、見るからに「野球バカ」。だけど、すごく頭のいい人だと思う。また、「ロックバカ」のあっちゃん(ニューロティカ)は、すごく賢い人だと思う。歌詞も、すごくシンプルなんだけど、味がある。ラーメンだけに命をかけるラーメン屋さんの店主の熱中ぶりも、やっぱり「ラーメンバカ」だ。けど、「すごいラーメン店主」になる。教師にだって、たくさんのバカがいる。与えられた仕事だけに満足できなくて、朝から晩まで子どもたちとバカやってる先生なんて、かっこいいと思っちゃう。僕の学生には、「ブランドバカ」もいる。服のブランドの名前を尋ねると、延々とブランド名が言えちゃう女学生なんて、ホント、服バカだ!
バカには、知識が必要なのだ。しかも、知っていても一円の価値のないような知識ばっかり。でも、知りたくなっちゃう。そして、覚えちゃう。人間の知恵って、こういう「バカ」から生まれてくるような気がしてならない。
バカでいいんだ!でも、バカだからこそ、賢くならなければならない。っていうか、見せかけの頭の良さじゃない、本当の賢さは、バカやる中で磨かれるように思うのだ。もっと、はじけちゃっていい。周りにドンビキされても構わない。自己満足はまずいけど、自己の満足は、人間の原動力になるに違いない。
そんなことを考えていたら、この言葉が浮かんだ!
バカしこい大人になろーぜ!
いい言葉でしょ?!?
追記⇒続きを読む
バカって言われたら、どう感じますか? 状況にもよるけれど、基本的にバカやって生きていったほうが、人生楽しい。
バカにもいろんな意味がある。「野球バカ」、「サッカーバカ」、「ロックバカ」、こういうバカは、「そのことしか考えていないバカ」という意味でのバカだ。一日中、好きなこと、やりたいことだけをやっているバカだ。こういうバカは、ホント幸せだろう(でも、こういうバカはなかなかなれるものじゃない・・と思う・・)
また、先生とか上司とかに、「おまえ、バカだな」と言われた時、そのバカは、「みんなが出来ることができていない」、という意味になる。こういう文脈で、「バカ」って言われると、ちょっと傷つくかも、、、
けれど! みんなに出来ることなら、別の人にやってもらえばいい。譲ってしまえばいい。自分ひとりだけができないなら、逆に、それは嬉しいことになる(「できないこと」が貴重になるから)。みんなができるのなら、やれなくたってOK!! 逆に、みんながやっていないことや、やれないことを力いっぱいやればいい。そうしたら、自分にしかできないすごいことができるようになるかもしれない。ね、エジソン!
バカはバカでも、本当のバカだと、紙一重で、頭いい人になっちゃう。イチローなんかは、見るからに「野球バカ」。だけど、すごく頭のいい人だと思う。また、「ロックバカ」のあっちゃん(ニューロティカ)は、すごく賢い人だと思う。歌詞も、すごくシンプルなんだけど、味がある。ラーメンだけに命をかけるラーメン屋さんの店主の熱中ぶりも、やっぱり「ラーメンバカ」だ。けど、「すごいラーメン店主」になる。教師にだって、たくさんのバカがいる。与えられた仕事だけに満足できなくて、朝から晩まで子どもたちとバカやってる先生なんて、かっこいいと思っちゃう。僕の学生には、「ブランドバカ」もいる。服のブランドの名前を尋ねると、延々とブランド名が言えちゃう女学生なんて、ホント、服バカだ!
バカには、知識が必要なのだ。しかも、知っていても一円の価値のないような知識ばっかり。でも、知りたくなっちゃう。そして、覚えちゃう。人間の知恵って、こういう「バカ」から生まれてくるような気がしてならない。
バカでいいんだ!でも、バカだからこそ、賢くならなければならない。っていうか、見せかけの頭の良さじゃない、本当の賢さは、バカやる中で磨かれるように思うのだ。もっと、はじけちゃっていい。周りにドンビキされても構わない。自己満足はまずいけど、自己の満足は、人間の原動力になるに違いない。
そんなことを考えていたら、この言葉が浮かんだ!
バカしこい大人になろーぜ!
いい言葉でしょ?!?
追記⇒続きを読む
2006年06月01日
苦悩する『ヴィジュアル系世代』の人々
『ヴィジュアル系』を愛した人々はどのような人々か。
ヴィジュアル系に夢中になった世代は、BOOWY世代以後の人々だと思う。BOOWY世代は、バブル世代以前からバブル世代にかけての代だ。現在33歳くらいから40歳くらいまでの人に、BOOWYファンは多いように思われる。
ムーブメントの視点からすると、BOOWYよりも、ヴィジュアル系の方が圧倒的にその支持者数は多かった。東京ドームで当たり前のようにライブをするバンド、東京ドームを超えて、10万人ライブをやってのけたバンド、アジアツアーまでやってしまったバンドなど、とんでもない盛り上がりを見せていた。
このヴィジュアル系の時代を支えた人たちを、「ヴィジュアル系世代」と呼ぶならば、どんな世代が、ヴィジュアル系を支えたのか。ずばり、団塊ジュニア世代〜それ以後の世代の若者だったように思う。
今の25歳くらい〜35歳くらいまでの人々が、ヴィジュアル系に熱狂した。この世代は、香山リカの「貧乏クジ世代」に近いと思う。また、貧乏クジをひかされ、暗く沈んだ世代だと思う。バブルのときのような大はしゃぎはない世代だ。暗くじめっとした世代。そして、「絶望」、「喪失」、「刹那」といったネガティブな言葉に共感した世代だ。
ヴィジュアル系が流行した背景には、やはり、厳しい現実、逃避したい仮想現実への欲求、社会からの逃避、自己愛的自己像、そういう概念が潜んでいるように思われる。社会の閉塞感が、ヴィジュアル系を背後で支えていたのではないか。
ヴィジュアル系のムーブメントが崩壊し、ポストモダン的な音楽ジャンルの相対主義化が起こった。そして、歌謡曲は、スローでメロウな優しい曲ばかりになってしまった。ヒップホップやレゲエなどがヴィジュアル系に代わって台頭してきたが、ヴィジュアル系ほどのムーブメントにはなっていない。また、ヴィジュアル系も、衰退したとはいえ、未だに多くの支持者層を獲得している。武道館クラスのライブを普通にやれるバンドは、まだたくさんいる。だが、今の時代に、ヴィジュアル系はそぐわないのではないか。
70年代生まれのかつての若者たちに共通する「悲壮感」は、80年代生まれの若者にはないのかもしれない。80年代生まれの若者は、90年代以降のロック・ポップスを聴いて育ってきた。また、バブル時代もリアルには知っていない。世の中の浮かれも知らない。ハッピーでバブリーな大学生なんて、想像できないかもしれない。
ヴィジュアル系は、日本においては、まさに、時代とシンクロする形で、一世を風靡したのではないか。つまり、バブル崩壊後に登場した若者たち、退廃的・デカダントな雰囲気の中で陰鬱に育ってきた若者たちがいたからこそ、ヴィジュアル系は一大ムーブメントになり得たのだろう。もちろん音楽的流行であったが、それだけでなく、ヴィジュアル系は、まさにその世代を写す鏡だったのかもしれない。。。
2006年05月29日
今、学校が荒れている?!
最近、学校が再び荒れ始めている、という話を聴くことが多い。
うちの学生たち世代(昭和60年〜62年生まれ世代)は、『ゆとり時代』の申し子で、のんびりしていて、ほんわかしている。まさに、ゆとりをもって育ってきた、という感じがする。
だが、そのうちの学生たちの話によると、彼らの下の世代の若者たちがかなり荒れている、というのである。平成生まれの若者たちが学校で荒れている??? そんな?!
しかし、今日、YAHOOで、まさにこういう「学校の荒れと危機管理」に関する記事(産経新聞)が掲載された。
こちら
うちの学生たちの話だと、「私の弟の中学校の話。最近、ナイフを持ってくる中学生がいるんです。二年生が持ってきて、授業中に、一年生のクラスに入っていき、脅かす。先生に対しても、ナイフを突き出す。だから、恐くて、休み時間に教室から出られない・・・」、というのだ。ホントか?!?と思い、たくさんの学生に聞くと、そういう話を最近聴く、という答えが複数得られた。
いじめや不登校も問題だ。が、「ナイフの持込」は、それ以前の問題ではないか??と思う。学校は、公共施設であり、安全でなければならない空間である。そこに、人の命を奪うことの出来るナイフを持ってくる、というのは、問題以前の問題ではないか?? 命の保障のない場所に、「義務教育」として、自分の我が子を送り込むことなど絶対にできないはずだ。
「学校へのナイフの持込」は、「なぜ」という疑問を立てる以前に、ダメなのではないか?? (僕もそうだったけど)子どもって、かっとなったら、自分でブレーキをかけることができない。歯止めをかけることが難しい。興奮するし、ひくにひけなくなる。
「義務教育」、「教育を受ける権利」は、絶対に保守せねばならない概念だけれど、それ以前に、学校での生活の保障、学校で生存する権利があってはじめて、義務教育は成立するのではないか??
学校は、(することがたくさんあって、たいへんだと思うけれど)もう少し、安全や生活の保障といった福祉的発想をもった方がいいのかもしれない。「子どもの生活の保障」(⇒子どもが学校で安全に生きる保障)がなければ、親は子どもに「学校に行け」とは言えなくなるだろう。親は、まず子どもを守る存在だからだ。
僕は、かつて学校で「生命の危険」を感じたことがあった。だから、根本的に、学校に対する不信感が強い。不特定多数の人間が集まる場所には、色んな人間がいる。その中で、最低限のマナー・道徳・倫理がなければ、たちまち混沌(カオス)の状態となってしまう。学校が、安全な場所、本来の意味での『閑暇(世俗的な場所からかけ離れた場所=ゆとりをもって真理を追究する場所)』であることを切に願う。
2006年05月10日
『キラキラしたことがしたいんです』
先日、或る一人の学生と対話した。
彼女は、卒業後の進路のことで悩んでいる。いや、悩んではいない。自分の「行くべき道」は、明確に決まっているからだ。しかし、こころのどこかで苦悩してしまう。「行くべき道」がはっきりとしているからこそ、心のどこかで「違うもの」を求めてしまう自分に気づいてしまう、と言うのだ。
それは、『キラキラしたことがしたい』という願望、と彼女は言う。
キラキラしたこと? それはいったい何か? 彼女にこの問いをぶつけると、彼女は、しばらく考え込んで、「洋服売り場の店員さんとか、子供服売り場の店員さんとか、化粧品の販売員とか、そういう仕事って、キラキラしているように見えるんですよね。そういう仕事もしてみたいなあ」、と話してくれた。
なるほど。これは、俗に言う「アパレル関係」ってやつだな。僕はあまり、洋服などに関心がないので、どこがどうキラキラしているか分からない。が、銀座とかにあるおしゃれな洋服屋さんの店内はゴージャスに見えるし、エレガントに見えることは確かである。また、店員さんもかっこいい人や綺麗な人が多い。デパートの店員さんなんて、「なんであんなに綺麗な人ばっかりなんだろう?」と、不思議に思うこともあった。たしかに、アパレル系は、キラキラしているかもしれない。
だが、彼女は、自分の歩く道を変えたいとまでは思っていない。もっとほんのりと抱く感情のようだ。しっかりと見えているのは「教師」という道。けれど、どこかであこがれる「キラキラとした世界」。なんとなく分かる気がする。
若い頃って、『キラキラした世界』にあこがれちゃうものなのかもしれない。でも、不思議なことに、年齢を重ねるごとに、『キラキラした世界』にあこがれなくなり、『おだやかな世界』、『しっとりとした世界』、あるいは『真理の世界』にあこがれるようになっていく。芸能界に若手が多く、引退する人が多いのも、そういう理由があってのことだろうし、年齢があがるにつれて、『勉学への意欲』が向上するのも、そういう理由からきているのかもしれない。
僕も昔は『キラキラしたこと』をしたいと切に思っていた。が、今は、『静かに生きていきたいなあ』、『ひっそりと生きていきたいなあ』と願うようになっている。
人間って、不思議だ。願望そのものも変わってしまうのだから。。。
2006年04月20日
学校と共に始まる人生の厳しさ@ドイツの教育
ドイツの教育システムは非常に複雑で分かりにくい。それを分かりやすく丁寧に説明してくれている文献の翻訳です
学校と共に始まる人生の厳しさ@ドイツ
ドイツの学校について何かを書くことは、そう簡単ではない。
ドイツの子どもたちは、6歳になると、学校に通わなければならない。ドイツでよく言われるように、学校の進学と共に、子どもたちにとっては、「人生の厳しさ」が始まるのである。最初の学校登校日に、子どもたちは、甘いものやクレヨンや遊具がいっぱい入った学校袋(Schultüte)が渡される。この袋が、学校初日をすこしばかり楽しいものにしてくれている。一度、学校に入学すると、子どもたちは少なくとも10年間、もし子どもたちが大学で勉強したいと思うならば、13年間、学校で過ごさなければならないのである。
四年生までの間、全ての子どもたちが、小学校(Grundschule)に行く。小学校では、読み書き計算の他に、色々な絵を描いたり、色んな歌を歌ったり、色んなことをして遊んだりする。クラスの担任が一人いて、その先生が、ほとんどすべての教科の授業を行い、とりわけ子どもとの密接な関係をもつことになる。第一学年の児童は、徐々に、学校での学び方を学ばなければならない。まず、25人から30人の別の子どもたちと一緒に静かに座り、耳を傾け、45分間の授業全部に集中することに慣れる、というのは簡単ではない。小学校最終学年では、両親は、クラスの担任と一緒に、子どもをどの学校に進学させるべきかをじっくり考える。
続き⇒続きを読む
2006年04月19日
母親の痛み−暴力が生み出すもの−
今日、こんなニュースが入ってきた。
19日午前1時25分ごろ、埼玉県深谷市見晴町の「見晴町公園」で、同市萱場、無職、宮田修平さん(16)が頭などから血を流して倒れているのを母親(43)が見つけ、110番した。宮田さんは顔面や右側頭部に殴られた跡があり、病院に運ばれたが意識不明の重体。県警深谷署は傷害事件として捜査している。
調べでは、宮田さんは18日午後11時半ごろ、「先輩に呼び出された。公園に行ってくる」と母親に言って外出した。公園は自宅から約200メートル離れており、宮田さんの帰りが遅いのを心配した母親が捜しに出かけて発見した。
出典
こういうニュースは読むだけで背筋がぞっとする。それと同時に、「心配した母親」の苦しみが伝わってくる。母親は、息子を「発見」したとき、どんな心境だったか。考えただけでも、目が熱くなる。どんな思いで、「探し」に出かけたことだろう。
前に、「なぜ人を殴ってはいけないか」という記事を書いた。その答えをここで見出したような気がする。人間には、必ず親がいる。生物学的、事実的に、親の存在しない子供などいない。また、親に代わる存在のいない子供もいやしない。一人の人間が存在している、ということは、たくさんの他者からの愛や心配を得ている、ということだ。天涯孤独(誰一人として認知されていない存在)という生き方をしている現代人(日本人)は本当に稀だ。
なぜ人を殴ってはいけないか。
なぜなら、殴られた人の周りに入る親しい人が悲しむから。殴られた人その人自身を大切に育ててきた人がいるから。
憎しみや怒りは誰にでもある。けれど、その憎しみや怒りの対象となる人にも、その人を愛する人がいる。大切に思う人がいる。その人が殴られることで、心を痛める人がいる。涙する人がいる。祈りを捧げる人がいる。
ホームレスへの暴行も同じだ。彼らの仲間は、そのホームレスの人への暴行に傷つくし、心を痛めてしまう。彼らをサポートする有志の人たちの心を傷つける。
今日の事件の「母親」は、どれほど傷ついたことか。どれほど悲しんでいることか。今、意識不明の重体だという。どんな思いで、今という時間を過ごしていることか。どれほど心苦しいことだろうか。
それでも、無為な暴力がなくなる日はまだまだ遠そうだ。これからも、悲しみの日々はずっと続くのだろうか。
続きを読む
19日午前1時25分ごろ、埼玉県深谷市見晴町の「見晴町公園」で、同市萱場、無職、宮田修平さん(16)が頭などから血を流して倒れているのを母親(43)が見つけ、110番した。宮田さんは顔面や右側頭部に殴られた跡があり、病院に運ばれたが意識不明の重体。県警深谷署は傷害事件として捜査している。
調べでは、宮田さんは18日午後11時半ごろ、「先輩に呼び出された。公園に行ってくる」と母親に言って外出した。公園は自宅から約200メートル離れており、宮田さんの帰りが遅いのを心配した母親が捜しに出かけて発見した。
出典
こういうニュースは読むだけで背筋がぞっとする。それと同時に、「心配した母親」の苦しみが伝わってくる。母親は、息子を「発見」したとき、どんな心境だったか。考えただけでも、目が熱くなる。どんな思いで、「探し」に出かけたことだろう。
前に、「なぜ人を殴ってはいけないか」という記事を書いた。その答えをここで見出したような気がする。人間には、必ず親がいる。生物学的、事実的に、親の存在しない子供などいない。また、親に代わる存在のいない子供もいやしない。一人の人間が存在している、ということは、たくさんの他者からの愛や心配を得ている、ということだ。天涯孤独(誰一人として認知されていない存在)という生き方をしている現代人(日本人)は本当に稀だ。
なぜ人を殴ってはいけないか。
なぜなら、殴られた人の周りに入る親しい人が悲しむから。殴られた人その人自身を大切に育ててきた人がいるから。
憎しみや怒りは誰にでもある。けれど、その憎しみや怒りの対象となる人にも、その人を愛する人がいる。大切に思う人がいる。その人が殴られることで、心を痛める人がいる。涙する人がいる。祈りを捧げる人がいる。
ホームレスへの暴行も同じだ。彼らの仲間は、そのホームレスの人への暴行に傷つくし、心を痛めてしまう。彼らをサポートする有志の人たちの心を傷つける。
今日の事件の「母親」は、どれほど傷ついたことか。どれほど悲しんでいることか。今、意識不明の重体だという。どんな思いで、今という時間を過ごしていることか。どれほど心苦しいことだろうか。
それでも、無為な暴力がなくなる日はまだまだ遠そうだ。これからも、悲しみの日々はずっと続くのだろうか。
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2006年04月01日
教師(地方公務員教育職)の給与⇒再生産労働の価値
以下のHPで、地方公務員の職種別平均給与月額(全地方公共団体)が、公表されるようになった。
こちら
(総務省 報道資料、平成17年4月1日現在)
)
この表を見ると、教師って、労働賃金、とっても高いんだなあ・・と思った。
子どもに何かを教える教師というのは、何らかの物質やサービスを生み出す生産労働ではなくて、そういう生産労働を担う人間を育てる再生産労働だ。
そういう意味で、教師の労働的価値というのは、具体的な「売り上げ」や「利益」で決まるものではない。そうではなくて、「それが妥当だ」と多くの人が思うこと、納得することで決定される。(客観性ではなく、歴史性や相互主観性)
教師という仕事は、多くの人にとって、どれくらいの労働価値がある、と思っているのだろう? あるいは、教師の仕事は、どのようにして評価したらいいのだろう?
先生が生徒のテストの点数を全員100点にしたら、その先生は、いい仕事をした、と言っていいのか。あるいは、生徒のテストの点数が0点だったら、その先生は、悪い仕事をしているのだろうか。
所謂、「予備校」は、そうだろう。合格者、受講生をどれだけ獲得できるか。どれだけ自分の授業を取ってくれるか。それで評価される。
教師の仕事の価値、労働の価値は、どのようにして決まるのだろう??
・・・もっとも、警察官は、(手当てが良いので)もっとよい給与をもらっているのだが・・・
2006年03月17日
『女王の教室』と教師論
『女王の教室』、二夜連続のスペシャル番組。
去年、良くも悪くも、すごく話題になった教師ドラマ。これまでの「教師−生徒関係」を、一挙にくつがえすすごいドラマだった。「対立」⇒「和解」⇒「ハッピーエンド」といったシナリオになっていない。ゆえに、多くの視聴者から「共感の声」と「非難の声」がすごく出たドラマだった。kei的には、内容的に、あまりにひどくて、さらにきつくて、見れなくなることも多々あった。
が、阿久津真矢先生。彼女には、ある種のシンパシー(共感)を感じていた。従来の「子どものことを考えてますよ」的な教師ドラマに反感を感じていたからだ。真矢の教師像は、冷たくて、現実的で、ある意味でスパルタ。子どものことを考えていないとはいいきれないが、「子どもを対象化して、子どものことについてあれこれ考える教師」の像からは、はみでていた。(途中から、ちょっとそういう兆しもあったが・・・)
今回の特別編は、「なぜ真矢はああいう教師になったのか?」という問いに答えるようなストーリーになっていた。また、「いったい真矢に何があったのか」という謎解きの要素も隠れてあった。
冷酷なまでに冷徹な真矢が誕生したいきさつは、新任の時にであった自意識の強い女子生徒、池内亜也が発端だった。池内は、自意識が強く、幼児性がまだ残る「いい生徒」だった。「先生、私のこと、一番好き?」と何度も、新任の真矢につめよる。「平等主義」の真矢は、「好きよ」、しばらくの沈黙の後、「みんなと同じように、好きよ」と言う。池内は、「なんであんなヤツラと一緒なの?」とぼそっと語る。そんな池内は、「いい生徒」から、がらっと「真矢を追い込む生徒」へと豹変する。
そして、真矢は、池内によって、職場での地位を追い込まれる。さらに、真矢の子どもの死、そして離婚。すごい過去が次々と明らかになっていった。そして、真矢を「冷酷」に変えたのは、初めて受け持ったときの池内、そして、家族だった。
自分の子を失い、夫も失い、行き場を失った真矢が、浸水自殺を図ろうとしたとき、かつての教え子池内から電話。「私、死ぬ」というメッセージ。その声に真矢自身が救われることになる。そして、彼女との真剣な対峙。思わず、彼女の頬に手をあげる。
その後、女の子は、真矢に次のように話す。
「いい先生に出会いなさい、って先生、言ってたでしょ。・・・いい先生に出会わないと、だめになっちゃう子は、いっぱいいるよ。助けてあげて! でも、もう少し厳しい(恐い)先生になったほうがいいよ。怒る時はびしっと怒って。私、この前、先生に叩かれた時、嬉しかったもん、先生の愛、伝わったよ。だから、教師辞めないで」
続きを読む
去年、良くも悪くも、すごく話題になった教師ドラマ。これまでの「教師−生徒関係」を、一挙にくつがえすすごいドラマだった。「対立」⇒「和解」⇒「ハッピーエンド」といったシナリオになっていない。ゆえに、多くの視聴者から「共感の声」と「非難の声」がすごく出たドラマだった。kei的には、内容的に、あまりにひどくて、さらにきつくて、見れなくなることも多々あった。
が、阿久津真矢先生。彼女には、ある種のシンパシー(共感)を感じていた。従来の「子どものことを考えてますよ」的な教師ドラマに反感を感じていたからだ。真矢の教師像は、冷たくて、現実的で、ある意味でスパルタ。子どものことを考えていないとはいいきれないが、「子どもを対象化して、子どものことについてあれこれ考える教師」の像からは、はみでていた。(途中から、ちょっとそういう兆しもあったが・・・)
今回の特別編は、「なぜ真矢はああいう教師になったのか?」という問いに答えるようなストーリーになっていた。また、「いったい真矢に何があったのか」という謎解きの要素も隠れてあった。
冷酷なまでに冷徹な真矢が誕生したいきさつは、新任の時にであった自意識の強い女子生徒、池内亜也が発端だった。池内は、自意識が強く、幼児性がまだ残る「いい生徒」だった。「先生、私のこと、一番好き?」と何度も、新任の真矢につめよる。「平等主義」の真矢は、「好きよ」、しばらくの沈黙の後、「みんなと同じように、好きよ」と言う。池内は、「なんであんなヤツラと一緒なの?」とぼそっと語る。そんな池内は、「いい生徒」から、がらっと「真矢を追い込む生徒」へと豹変する。
そして、真矢は、池内によって、職場での地位を追い込まれる。さらに、真矢の子どもの死、そして離婚。すごい過去が次々と明らかになっていった。そして、真矢を「冷酷」に変えたのは、初めて受け持ったときの池内、そして、家族だった。
自分の子を失い、夫も失い、行き場を失った真矢が、浸水自殺を図ろうとしたとき、かつての教え子池内から電話。「私、死ぬ」というメッセージ。その声に真矢自身が救われることになる。そして、彼女との真剣な対峙。思わず、彼女の頬に手をあげる。
その後、女の子は、真矢に次のように話す。
「いい先生に出会いなさい、って先生、言ってたでしょ。・・・いい先生に出会わないと、だめになっちゃう子は、いっぱいいるよ。助けてあげて! でも、もう少し厳しい(恐い)先生になったほうがいいよ。怒る時はびしっと怒って。私、この前、先生に叩かれた時、嬉しかったもん、先生の愛、伝わったよ。だから、教師辞めないで」
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2006年03月16日
胸にぽっかり穴があいたような1日
昨日、僕の教師人生、初めての卒業式があった。
そして、その時に感じたのが、苦さ、苦味だった
が、
今日の朝、起きてみると、なんだか、胸にぽっかり穴が開いたような、そんな気分になっていた。心に穴、というよりは、胸に穴、って感じだった。
今日は、1日中、なんか、空虚な、というか、胸にぽっかり穴があいた気分だった。
今の自分を反省してみると、やっぱり、「寂しさ」がこみ上げてくる。もう、「あいつら」に会わないんだなあ・・って思うと、やっぱり、メランコリックになってしまう。
そう、卒業式は、教師にとっても、まさに「別れの日」だった。
昨日は、必死に寂しさや別れへの悲しさを感じまいと必死に、無意識の中で、防御していた。そんな風に思う。
「卒業式」の意味が、一つ分かった。「別れの日」なんだ。
「別れの日」というと、「なんだ、そりゃ、当たり前じゃないか?!」と思われるかもしれない。だけど、実際に、送り出す側として、卒業式に向かうと、やっぱり・・ たくさんの『別れ』に遭遇し、アクチュアルな「別れる人」、あるいは、別れの当事者にならざるを得ない。学生たちからすれば、僕をはじめ、教員全員が、「自分と別れる人」なのである。
教員の側からすると、多くの学生は、もう会わないであろう存在者だ。みんな、それぞれの道を歩き始める。もう、こっちには戻ってこない。片道切符の旅なのだ。(たとえ戻ってきたとしても、それはかりそめの再会であり、学生の時のような関係ではない)
きっと、昨日の僕は、「別れの悲しさ」以上に、「もう戻ってこない」という事実を受け入れきれない「苦さ」を感じたのだろう。
ずっと居て欲しいけど、早く巣立って欲しい、そういうアンビバレントな感情が、卒業式にはあったのだ。これは、新しい発見だった。
時間が経つごとに、「卒業式」の重さが僕にのしかかってくる・・・
そして、その時に感じたのが、苦さ、苦味だった
が、
今日の朝、起きてみると、なんだか、胸にぽっかり穴が開いたような、そんな気分になっていた。心に穴、というよりは、胸に穴、って感じだった。
今日は、1日中、なんか、空虚な、というか、胸にぽっかり穴があいた気分だった。
今の自分を反省してみると、やっぱり、「寂しさ」がこみ上げてくる。もう、「あいつら」に会わないんだなあ・・って思うと、やっぱり、メランコリックになってしまう。
そう、卒業式は、教師にとっても、まさに「別れの日」だった。
昨日は、必死に寂しさや別れへの悲しさを感じまいと必死に、無意識の中で、防御していた。そんな風に思う。
「卒業式」の意味が、一つ分かった。「別れの日」なんだ。
「別れの日」というと、「なんだ、そりゃ、当たり前じゃないか?!」と思われるかもしれない。だけど、実際に、送り出す側として、卒業式に向かうと、やっぱり・・ たくさんの『別れ』に遭遇し、アクチュアルな「別れる人」、あるいは、別れの当事者にならざるを得ない。学生たちからすれば、僕をはじめ、教員全員が、「自分と別れる人」なのである。
教員の側からすると、多くの学生は、もう会わないであろう存在者だ。みんな、それぞれの道を歩き始める。もう、こっちには戻ってこない。片道切符の旅なのだ。(たとえ戻ってきたとしても、それはかりそめの再会であり、学生の時のような関係ではない)
きっと、昨日の僕は、「別れの悲しさ」以上に、「もう戻ってこない」という事実を受け入れきれない「苦さ」を感じたのだろう。
ずっと居て欲しいけど、早く巣立って欲しい、そういうアンビバレントな感情が、卒業式にはあったのだ。これは、新しい発見だった。
時間が経つごとに、「卒業式」の重さが僕にのしかかってくる・・・








