ひらめき生涯一教師、生涯一研究者で頑張りますパンチ


2007年01月13日

●恋に落ちるタイミングの男と女のズレ●


今日、或る講義で、話が脱線していき、恋愛の生じる時期の話題になってしまった。。。

*現在では携帯電話・携帯メールの普及により、好きな異性の自宅・実家に電話をすることがなくなったのでは?という話題から・・・

その講義は、今年成人式を迎えるお年頃の女子学生がほとんどだったので、お年頃の女性の恋愛生成時期が聞くことができた。

僕が、「未だ付き合っていない好きな人に電話番号を聞くときってドキドキしない?」と問うてみた。そうしたら・・意外にも、或る学生はこう答えた。

「そういうことってないですね。私が人を好きになるときって、もうだいたいその人の電話番号を知っていますから。電話番号の交換をする前に人を好きになることはほとんどないですね」

この言葉を聞いたとき、31年間謎だった答えがパーンと見えてきた気がしたのだ。他の学生たちに聞いても、同じような答えが返ってきた。「友だちとして遊んでいて好きになる」、「メールとかをしているうちにふと好きになっちゃう」・・・

これらの言葉は、僕にとっては、目からうろこ状態だった。

僕を含め、多くの男性諸君は、だいたい、1人の女性のことが気になっていて、気になってはじめて、電話番号を聞いたり、メールをしたりする。いや、好きになってから、電話番号を聞こうとしたり、メールをしようとしたりするのだ。

男性:恋に落ちる⇒電話番号・メールを聞く⇒一緒に遊ぶ
女性:番号交換・メール交換⇒一緒に遊ぶ⇒恋に落ちる


このように恋に落ちる時期が、男女ではズレがあるのではないか?

僕のロマンティック・ラブ失敗談:仲良くなる前に恋をしちゃう。恋をしちゃってドキドキする。夜とかにその子のことを思い浮かべちゃう。電話番号を聞きたくなる、知りたくなる。でも、聞こうとするのだけれど、ドキドキしてなかなか言い出せない。なかなか本来のいい自分がでない。相手との関係が深まらない・・そして、玉砕・・

男は、普通より、ちょっと遅れて(立ち止まって)恋愛をしたらいいのかもしれない。女性は、恋に落ちるまでに若干の時間が必要らしいのだ。男は、女性の外見や顔や声や雰囲気だけで、その人を好きになれちゃう。でも、女性の方は、そういったものだけでは不十分で、関係性の中で、相手を好きになる。男は、視覚的に(客観的に=よく見ることで)恋をするのに対して、女は、関係的(相互主観的に)恋をしている。

もちろん、これは仮説だ。例外も多くあるだろう。ただ、うちの学生たちにこの話をしたところ、多くの学生たちが同じように言っていた。電話番号を知る以前に人を好きになることはあまりない、と。(例外的な人ももちろんいた)

男と女では、恋に落ちるタイミングが違うのかもしれない。ズレがあるのかもしれない。認識的に、「あ、私は、この人(異性)のことが好きなんだ」ということに気付く時期が違う、と言ってもいいかもしれない。その時期、タイミングが噛み合ったとき、恋愛はたしかに生じるだろう。

恋愛や結婚が難しくなった現代社会で、一つ大きなヒントをもらったような気がした。非常に興味深い意見が聞けた。ありがとう!
ニックネーム kei at 01:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2006年12月27日

【あいりちゃんと鳩の赤ちゃん】


覚えているだろうか。昨年、広島で起こった悲しい事件を。

2005年11月、広島に住む小さな女の子の命がペルー国籍の男に奪われた。小さな大切な子どもの命が、男の勝手極まりない欲望のために奪われたのだ。(HERE)

そんなあいりちゃんは、とても動物を愛し、植物を愛していたそうだ。

生前、あいりちゃんが育てていたあさがおの鉢があった。その鉢は、事件後も、大切に保存されていた。ベランダに置かれたままで。数個の鉢の中の一つとして。

そのベランダにあったあいりちゃんの鉢に、なんと、鳩が卵を産んだというのだ。

いくつも鉢があるなかで、鳩は、わざわざあいりちゃんのあさがおの鉢に卵を産んだのだ。そして、その卵から小さなヒナが孵(かえ)った、という報道があった(27日、NHK)

父親は、「あいり(娘)が鳩になって帰ってきた」と喜んでいた。それは、どれほどの感動であっただろうか。「なぜ親鳩はあいりちゃんの鉢に卵を産んだのか?」とは考えない。たまたまであり必然だった。意味ある偶然(シンクロニシティー)そのものだ。お父さんは、この意味ある偶然をどのように感じたのだろう。鳩のヒナは元気に育っている、という。

そのヒナは、あいりちゃんの家族では、「あいちゃん」と呼ばれている。お父さんは、注意深くこの鳩とヒナの様子を見守っている、という。あいちゃんがたくましく育って空に飛び立つ日が来ることを願いたい。

かなり感動したkeiでありました。
ニックネーム kei at 21:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2006年12月06日

■看護師から学ぶ対人関係■

今日は朝一番で病院に行った。腎臓と尿管の詳しいレントゲン写真を撮るためだ。

先々週、突然のわき腹の激痛に襲われ、まさに「耐え切れない痛み」を体験した(けど、なんとか耐えられるもんだな!)。それから二週間、水をできるだけ飲み続け、様子を見ていた。カルシウムでできた石の大きさはよく分からない。石の大きさによっては、医学的処置をしなければならないかもしれない。そんな不安がずっとあった。

病院に行くと、「これに着替えてください」と、病院患者用の服に着替えさせられた。パンツ以外はすべて脱いだ。そして、点滴。点滴を打つのは、人生初(だと思う)。この時間に点滴を打つのは、50代後半〜70代の男性二名と僕。あきらかに僕だけ場違い? 恐怖心が先立つ。でも、担当の看護師のCさん(30代後半くらい?)が、丁寧に対応してくれて、しかもすごく上手に針を入れてくれたので、すぐに終わった。人生初の点滴は、なかなか奇妙だった。点滴のぶら下がった台と一緒に歩くというのは、どうも落ち着かない。トイレにいっても、点滴と台がついてくる。

その看護師のCさんがすごい人で、僕はかなり安心感を得た。彼女から、対人援助の在り方、本質を、身をもって経験することができた。

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ニックネーム kei at 14:44| Comment(14) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2006年10月31日

◆思い出という人生のスパイス◆よき友◆

幸せとは、何も特別なことが起こっていない状態、と僕は定義している。幸せは、どこか遠くにあるものではなく、何も起こっていないさしあたって無難で、平坦な日々の生活、時として「退屈」と言われる日々そのものだ。何が事が起こること事態、幸せから離れていく事態であり、騒然となったり、危機的状況に陥ったりすれば、一気に幸せはどこか遠くへ消えていってしまう。

でも、そんな幸せをピリリと感じさせてくれるのが、『思い出』だと思う。楽しかった思い出、辛かった思い出、学生時代の思い出、淡い初恋の思い出、初めてのKISSの思い出、初めて友と決別した日の思い出などなど。あるいは、喧嘩した日の思い出、ボコボコにやられた日の思い出、失恋した思い出、みんなに嫌われた思い出、親と喧嘩して夜の街を徘徊した思い出なども、今の自分の生活を潤わせてくれる。

人間にとって一番不幸なことは、そういう思い出がなくなってしまったり、そういう思い出が少ないことなのかもしれない。(*記憶と思い出は区別したい。今の自分を苦しめる過去の事柄すべては記憶に数えいれておく。さしあたって、思い出は、現在の自分にネガティブに作用していない過去の出来事としておく)

今日、久々に大学時代の友人と電話で話した。久々だった。彼は、大学一年のときからずっと続いている大切な友人の一人。彼と共有している思い出はとてつもなくたくさんある。夜中まで議論をしたり、恋について語り合ったり、お互いの恋人を交えて会話をしたり、一緒に旅行に行ったり、一緒にボランティア活動をしたり、一緒に講義を受けたり・・ドイツに留学する時も成田空港まで見送りに来てくれたり。そんな彼と久々にじっくり会話を楽しんだ。現在のこと、過去のこと、未来のこと、どんなに間があいても、すぐに会話が盛り上がる。そういう友人がいる、というのは、本当にありがたいと思う。

ここ数日、仕事に忙殺されていたけど、それはそれで幸せなのだ。普通に仕事に追われることができるくらいに、何も事が起きていないのだから。すごく当たり前だけど、普通に日々を過ごすということは奇跡に近いことなのだ。そんな普通の当たり前の日々で、友人と思い出話やおしゃべりをして楽しむ。そうすると、なんか、かつての自分の思いや記憶が鮮やかによみがえってきて、なんともいえない甘い気持ちになる。あの日のことを思い出すだけで、うっとりしてしまうというか。辛い思い出ももちろんあるけど、あんまり思い出さないふらふら 笑ったことや甘酸っぱいことばかりを思い出す。そして、今、とても幸せな気持ちになる。忙殺される日々のなかで、思い出というスパイスが幸せを浮き彫りにさせてくれる。

10年前、僕は21歳。1996年。大学二年生。今の自分とは全く違った自分がそこにいた。

そして、今、2006年、31歳、僕がここにいる。生きている。
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2006年10月26日

自分の話をじっくりとただ聴いてくれる人はいますか?

とある会話(ある若い二人の女性の会話)。

A「ねえ、ちょっと聴いてくれる。最近ね、眠れないんだ」
B「ふ〜ん、そーなんだ?私も最近あんま寝てないよ」
A「そーなんだ。なんかさ、余裕がないっていうか」
B「そうそう、忙しいよね。私、今日もバイトだし・・」
A「バイトなんだ・・ 私もバイトだよ」
B「そうなんだ。バイトすっごいたいへんだよね」
A「うん。すっごくたいへん!うちの店長すっごく腹立つんだ」
B「マジ? うちのバイトの人もすっごい嫌・・・」

この会話を聴いたとき、「あれ〜、これ、会話噛み合っているのかなあ」と思った。なんてことない会話なのだが、お互いにお互いの話を聴いているのかな?と思った。もちろんAとBは友だちだ。だけど、こういう会話でいいのかな?と思った。お互いが自分のことを話しているだけのような気がしてならない。Aの最初の言葉、「最近ね、眠れないんだ」という心の叫びはBによって受け止めてもらえたのだろうか。これを聴いたときに、ふと鷲田清一氏の言葉を思い出した。

何を言っても、留保をつけずにそのまま受け入れてもらえるという信頼がなければ、ひとはみずからを無防備にはしないものである。押し黙りから、口ごもりをへて、たどたどしい語りへと、閑かに時が経過するのをじっと待ってくれるひとがいてくれないと、ひとは言葉を漏らしはしないものである。(鷲田、『<弱さ>のちから』、p.202)


Aさんは言葉を漏らそうとした。けれど、Aさんは決して言葉を漏らし続けなかった。Aさんは、途中から、無防備ではなくなり、自らを閉ざしていった。そう見えなくもない。心の内に秘めたものをBさんに漏らそうとした。けれど、途中でやめた。

でも、Bさんが悪いわけではない。BさんもBさん自身のことを話したかったのだ。AさんもBさんも、自分のことを話したいのだ。たしかにお互い相手に話したいのだけれど、残念ながら、どちらも相手の話を聴きたいというわけではないのだ。相手の話を聴くよりは、相手に自分のことを話したいのだ。

ミヒャエルエンデの『モモ』を思い出す。モモは、何にもできないけれど、人の話をよく聴くことだけはできた。だから、みんながモモのところに集まってきた。みんな、自分の話を聴いてもらいたいのである。

『人の話をただ聴く』

これは、とてもしんどく、たいへんなことなのかもしれない。もし一人でも自分の話に関心をもってくれて、じっと聴いてくれる友だちがいたら・・・ きっとその人は幸せなのだろう。「ふ〜ん」、「そうなんだ?」、「すごいね」、「えらいね」、「やったね」等々、反応してくれる友人がいたら、その人は宝物を得ているのだ。無防備に話ができる友だちがいるというのは、実は奇跡かもしれない。特に大人になればなるほど、そういう友だちを見つけることは難しい。

自分の話をじっくりとただ聴いてくれる人はいるだろうか? 

(いつもブログを見てくださっている方へ)⇒続きを読む
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2006年09月02日

人はどうやってユーモアを学ぶのか?


僕の根本思想は、ずばり、「楽しく生きる!」だ。

そのために何が必要なのか、どういう条件が必要なのか、といったことが最大の関心事だ。楽しく生きるというのは、非常に個人的なことだけど、それを普遍的に考えたいのだ。教育的に言えば、「どうやったら、子どもを楽しく生きさせることができるか」、福祉的に言えば、「どうしたら、楽しく生きられる生活を守ることができるか」、実践的には、「目の前にいる人に、どうしたら楽しさを届けることができるか」、理論的には、「そもそも楽しいとはどういう現象か」、あるいは、「楽しい生活を可能にする条件は何か」ということになる。

楽しく生きるために必要なことの一つに、「ユーモア」があると思う。ユーモアは、『しゃれ』、『機知』、『上機嫌』、『いい気分』と訳すことができる。

ユーモアのある人は、楽しそうだし、また、人を楽しくさせてくれる。機転のきく人、笑顔の耐えない人、しゃれのある人、そういう人から、僕らは学ぶことはたくさんある。

そんなことを考えていたら、偶然ドイツの雑誌に似たような研究をしている人の文章を読んだ。

で、早速訳してみた。参考になるかな????

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2006年08月30日

鏡と精神


鏡は不思議なものだ。

自分を映し出してくれる。鏡がなければ、今の自分の姿を見ることはできない。

でも、不思議。自分の姿を見るって。。

そんな不思議について触れた文章を訳してみました★

本文はこちら⇒続きを読む
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2006年07月25日

◆もう一度・・・友情論◆aus DE.


昨日はブログを更新しないで、仕事+読書の一日だった。そこで、たまたま友情に関する文章を読んだ。友情・・・ 31歳にして友情について今一度考えてもいいかもしれないな、と思った。大人にとって友情って何だろう?

読んだ本はドイツ人の若者向けの一般書。高校の先生が書いた「若者の悩みに答えます」っていうような本で、これが結構面白い(すでにこのブログでも何度かその内容を翻訳して掲載してきた)

今回は、「どれくらい一緒にいたら良い友達になれるのだろうか」、というお悩み。10代の頃、友達といえば、ずっと一緒にいて、なんでも分かり合える人が友達(親友)だと思っていた。今の若者はどうなんだろうか?とりあえず、文章を読んでみよう。

soonsoon

 お互いによく理解し合うために、友人と毎日会う必要はない。また、友達とずっとベタベタとくっついていなくてもよいし、全てのことを一緒にやらなくてもよい。友達と会うときの気分次第だし、機嫌次第だし、様々な可能性や様々な必要性にもかかっている。また、もちろん、電話で話すこともできるし、手紙インターネットで関わることもできる。しかし、なんといっても、友情を育むためには、個人的に一緒に会話をしたり、一緒に何かを企てたりすることが大切なのである。また、友情というは、共通性があってこそ成立する。だから、共に経験したことも、友情の一部なのである。

endend

さすが観念論の大国ドイツだ。なかなか深そうなことを言っているように思われる。

続きはこちら→続きを読む
ニックネーム kei at 02:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2006年07月13日

Remember the Time

もう夏・・・なのかな?

夏といえば「恋」黒ハート黒ハート

今年の夏も、たくさんの恋が生まれ、そして、シャボン玉のように消えていくのかな??

ひと夏の恋ハートたち(複数ハート)ハートたち(複数ハート) 魔法にかかってしまうような季節。

色んな恋のカタチがある。特に、夏は気持ちが開放的になってしまうから、そのカタチは様々だ。夏でなければ絶対に恋しないような人を好きになってしまう。ビーチでの出会い、山での出会い、友達の友達との出会い、旅先での出会い、いろんな出会いがあって、皆、恋に落ちてゆく。夏という季節は、本当にいやらしいあせあせ(飛び散る汗)

でも、夏の恋はいいものだ。輝かしい日の光を浴びながら、心の底から気持ちよくなれる。夏は暑いけど、またそれがいいのかもしれない。

海外の夏はもっと気持ちいい。日本にいる時よりももっともっと気持ちが大きくなる。もちろん、異国の人との恋はもっともっとスリリング。夏の異国の人との恋は最大限に自分を盛り上げてくれるだろう。

でも、どうして夏は恋が発生しやすいのだろう。ふと思う。(けど、深くは考えない。そんなもんだと納得するしかない)

僕も、夏という季節に、恋をたくさんしてきた。かつての夏の日の恋の思い出たちは、今も僕の中で生き続けているし、輝き続けている。ふと思い出すたびに、顔がほころぶ。多分、死ぬ時まで、あの夏の思い出たちは胸の中で生き続けるのだろう。そんな思い出を持っている自分が幸せだとも思う。夏の日の恋は永遠にまぶしいのかもしれない。

若き日の恋のメロディーは、大人になってからの大切な宝物となるだろう。大いに、ひと夏の恋を楽しめばいいと思う。

*でも、世の中、恐い人・悪い人・悪意のある人もたくさんいるので、十分気をつけたい。一瞬の気の迷いと失敗のために、自分の一生がめちゃくちゃになってしまう人もたくさんいる。自由な恋は、時として、大きなリスクを伴う。ひと夏だけの軽率な判断で、「自分の素晴らしい一生」を台無しにしないように〜ちっ(怒った顔) 夏の雰囲気にのまれてしまうことは、夏の雰囲気を楽しむこととは違うこと。せっかく「恋のバカンス」をするなら思いっきり素敵な人としましょうドコモ提供 くれぐれも自分を『安売り』しないように手(パー)
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2006年06月25日

■愛の能力(die Liebefähigkeit)■


翻訳モノ手(パー)

今回のお題はずばり『愛の能力(die Liebefähigkeit)』ムードハートたち(複数ハート)

人をきちんと愛するための能力ってどんな能力なのだろう?
人をきちんと愛し続けるための能力ってどんな能力だろう?
人をきちんと愛するために必要な能力ってどんな能力なのだろう?

こうした問いに対して、ボク(kei)はまだはっきりとした答えを持ち合わせてはいない。正直、よく分からない。「恋におちること」は実に簡単だ。努力しなくても勝手に「落ちてくれる」から。

でも、「愛し続けること」や「愛しぬくこと」は、とてもとても難しい。努力しなければ、実現できないことだからだ。

じゃあ、どうしたら、何があったら、どんな人間であったら、きちんと人を愛することができるのだろう??

それに一つのアイディアを提供してくれているのが、この文章です。乱痴気騒ぎの恋ではなく、静かで穏やかな愛を求めている人だけお読みください。きっと何かを「感受」するはず・・・

『愛の能力』(翻訳)⇒続きを読む
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2006年06月08日

人をゆるませられる人

僕は、将来教師や保育士や生活指導員になる人の教育を行っている。毎年、たくさんの若者が、入学してきては、「実践者」になって巣立っていく。

一度巣立ってしまえば、「プロ」として、「教師」や「保育士」を生きなければならない。教師も保育士も、専門職であり、人に頼って仕事をすることは許されない。自分自身、悩み、苦悩しながら、一人前の「実践者」へと自ら成長していかなければならない。

そんな中、僕は、学生たちに、「人をゆるませられる人であれ!」と、暗にメッセージを送っている。

相手の気持ちをほっとさせてあげて、相手の緊張をとぎほぐしてあげて、相手自身をゆるませてあげる、そんな人間であってほしいと願っている。例えば、ピエロだ。

続きはこちら⇒続きを読む
ニックネーム kei at 13:39| Comment(6) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2006年06月07日

友情から愛情に変わることはあるのか?


ただの友達を突然好きになったことはあるだろうか?

僕は、小学校6年生の時に仲の良かった友達を好きになってしまったことがある。突然、意識し始めたことは、今でもありありと覚えている。また、大学時代、仲の良かった後輩を突然好きになってしまったこともあった。だから、友情から恋愛に変わることって、普通にあると思っていた。が、色んな恋愛話を聞いていると、「友達は友達、恋人は恋人」と、割り切れる人がいることも、分かってきた。

今回は、そういう悩みに答えるドイツ人の高校教師の本の翻訳

ずばり、「友情から愛情になることは可能か?(Kann aus Freundschaft Liebe werden)」、が、今回の悩ましい問いである。

次項有次項有次項有

多くの人が、「心揺さぶる愛のアヴァンチュールを引き起こす物質」など存在しないと考えています。愛とは違いますが、ほとんどドキドキしないものの、一瞬、ずっと長い間仲良しだった人に恋してしまう、という気持ちが生じることがあります。それに加えて、こうしたケースの恋愛は、珍しいわけでもなく、陳腐であるわけでもありません。その逆なのです。君は、そもそも十分に良く知っていると思っている女の子を、完全に新しい光の中で、見つめます。君がこれまで特に気にしていなかった彼女の身の回りのことが、突然、君の目に飛び込んできます。君は、きっと、「君が、長い間、彼女と活発におしゃべりすることができた」、ということに気付いてしまったのです。けれど、なぜ、君は彼女の美しい瞳と彼女の魅惑的な笑顔に今になって気付いたのでしょうか? このように、たいていの場合、単に表面的にあまりにもよく知りすぎた人間の陳腐な新発見以上のことが始まっているのです!

endend

たしかに、なぜその子を突然意識し出すようになったのか??これは、解けない問題ではないだろうか? すごく難しい・・・

でも、経験的に、普通のただの友達を突然意識しだす、ということはよく見られることだろう。

友達と恋人の境界線はいったいどこなのだろう???
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2006年06月02日

『自分が好きになった人しか好きになることができない』

『人間って、自分が好きになった人しか好きになることができないんですね』

この言葉は、僕の学生(20歳女性)が、ふとボクに話してくれた言葉だ。

この発言を聴いて、僕はたまげた。これこそ、恋愛の限界を示している、と思ったからだ。自分自身が恋愛する主体であるにもかかわらず、自分の意思で恋愛をコントロールすることができない、という恋愛の極意がこの言葉の背後に潜んでいる。

恋愛をしている時、その恋愛をしているのは、本人であるにもかかわらず、どうして他の人でないその人を好きになったのか、なかなか説明できない。「なぜA君ではなく、B君を好きになったのか?」、もちろん自分の感情が「B君が好き」と言っているからなのだが、それは、自分の意思で、「よし、B君を好きになろう」と思って、好きになっているわけではない。

じゃあ、誰が、「B君が好き」と言っているのか。やはり、自分自身なのだ。自分が、「B君が好き」と感じているのだ。いや、厳密に言えば、何者かが、自分自身に、「B君が好きだよ」、と語っていて、それを、自分の身体で感じ取っているのだ。

では、「B君が好き」と言っているのは誰なのか?

ここに、恋愛の究極のアポリア(解けない難問)が潜んでいる。自分が相手を好きでいるにもかかわらず、自分でその相手を決めていないのだから。自分ができることといえば、「私の心が『B君が好き』って言っている」ということに気づくことだけだ。また、その声に従い、B君にアタックすることだけだ。人を好きになるというのは、能動的な行為であるけれども、それ以前に、受動的な要素がすごく強い行為なのだ。

『自分が好きになった人しか好きになることができない』

これは、人間の『自由意志』の限界を示す悲しいセリフのように聞こえてならない。自分の中に潜む何者か(存在そのもの?歴史的自己?利己的遺伝子?脳?生理的本能?)が、自分の恋愛対象を決定してしまう。決して自分自身で恋愛していない、そんな悲しい現実が見えてくる。

おまけ⇒続きを読む
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2006年05月22日

ウミネコ関係論?!

関係論は、人間関係だけではない。ウミネコ関係論があってもいい(?!)

ウミネコ関係論!

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興味のある方のみお読みくだされば、幸いです。

こちら⇒続きを読む
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2006年05月16日

★60年目に結ばれた運命の人★

僕の母から聞いた話。

母の友人Cさんの話です。

Cさんは、情熱的な女性で有名だった。顔立ちもはっきりしていて、上品。近所の人もうらやむ美人さんであった。子どもにも恵まれ、夫婦と子ども二人、計四人で、静かに、平和で幸せな家庭生活を送っていた。

けれど、8年ほど前、Cさんの夫は、知り合いの借金の連帯保証人になってくれと頼まれて、しぶしぶ、連帯保証人になってしまった。(実際、親しい友人で、本当に困っていたら、嫌とは言えないのかもしれない)

しかし、この連帯保証人が後の不幸を呼ぶ。Cさんの夫の友人は、自分の借金を返済することなしに、蒸発してしまった。当然、借金は、連帯保証人であるCさんの夫が肩代わりすることになる。が、借金の量は、Cさんの夫が支払える額をはるかに超えていて、払うことができなかった。思い悩んだCさんの夫は、苦悩の果てに、自ら命を絶ってしまった。


続く⇒続きを読む
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2006年05月11日

スタンダールの結他作用と現代の若者


『恋愛論』で有名なスタンダールは、彼独自の考え方として、『結晶作用』という概念を考案した。恋愛を語る上で、この『結晶作用』は無視できない!

スタンダールはこんな人です!

彼の恋愛理論は次のようなもの。

@賞賛(あの人素敵だなあ、かっこいいなあ、かわいいなあ)
A呟き(あの人とディズニーランドにいったら、楽しいだろうなあ)
B期待(あの人からメールが来た。もしかしたら脈ありかも?!)
C恋の発生(そばにいたい、みつめていたい、触れていたい)
D第一の結晶作用
(あれだけ素敵なのだから、性格も人間性も素晴らしいに違いない)
(あれだけ美人/美男子なのだから、心も美しいに違いない)
E不安(でも・・・もしかしたら本当は好きじゃないのかも?)
F第二の結晶作用(相手は自分を愛してくれている、ゆえに、私は相手を愛していくのだ)

結晶作用は、いわゆる「美化作用」のようなもの。彼によれば、「われわれの前にあらわれるあらゆることから、愛するものが新しい美点を持つという発見をひきだす精神の働き」、ということになる。

第一の結晶作用は分かりやすいだろう。アイドルやスターを見て、彼らは心も身体も綺麗なのだろう、と判断する人、好きな人を見て、知りもしないのに、素敵な人だと思いこむ人など。

第二の結晶作用は、若干分かりにくいかもしれない。「相手が自分を愛してくれているがゆえに、私は相手を愛し貫くんだ」、という美化作用だ(と、僕は解釈する)。これは、若い人に起こることはあまりない。「身をまかせるのが早すぎる女との恋には、この第二の結晶作用はほとんど完全にはおこらない」、とスタンダールは言っている。

このスタンダールの恋愛のメカニズム分析はなかなか的を得ていると思う。僕自身、内省しても、同じようなことが確かに起こっていた。

じゃあ、いまどきの若者に通用するのだろうか?と思い、講義でこの理論を紹介し、考えてもらった。そうしたら、半分くらいの学生は「納得」、「共感」してくれたが、もう半分くらいの学生は、「う〜ん、そうかなあ」という風に受け止めた。

ある二人の学生のコメント。

「私は、好きな人ができたら、賞賛や呟きや希望よりも前に、彼女/彼氏はいるのかな?とかそっちを気にしちゃうと思います」

「私は、まず、どうしたら相手が自分を好きになってくれるのだろう、って考えてしまいます」

なるほど。すごく現代的だ。相手を頭の中で描き、あれやこれやと思い焦がれる前に、具体的にどうなのかを考えてしまう、というのだ。「彼氏/彼女がいるのか」、「どうしたら相手の心をこちらに向かせることができるのか」、ということが、恋愛に際して、まず頭をよぎるらしい。

すごく、現代的な発想だなあ、と思った。無駄に相手を思うだけの時間などない。とにかく、「所有できるかどうか」、「相手の心を制御できるかどうか」、という経済学的思考で、恋をしている、そう感じたのだ。

恋愛のメカニズム、古今東西、変わらないのか、変わるのか?
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2006年04月27日

人間学的恋愛論?!


明日、講義で、『恋愛論』に挑戦します。

僕は、すべての講義で、『台本』を書いています。話すかどうかは別にして、いつも、『台本』を用意して、講義をします。

もちろん、毎回、台本は大修正されます。今回は、僕のメインテーマなので、気合入りすぎてしまったかも?!

90分の講義で話す量じゃないかもしれないけれど、もしよかったらお読みください。そして、ご意見・ご感想などいただけたら、幸いです・・・

恋愛論スタート⇒続きを読む
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2006年04月19日

研究:オーストリア人とスペイン人が最高のセックスをする

ドイツYAHOOを読んでいたら興味深い記事を見つけた。セックスの国際比較研究だ。日本人は実は、日々の性生活に満足していない、という事実が明らかにされている!!!(興味ない人は読み飛ばしてください。結構過激です・・・ふらふら

次項有次項有次項有

研究:最高のセックスをするのは、オーストリア人とスペイン人!
Studie:Österreicher und Spanier haben den besten Sex

シカゴ(AFP)−最高のセックスに関する科学的研究によると、オーストリア人とスペイン人が最高のセックスをしている。今まで非公開であったシカゴ大学の研究によると、オーストリア人男性の80パーセントとオーストリア人女性の63パーセントが、自分たちの性生活をgoodと評した。また、スペインでは、なんと被験者の男性73パーセントと、女性の68パーセントが、自分たちのセックスを称賛した。そうシカゴ通信社に語るのは、社会学者であり、主任研究員のエドワード・ローマン教授だ。逆に、最も自分たちの性生活に満足していないのは、日本人で、男性は10パーセント、女性18パーセントだけしか、セックスを楽しんでいないのだ

ドイツは、比較的、セックスで大きな満足を得ている。男性の63パーセントと女性の57パーセントは、自分たちが良いセックスをしている、と思っている。また、ドイツ人は、フランス人、イギリス人、スウェーデン人よりも、セックスに満足していないが、ベルギー人、オーストラリア人、アメリカ人よりも満足している。しかし、セックスが重要だとするドイツ人は、まだ少数派に留まっている。男性の41パーセントと女性の33パーセントは、二人の性行為のクライマックスに大きな価値を見出している。この29カ国に及ぶ研究データを作成したのが、社会学者のローマン教授だ。この研究は、専門誌『性行動アーカイブ(Archives of Sexual Behavior)』に公表されるだろう。

続き⇒続きを読む
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2006年03月23日

男女交際進化論@中村隆文 日本の恋愛を学ぶ

恋愛って何だろう?

これは、ずっと僕が大切にしている問いだ。今、僕は30歳だけど、10年前の恋愛に対する考え方とは全く違う考えを持っている。

かつての恋愛に関する記事(Dr.keiの研究室)
恋愛の対話術
乙女よ!恋せよ!涙せよ!
恋の科学?!
中世ヨーロッパの農民の恋愛観
帰ってきた恋愛論−恋愛が難しい時代に
美人はなぜみんなに「美しい」と思われるのか?
友愛とロマンティックラブ
(たくさん書いたなあ・・ふらふら

10代の僕は、「胸のトキメキ」がすべてだった。自分の瞬間的なトキメキこそが、恋愛だと思っていた。当時の僕は、そのトキメキってやつが、すごくいいかげんで、刹那的なものだとはちっとも思ってなかった。そして、すごく勝手でひとりよがりなものだとも思っていなかった。そして、若き日の僕は、「人を愛すること」に目を向けず、「人から愛されること」ばかり考えていた。「どうしたら、好きになってもらえるか」、これしかなかった気がする。

20代の僕は、恋愛を、結婚と結びつけて考えていた。恋愛の先にあるものを模索した。「どんな人と結婚をすべきか?」、これが、恋愛をする上で、大切になってきた。そして、「愛する」って、何をすることなのか、そういうことに頭を抱えていた。また、恋愛の難しさ、続けることの厳しさを知る10年となった。20代のはじめ、「僕は、人を愛することが下手なんじゃないか」って思い、苦しんだ時期もあった。

そして、30代に入り、また少しずつ変わりつつある。

けれど、問いそのものは変わらない。

恋愛っていったい何なんだ?

この問いの答えを知りたいが故に、大量の恋愛論の本を読んだ。どれも一理あって、本を読むごとに考えが揺さぶられたりしてきた。

そして、また一冊の本を見つけてしまった。それが、中村隆文の『男女交際進化論』だった。彼は、教育学者ということもあって、学校教育における男女交際に注目しつつ、明治時代以降の日本の恋愛観を、かつての文献を基にして、独自の論を展開していた。その一部を見てみたい。

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2006年03月13日

恋愛の対話術―経験から観念へ―

僕は、前から、『自分の恋愛を語ること』と『恋愛そのものを語ること』を区別して考えている。

この区別は、教育学としても重要で、『自分の受けた教育を語ること』と『教育そのものを語ること』との区別に相当する。

これをもっと抽象的にいうと、『私の経験を語ること』と『経験そのものを語ること』の区別となる。

前者から後者へと視点を変えることは、「経験」から「観念」へと移行することと同じこと。一度、観念的な世界を見た後、また経験に戻ると、その経験そのものが変わる、そんな気がする。

これは、僕の学生にも言っている。

先日、うちの学生に言った。『自分の恋愛を語ったり、相手の恋愛を聴いたりするのもいいけど、一度くらいは、『恋愛って何?』って、聴いてごらんよ」、と。

素直な学生は、次の日、さっそく、男の子に聴いたらしい。

「先生、彼に、『恋愛って何?』って聴いてみたよ。そしたら、『Blind』って答えてくれたよ。恋愛は盲目って、言ってましたよ」

嬉しそうに、教えてくれた。僕が言ったことをすぐに実行してくれたのだ。(こういうとき、僕は素直に、嬉しいなと思う。教えたことをすぐに実行してくれると、「ああ、ちゃんと聴いてくれていたんだなあ」と思えるから。逆に、いくら言っても、「分かってます」と言うだけで、実行してくれない学生もいる・・・)

でも、ひねくれ者のkei。言わなければいいのに、「恋愛は盲目かあ・・ なんかありきたりだなあ・・・ どんなヤツか、分かるなあ・・・」と一言。


結果、その一言で、その学生に反感を買ったことは、言うまでもない・・・


*ただ、個人的な恋愛経験をおしゃべりするのではなく、恋愛とはなんなの?と問いかけた彼女には、敬意を表したい。もちろん、その問いには答えなどない。けれど、そういう問いの立て方を身につけていただきたい、と教師Keiは切に願うのである・・・
ニックネーム kei at 20:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2006年02月14日

乙女よ! 恋せよ! 涙せよ!

僕が教えている学生は、福祉、教育、保育、語学系なので、女子学生が多い。

しかもお年ごろの乙女が多いので、恋の話をダイレクトに聴くことができる。

付き合っていた彼氏との悲しい別れ、出会いのないことへの焦り、恋人が欲しくて欲しくてしかたない乙女の渇望、相手にしてもらえないもどかしさ、何も言わずに去られてしまった悲しみ、会いたいけど会えないもどかしさ、などなど。

恋は、十人十色。乙女の数だけ、恋の物語があると言ってもいいだろう。乙女たちの恋愛をずっと見ていると、ラブラブな恋愛が破綻へ、破綻から再生へ、突然の恋恋慕などなど、色んな動きがある。恋はデュナミス(ダイナミズム)、つまり実践だ!!何が起こるかわからないし、どうなるかも誰もわからないのだ。

恋愛をしている時、特に、恋に苦しんでいる時、泣くほど辛くて、一分一秒がとてつもなく長く感じられる。この苦しみが永遠に続くんじゃないかって思ってしまう。そして、どうしていいかわからずに、途方に暮れて、涙する。

僕は、そんな乙女たちにいつも言っている。

「10年後、楽しくいられるように、今は、いっぱい泣いて、楽しい恋も、辛い恋も体験しよーぜ! 忘れられない人がいるというのは、貴重なこと。財産になるんだ」、と。「もちろん、ボクにだって、忘れられない人(その人の存在が心の奥に残っているような相手)は何人かいる。その人たちが、ボクに、人の愛し方を教えてくれた、こういう風にしたら、相手は傷つくんだってことを教えてもらった。今は、昔より少しは、愛するってことがどういうことか、分かってきた気がしている・・・」、って。

神谷美恵子は、「人生本番への関所」として、つまり若者の仕事として、恋愛、配偶者の選択、職業の選択を挙げている。

恋は、若者にしか与えられない、素敵な特権なんだと思う。

大人も、かつて若者の時代に、恋に苦しみ、恋に泣き、恋を憎んできた。そして、色んな出会いや別れを重ね、悩みに悩んで、配偶者の選択を行ったのだ。乙女たちの親だって、皆、そういう過程を経て、乙女たちを生み、必死に育ててきたんだと思う。

だからこそ、一生懸命、勉強して、職業選択し、一生懸命、恋愛をして、配偶者の選択することを目指さなければならない。

働くことへの準備、そして、結婚への準備、それが若者の仕事なのだ。

仕事だって、選択に失敗して、再スタートする人も少なくない。自分が「これだ!」と思える仕事を見つけることは、そんなに簡単なことじゃない。いや、非常に難しいことなんだと思う。

同じように、恋だって、もちろん失敗する。失敗して、しばらく泣いて、悲しんで、苦しんで、でも、また再スタートするんだ。いや、再スタートできるんだ。

乙女たち(教え子たち)には、やはり、素敵な人生を、素敵な生活を送ってもらいたい。

今年ももう2月、僕の教え子たちの就職や進学の朗報を耳にしている。たいへん嬉しいかぎりだ。そう、みんな、頑張って今日を生きている。同じように、恋も、頑張って、大いに苦悩して、限りある青春を生き抜いていってもらいたいと切に願う。

恋せよ乙女。涙せよ乙女。
ニックネーム kei at 17:25| Comment(6) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2006年02月01日

◆元カノの結婚◆


このブログでは、極力個人的なお話は書かないようにしている。ブログというのは、一応公共的なもので、誰でも閲覧可能なので、書き手側の日々の個人的な人間関係については書くべきではないと思っている。(ブログの中には、恋人(相手)の写真をバンバン載せているブログもあるが、それはそれでいいと思うんだけど、ボク的にはNGかな、と)

ただ、個人的な話であっても、一般性の高い話題なら、記事にしてもかまわないと思う。ようは、<自分以外の特定の他者のプライベートな部分>がさらけ出されていなければ、それは公的な記事である、とみなせるからだ。ボク個人のプライベートな部分は、記事を書くことで結局はさらけ出しているんだけど・・・

で、話は『元カノの結婚』。

つい先日、『元カノ』から一報があり、『結婚する』という話を聞いた。その時、純粋に、「お! おめでたいぞ」、「相手が優しくていい人だったらいいな」と思えた。けど、その後、なんともいえない気分になった。

きっと誰にでも、「かつての恋人との甘くて切ない記憶」があるに違いない。この記憶は、ふとしたときに蘇る。ほろ苦さというか、センチメンタルというか。

だから、ホント心の底から『元カノの結婚』は嬉しいんだけど、どこかでちょっと寂しかったりする。この複雑な心境は、なかなか味わいのある奥深い感情だ。

で、『元カレ』、『元カノ』って、どんな存在なんだろうって考えてしまう。

別に連絡を取っていなくてもよい。この世の中のどこかで呼吸をしているのだ。どこかで誰かと暮らしているのだ。もちろん記憶は当時のままかもしれない。けれど、その人は、今、どこかで現在を生きている。そして、時折、会いたい気持ちと会いたくない気持ちが同時に生じる。

また、「かつての恋人」は、今の自分自身を支える土台ともなっている。今回朗報をくれた『元カノ』との日々は、ボクの恋愛に対する態度・考え方に修正を与えてくれた。(この修正が、今の自分自身の恋愛観に強く反映されているわけで・・・)

なんでもそうだけど、人間は失敗から学ぶことができる。恋愛も、失敗を重ねて、人を大切にすることの意味を学ぶ。

恋愛は、素敵な結婚をするための厳しいレッスンなのかもしれない。たくさん失敗して、たくさん相手を傷つけて、また自分自身傷ついて、「恋愛」を学んでいくのだ。恋愛が上手じゃないなら、たくさん失敗すればいい。

そういう意味で、ボクの『元カノ』は、ボクに、恋愛が何たるかを教えてくれたと思う。また、きっと、ボクという『元カレ』を通じて、彼女もきっと多くを学んだんだと思う。幸いにも、その『元カノ』とは、恋愛が消滅した後も、一人の仲間として付き合い続けることができた。

そんな彼女の結婚を心から祝福したいと思う。

I wish you'll be happy...
ニックネーム kei at 14:12| Comment(6) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2006年01月28日

心理学における科学と実践理論

ちょっとひさびさの翻訳モノ。心理学は科学なのか、科学でないのか? 心理学はただのサブカル的な学問なのか?真の学問なのか。心理学の実践者たちは、医師のように実践者と科学者の二面性を有することができるのか? こういった問題はドイツでも熱く議論されている。「人の心を理解する」という超難題を背負う心理学はどこへ向かうのか?

次項有次項有次項有

心理学における科学と実践理論

近代の主流の心理学(Mainstream-Psychologie)は、「心理学独自の概念や研究方法の基盤」(Holzkamp,1997,S.362)をずっと発展させないまま、自然科学の基準に合わせた手段(検査統計・サイコメトリー;身体機能の量的尺度化、スケール理論、実験室実験など)を用いて、数々の心理学の問題設定を行ってきた。それゆえ、心理学は、基盤科学として、体系的に心理学実践を理論化するということをしてこなかった。「基礎科学からすれば、実験室とそのつど研究する生活状況の差異をきちんと指摘して、実践の<科学性>の観点から、<標本(Abstriche)>を必要不可欠なものとして示すことと、一種独特なもろき科学性の要求を実践諸問題から保守するということは、もっともなことなのであった」(同、S.365)。

ゆえに、実践者は、二度、自分自身の学問(Wissenschaft)から孤立させられる。すなわち、≪一度目は、“適切な思考手段”と“実践の科学化(Verwissenschaftlichung)の方法”の提示に対して嫌悪し、またそうした手段や方法を提示することができないために孤立させられる。そして、二度目は、実践が科学的に副次的なものと格下げされることによって孤立させられるのである≫(同)。

実践者が、事実、≪社会的矛盾や抑圧関係の真っ只中≫(同、S.370)で働いているのに対して、理論家は、ただ研究できる程度に近づくだけで、そういった矛盾や抑圧関係から遠ざかってしまっている、という対立を通じて、自分の実践を自ら理論的に定義づける必然性が、前者(実践者)の側に生じるのだ。(テスト診断・治療技術など)心理学に関する技術を有する専門家・スペシャリストとして、心理学的行為を自己主題化するということは、個々人の機能に関連しつつも、上述したような窮地から生じているのだ。

こうした心理学の自己定義は、心理学者たちに職業的アイデンティティーの発見をしつこく迫る心理社会的な労働の領域における競争状況によって、促進させられる。同時に、この自己定義は、患者全体の諸願望とも合致している。≪患者の視点からしても、患者たちの重苦しい生活諸条件と変化に対する責任の克服によって心理学的回復を望む彼らの希望は、心理学者の特殊な知識と特別な能力の実現化を含みもっている。この実現化こそ、別の人間にとって不可能なことを可能にさせてくれるのである≫(同、S.371)。

実践的活動を行う専門家たちの“個々人の機能に対するエキスパート”という自己定義には、以下のような現象が伴う。

(a)心理学固有の労働における成功/失敗は、理論化不可能なものとして、根拠づけ不可能なものとして語られる。
(b)≪心理学的職業行為の問題点を取り上げて公的に議論することは、<経験する>実践者の模範機能(Vorbildfunktion)の指摘によって≫補完される(同、S.375)。
(c)個人に合わせた解決ないしは技術を中心に置く解決優先のため、理論的な解決モデルは無視される。[こうした三つの現象が、心理学実践者の自己定義に伴うのである]

原典
「心理学の根本概念」aus DE.
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2006年01月15日

◇僕は「おひとりさま」を応援します◇

最近、『おひとりさま』という言葉がにわかに浸透しつつあるようだ。

参考ブログ☆

『おひとりさま』というのは、簡単に言うと、一人で旅行レストランに行ける女性、あるいは、一人で行きたいところに行ったり、やりたいことをやったりできる女性、つまり、異性や同姓の友人に依存することなく、一人で立てる、つまり自立している女性のことを言うそうだ。もともとは、岩下久美子(2001年永眠)の『おひとりさま』という本から始まったようだ。岩下さんは『人はなぜストーカーになるのか』(小学館)という本を書いており、ストーカー対策への積極的な提言も行っていた。きっと男性に脅かされず、依存しない女性への啓蒙に努めた方だったのだろう。そんな彼女によって概念化された『おひとりさま』たちが、近年増えつつあるという。

そんな岩下さんによると、

(1)「個」の確立ができている大人の女性
(2)”自他共生”していくための、ひとつの知恵
(3)仕事も恋もサクセスするために身につけるべき生き方の哲学
(4)individual(個々それぞれ)

という特徴を有する女性が『おひとりさま』と呼ばれるようだ。
(参考記事)

おひとりさま向上委員会のHPはこちら!

去年は、『負け犬』という言葉が流行った。この言葉は、あまりにもひどすぎた。『負け犬』という言葉の負のイメージが際立ちすぎた。それに対して、『おひとりさま』は、かっこいいイメージがある。自立した女性、スマートな女性、そういう+のイメージがある。

僕は、そんな「おひとりさま」を応援します。

『現代用語の基礎知識』にも、この言葉が紹介されている。(訂正版がHPに掲載されている)


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ニックネーム kei at 23:34| Comment(3) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2005年11月30日

恋の科学?!

こんな記事がyahooで紹介されていた。

[ローマ 29日 ロイター]
 イタリア・パビア大学の研究者チームはこのほど、学会誌「精神神経内分泌学」で、人の恋する感情は神経成長因子(NGF)という分子の働きが影響している、とする研究結果を発表した。
 研究者チームの調査によると、最近激しい恋に落ちた58人のNGFの血中濃度は、交際相手のいない人のグループや長期間交際をしている人のグループに比べ、かなり高かったという。
 ただ、同じ恋人との交際期間が1年を超えると、NGFの血中濃度は他のグループと同程度まで低下した。
 研究者チームは、恋をすると、なぜNGFの血中濃度が高くなるのかははっきりしないものの、交際が始まる前の「社交上の相性」にNGFが大きな影響を及ぼしていることは明らかだとしている。(引用元

すごい研究だ・・「最近激しい恋に落ちた58人のNGFの血中濃度」を調べるなんて・・・ 激しい恋に落ちた58人ってどんな人なんだ?!?! いや、それ以前に、「激しい恋」はどのように規定されたんだ?? 激しい恋の客観的基準があって、それをクリアした人なのか? また、激しい恋は、胸ときめくロマンティックラブ(個人の内面で、或る表象(刺激)に対する反応として生じる身体的変化)と同義か、そうでないのか??

さらに、一年後に再び調べたって・・・(絶句) ある意味、すごい研究だ・・・

で、この「神経成長因子」は、次のようなものらしい。

 「(神経成長因子は)神経細胞の誕生を促す作用、神経細胞の生存を維持する作用、脳の損傷時に修復する作用、脳神経の機能を回復し脳の老化を防止する作用など神経細胞の生と死に密接に関わるタンパク質です。従って、アルツハイマー型痴呆症や糖尿病合併症の神経障害などの予防・治療に有効であると考えられています。しかし、NGFは分子量が大きく(118アミノ酸残基からなる分子量13,259のサブユニットが2つ非共有結合した2量体)血液脳関門を通過できないため、脳への移行は困難です」(引用元

で、どんな物質にこの因子が含まれているかというと・・・

 「マウス繊維芽細胞に食用植物からの抽出液を添加して培養し、細胞が培地中に産生したNGF濃度を測定することによって、NGF産生増強活性の強い食用植物の探索を行いました。この評価系において、明日葉(あしたば)、ホップ、食用菊の花、ガジュツ(紫ウコン)などに強いNGF産生増強活性があることを発見しました。特に明日葉は活性が強く、15〜20倍のNGF産生を増強しました。ホップ、食用菊、ガジュツなども5〜10倍のNGF産生を増強しました」(引用元

ふーむ。

なるほど・・・明日葉とホップと菊とガジュツ(紫ウコン)か・・ これらを摂取すれば、トキメク頻度が高くなるというわけ・・か?! 

変な話だな・・

誰彼かまわずときめいていたら、困るだろうなあ・・・
ニックネーム kei at 17:09| Comment(3) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2005年11月10日

『聴かないで聴く』

今日は朝から冴えていた猫

布団の中で、ふと思いついた言葉が、この『聴かないで聴く』という言葉だった。

次項有次項有次項有

どんどん社会が、他人による『規制』、『コントロール』の方向へ向かっているような気がする。もちろん『規制』や『コントロール』は、場所によっては、非常に価値のあるものだ。大型コンピューターを駆使した大組織の場合、『規制』や『コントロール』なしでは成立し得ない。『制御システム』は、複雑な現代社会を支える柱のようなものだ。

医療現場でも、『規制』や『コントロール』は、より強力なものになっている。複雑で難解な医療機器の前に立ったとき、患者であるわれわれは、ただただ途方に暮れる。何がどうなっているのか、全く分からない。そして、われわれは、何も知ることなく、病院にただ身をゆだねている。

けれど、医療の場合、そこに身をあずけるのは、他でもない「自分の体」だ。何の説明もなく、病院の制御システムに身をゆだねるのは、やはり怖い。こんな話を思い出す。

砂浜茂一さんの『医者と患者と病院と』(岩波新書)の中の一節に、物理学者湯浅年子さんの話がある。彼女は「医者嫌い」だった。そんな彼女が病にかかってしまう。が、医者が嫌いな彼女は、病院に行こうとしない。なんとか、手術までたどり着くものの、病院でも持論を展開する。医師が、「私は原子核物理の話ならあなたの言われることを何でもきいているでしょう。だから、逆に医学のことは私のいうことをきいて下さい」と言っても、彼女は、「原子核物理のことはあなたには何の利害も及ぼさないでしょうが、医学のことは私の身体のことですから」、と反撃するのだ。(cf.p.2)

現代社会に生きるわれわれは、何かことがあると、すぐに病院にいく。湯浅さんのように、医師に対話を求めることなく、なんとなく病院に行く。そして、治療を求める。薬を求める。

たとえ病院に行かなくても、すぐに薬局に行き、薬を買おうとする。そして、薬に頼ろうとする。つまり、広い意味での「医療システム」に頼ろうとする。

つまり、少しでも体の異変があると、すぐに『治そう』としてしまうのだ。

さらに、健康であるにもかかわらず、さらに健康になろうとする場合もある。『健康食品』、『健康薬品』に熱中する人がいる。こういう人は、『健康である』にもかかわらず、さらに『健康になろう』と欲している。最近では、「コエンザエムQ10」の流行などがあった。

人は、なんとかして、治そうとする。まさに『治して治す』のである。

でも、その一方で、『自然治癒力』というのもある。つまり、『治さないで治す』という発想である。風邪なんかは、実はほっとけば治ると言われている。発熱も正常の働きとも考えられる。傷口も、けがの後すぐに洗って、絆創膏を貼っておけば、その後ちゃんと見事に治ってしまう。心の傷(恋愛の痛手など)も、なぜだか、時間の経過の中で、気づいたら治ってしまっている。

ふむふむ。

とすると、こうも考えられる。

『聴かないで聴く』
『治さないで治す』
『(人と)関わらないで関わる』
『理解しないで理解する』
『何にもしないで何かする』

これは、言葉遊びではない。「身体や心が病んだとき、治さなければならない」、「人の話を聴くとき、一生懸命聴こうとして聴かねばならない」というテーゼへの問いだ。また「人を理解するとき、理解せねばならない」という主題への問いかけだ。

有名なのは、『森田療法』だ。まさに、『治さずにして、治す』の王道だ。

これと同じように、「相手が何を考えているのかを知ろう知ろうとすること」をやめてしまうこともできるのではないか。そして、逆説的に、自ら知ろうとすることをやめて、目の前にいる相手に自分の心を開く時に、その相手が見えてくるのではないか。

また、時折、こういうことを経験する。<誰かに怒られたとき、納得できず、言うことを聴かない>、ということを。けれど、後になってみると、なぜだか、その怒られた内容を反省して、それを繰り返さないのだ。つまり、『言われたことを聴かないで、結果、聴いている』ということもあるのだ。

そういう『聴き方』もいいのではないか?!
ニックネーム kei at 08:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2005年09月25日

★中世ヨーロッパの農民の恋愛観★

J.L.フランドランの『農民の愛と性』(1989.白水社)という本を見つけた。

この本では、中世フランスヨーロッパ)の庶民の恋愛観が丁寧に描写されている。

フランドランは、中世のヨーロッパ人庶民の言葉を集めている。その言葉から、恋愛を理解する手がかりが見いだせそうだ。

「愛と理性は相いれない」(13世紀)

「狂気の愛からは悪しか生まれず」(パイーフ、16世紀)

「怒り、狂気、愛、どれも瞬時に終わるのが最高」(フランス)

恋人はその美しさに魅されて愛すればよいが、妻はその美徳と善意をみて愛せ」(バスク地方)

「一時の恋による結婚と悔恨は同じ年に生まれる」(同)

「恋愛で結ばれた者の夜は楽しく、昼間は悲惨」(プロヴァンス)

これらの言葉(中世の恋愛観)から、「恋愛(情熱・ドキドキラブ)」がどれだけ否定的に考えられていたかがわかるだろう。というより、中世の人間でさえ、ロマンティックラブの恐ろしさを分かっていたのだ。だから、「格言」として、言い広まっていたのだ。

人間は、一方でロマンティックラブという呪いに似た麻薬に惹かれつつ、他方でその恐ろしさを知っている。現代を生きるボクらは、「恋愛」の怖さや悲惨さを知っているのだろうか。それとも、すでにその耽美に溺れてしまったのだろうか。続きを読む
ニックネーム kei at 19:25| Comment(8) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2005年09月19日

同性愛とレズビアンの歴史?!


同性愛(Homosexualität)は、そもそも、ギリシャ語で、「変化(Veränderung)」を意味していたそうだ。

他方、現代使われている「同性愛」の概念は、19世紀、性病理学の専門領域にて初めて使用されて、現在に至っている。また、ゲイは、ホモセクシャルの俗語として使われていて、現在は男性にのみ適用されている。

1969年、ニューヨークのクリストフストリートで、初めて同性愛者が警察の手(弾圧)から自由になった。1990年には30年式典が行われたそうだ。しかし、同性愛運動のさきがけは、なんとベルリンなのだ! 医師のMagnus Hirschfeldさんが、ベルリンに、学問的人間委員会(WhK)を設立したのが、1897年。かれこれ110年前だ。ここから、同性愛者の市民権運動が始まったのだ。しかし、1933年以後、国の弾圧によって解体させられてしまった。

また、有名な話だが、レズビアンの歴史はかなり古い。紀元前612年に生まれた女流詩人サッフォさんにまで遡れるのだ(このサッフォさんは、なんとピックを使って楽器を演奏した始めての人物なのだそうだ!)。彼女自身はファオンという男性に恋していたのだが、彼女の住んでいた島には、女性の同性愛の風習があったのだ。この島は「レスポス島(Insel Lesbos)」と呼ばれていた。このレスポスに、レズビアンの語源がある。Lesbosは、現在Lesvosと表記されていて、レスポスがにごり、レスビアンとなったようだ。つまり、ギリシャ時代から、同性愛の風習があったということになるし、また同性愛が「病気」ではなく「風習」、「習慣」、「文化」であったということなのだ。(なお、サッフォがレズビアンだったというのは疑わしいものの、そういう風に言っている人は多い) 

いったいこのレスポス島はどんな島なのか、分かりかねるが、非常に興味深い話だ。現代社会において、差別的に見られる事柄も、時代や場所が変われば、当たり前のことになってしまう。つまり、ボクらの偏見や差別は、歴史や世界の捉え方の貧困から来るものなのだろうし、また、見方や考え方を少し変えれば、かなり違った見方ができるのだ。

少しでも、物事をでっかく、深く見れるイカした人間になりたい・・
けど、むずかしいだろうなあ・・ 言うは易し、されど行うは超むずかしいのだ・・・
ニックネーム kei at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2005年09月18日

帰ってきた恋愛論−恋愛が難しい時代に−


ボクらの時代の恋愛はとても難しい。

恋することはかんたんだ。
でも、恋愛はむずかしい。なんなんだ?!

恋愛関係の成立においても、恋愛関係の持続においても、夫婦関係の維持においても、男女の人間関係はますます難しくなってきている。ドイツでは、夫婦の約三分の二が離婚しているし、アメリカでも二分の一が離婚している。さらに、フランスでは、結婚そのものが減少傾向にある。神谷美恵子が言うように、恋愛は、「青年期」の大きな仕事であるにもかかわらず、人はあまり「恋愛」を学ばないし、「恋愛とは何か」を問うこともない。「恋の経験」はたくさんしているものの、それを「持続する恋愛」に発展させようとはしない。エーリッヒフロムが言うように、現代人は、ますます「恋愛」を「運命」と考え、(同じ意味だが)「偶然」と思うようになっていて、他力的というか、偶然まかせにしてしまっているように思う。

恋愛は難しい。小谷野氏が言うように、「もてない男」もたくさんいる。恋愛が出来ない人、結婚ができない人も今後ますます増えてくるだろう。じゃあ、恋愛(夫婦間も含む)の困難さは何なのか。現代人はなぜこれほどまで「恋人関係」や「夫婦関係」に苦しむようになったのだろう。これは大きな問題だ。。。

そこでずっとボクが気になっていたのが、「恋ありき愛」という発想(考え方)だ。現代人にとって、「異性への恋心」の基準は、「感情」「気分」「ドキドキ感」である。もてる人ももてない人もこの点では変わりない。いわば、「恋する対象の表象(イメージ:Vorstellung)に対して身体的に反応する情緒(感情)」が、恋愛の根拠となる。これが、現代人の恋愛には必要不可欠なのだ。感情がうずけば恋をする。感情がうずかなくなれば安易に別れる。ないしは別の異性に移る。誰もが「感情」に振り回されている
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ニックネーム kei at 21:39| Comment(8) | TrackBack(0) | 心理と恋愛と対人関係

2005年09月10日

■同性愛研究の現在■

ドイツの同性愛研究についての論文を訳出してみた。

興味のある方のみ、お読み下さい!!

ゲイ・レズビアンの「差別問題」が主なテ