ひらめき生涯一教師、生涯一研究者で頑張りますパンチ


2006年12月30日

大学時代のボランティア仲間との再会♪


僕は、大学時代(大学一年生の時)、ボランティア講習会、ボランティア体験学習(障害者施設)で出会った仲間たちと『SEEDS』というボランティアグループを作り、ボランティア活動に積極的に取り組んだ。

大学内でもボランティアサークルに入っていたが、外部の人たちとの交流の方が(個人的には)楽しくて、このSEEDSに力を注いだ。メンバーは、各大学・短大の学生たち、社会人で、色んなところの学生や社会人と一緒に楽しい時間を過ごすことができた。

二年半くらい活動したのかな? その後、各メンバーがそれぞれの学業や仕事に忙しくなり、「自然消滅」していった。当時の僕はまだ「会長」っていう仕事をこなせるほどの力はなく、会を持続させることができなかった。色んなトラブルもあった。(その後、千葉でJOUIR CLUBという団体を結成したのだが、それもSEEDSが土台になっていた)

そんな学生時代の青春の一ページを共に過ごした仲間と、三年ぶりくらいに再会した。たまに会っているのだが、最近はなかなか会う機会がない。みんな、それぞれの分野の第一線で活躍している。I君は老人ホームの現場リーダー。現場の介護士たちのコーディネートをしている。このブログにもたまにでてくるmihoさんも、ある地域のソーシャルワーカーとして、地域福祉に貢献している。で、大学時代の盟友大ちゃんも、今は某福祉作業所の所長さん。かつての仲間が、福祉の第一線で活躍している。

みんな熱い人間なので、会えば福祉の話メインで、熱心に語り始める。僕は「社会福祉」を教える教員だから、彼らの生々しい話はとても勉強になる。本当に勉強になる。しかも、かなり気合の入った実践者たちなので、話もどんどん深いところへ、核心へと迫っていく。「いったい福祉の専門性って何なのか?」、「よい実践者はどのように規定されるべきか」、「ソーシャルワークってそもそもどういう仕事なのか」、「いったい何をどう援助することが、利用者の方々の幸せにつながるのか」などなど。

話が盛り上がって、千葉から先の最終電車に乗り遅れてしまった。でも、それくらい楽しいひとときだった。みんな、かつてのように、熱くて、突っ走っていて、苦悩していて、迷いつつも、自分を見失うことなく頑張っている。僕も負けられない!って思った。

SEEDSをやっててよかったって改めて思った。学生時代の活動は本当にかけがえのないものだったんだ、と再認識した!!

SEE YOU
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2006年11月30日

●「障がい」をもっている人の強さ●


こういったら語弊があるかもしれないが、僕は、「知的障がい」をもった人たちが大好きだ。純粋に素敵だと思っている。これまで数多くのそういう人たちと出会ってきたが、いつも何かを感じさせてくれる。

今回は、おっちゃんのOさんと25歳のKくんという素敵な人のこと。

IMG_6741.JPG

二人とも、カラオケが大好き。歌うことが何より楽しいこと。歌うことが何よりも大好きで、歌いだしたら止まらない。

どんな歌が好きなの?と聞くと、さぶちゃんこと北島三郎、鳥羽一郎、細川たかし・・・ Kくんなんて、まだ若いのに、なんていう歌を知っているんだ?!とつっこみたくなるほどレトロ。唱歌もマスターしている。歌詞もしっかり覚えている。Oさんも演歌大好きなお方で、「おれは歌がうまいよ〜すごいよ〜」と言う。

OさんやKくんだけでなく、多くの「知的障がい」をもった人は、結構古い曲、唱歌などをよく知っている。Kくんの場合、おばあちゃんからいつも聴かされていたそうだ。「おばあちゃんがいつも歌ってくれたんだよ」。

でも、二人とも現代の曲となるとてんでダメ。頭に入ってこないみたいだ。この日、ぼくら三人で「雪国」を歌いながら、広い牧場をブラブラ歩いた。

彼らと話していて思うことがある。彼らは、直接自分に語りかけてくれる歌を覚える。テレビやラジオなど間接的な曲は頭に残らない。いつもそばで歌ってくれる歌を愛するのだ。他方、僕らは、身近な他者が歌う歌を忘れ、一時的にはやるだけの流行歌を追い求める。テレビやラジオ、喫茶店などでかかっている音楽にすぐに飛びつき、「消費」する。だから、誇れる日本人として知っておかなければならない唱歌や民謡などは忘却してしまう。

OさんやKくんは、世俗の歌にそまった僕らよりも、大切なことを知っているし、身体で学んでいる。「障がい」があるがゆえに、最も大切なものを失わないでいるのかもしれない。僕らの社会はいらないもので溢れかえり、最も大切なものを見出せないでいる。けれど、OさんやKくんにそういう悲壮感は全くない。楽しくて明るくて元気で素直。とにかくポジティブ。(でも、いわゆる「オトナ」から何かを言われると、しゅんとなってしまう。繊細な花のようだ)

僕らは、本当に大切なことを学んでいるのだろうか。たしかに、現代社会を生きる僕らはあまりにも多くのことを学んでいる。大学に行く若者の数も半端じゃない。じゃあ、それでいったい何を学んだのだろう。大切なことって何なのだろう。学ばなければならないことって何なのだろう。彼らは学ぶべきことをしっかり学んでいるように思えてならない。

健常者が強くて、障がい者が弱いだなんて誰が決めた? 僕たちはまだまだ彼らから学ぶことがたくさんあるのではないだろうか。。
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2006年11月08日

◆ドイツの知的障害者論◆【翻訳】

最近のドイツの知的障害者論の翻訳です。ドイツ国内最大級の障害者支援組織であるAktion Grundgesetzという団体がまとめた本です。

『知的障害』をもっていても、人間として、人として、大切にされ、尊重されなければならない。ドイツは、この理念を実際に法文化しているし、徹底化しようとしている。

あらゆる障害者にとって住みやすい町は、きっと誰にとっても安心できる町となるだろう。その実現は非常に困難であろうが、それを目標にして目指し続ける町は、きっと素敵な町であろう。

いわゆる『弱者』にやさしい町は、或る意味で、セキュリティーがしっかりしている。僕らの住む社会(地球)は、暴力や事故や犯罪など、非自然的な恐怖に溢れている。障害者にとってのバリアーもやはり恐怖だ。そんな社会の中で、可能なかぎり安全で平穏な簡素な生活を過ごすことが保障されていたら・・・ きっと安心感を得られる町となるだろう(だが、そうした平穏な簡素な生活に満足できないのも人間の罪であろうが・・・)

というわけで、ドイツでの『知的障害者論』に耳を傾けてみたい。

翻訳文章⇒続きを読む
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2006年10月11日

千葉【障害のある人もない人も共に暮らしやすい県づくり条例】


今日11日に、千葉県で、全国初の「障害のある人もない人も共に暮らしやすい県づくり条例」が成立した!!

来年4月からスタートされる。

gooニュースの記事はこちら

とうとう「障害者差別」が、法で禁止されるに至ったのだ!

僕もこれまでいろんな「差別」を目のあたりにしてきた。車椅子の障害者だからということだけで、不当に1時間以上駅で待たされたり、障害者と一緒だからということで、レストランへの入店が拒否されたり。ひどいときには、モノを投げられたりもした。「障害者」というだけで、厳しい差別が現にあった。

「差別」は、されるほうは本当に辛い。人間として見られない悲しさもある。すごく冷酷な目。見られた方は固まるしかない。「見る方」は悪気はないかもしれない。差別する方だって、そういう風に学習してしまっただけ。誰が悪いとかは言ってもしかたない。また、色んな事情があって、「入店拒否」というのもあったのかもしれない。でも、どんな事情であれ、「障害者」だからという理由だけで、「拒否される」のは、とても悲しいことだ。誰だって、いつどうなるかわからない。

千葉県は、ある意味、すごい決断をしたと思う。

今後、この条例がきちんと使われることを祈るばかり。ただこの条例を「悪用」する人もでてこないとも限らない。「差別」というのは、その人の感じ方や捉え方に強く影響している。「痴漢」のときもそうだが、「これは差別だ」、「これは差別ではない」という解釈・判断は、非常に難しいと思う。差別かどうかを、いったいどうやって正当に評価するのか。「差別された!」と主張する人と、「これは差別ではない!」と主張する人の対立は絶対に避けられない。

明らかな「差別」ではなく、あいまいで微妙な「差別」。

ジャッジメントの問題は、今後、大問題となる大きな難問だと思う。
ニックネーム kei at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会福祉とボランティア

2006年09月16日

ドイツの身体障害者の声なき声【翻訳】


Dr.Keiの研究室ならではの翻訳モノです。(ドイツ大好きで福祉大好きな人間で、翻訳マニアのkeiならではっていうことで・・・)

障害者関連の文献の引用用に訳しました。

ドイツで暮らす障害者の素直な言葉が、そこには掲載されていました。すごく胸に突き刺さる文章でした。外国語なのに、すごく響きました。

声を失った人の声。

それは、強烈に僕らに訴えかける声でした。

是非読んでいただきたい文章です。男性の文章と女性の文章を一つずつ。

文章はこちら⇒続きを読む
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2006年08月09日

ナチュラルサポート◇障害者自立支援のカタチ


今日,『ナチュラルサポート』という言葉を学んだ。どんなに福祉が発展しても、最後は、ナチュラルなものが一番大切だ、という。

さて。。。

障害者福祉の今日の大きな課題として、「障害者の経済的自立をどのようにサポートしていくか」、というのがある。「障害者の雇用の促進に関する法律(障害者雇用促進法)」や「障害者自立支援法」は、その法的な第一歩と考えることもできる。国による措置・保護という視点から、どのようにして新しい障害者福祉像を描くことができるのか。

今、たくさんの実践的な試みがなされている。養護学校の後の就業訓練がある。また、ハローワークに行けば、障害者の就業サポートが無料で受けられる。「職業リハビリテーション」もある。企業の「トライアル雇用」もある(2005年で実数6000人の障害者がこのトライアル雇用を受けた)。障害者の就業援助をしてくれるジョブコーチ(職場適応援助者)も増えつつある(H16年で実数2960人、2002年開始)。また「障害者職業カウンセラー」といった専門職の人もいる。「職業訓練指導員」もいる。(職安の)「障害者職業相談員」もいる。

こうした努力もあってか、障害者の就業者の数は確実に増えた。

ちなみに、障害者の数は次のとおり。(2005年、参考はこちら

身体障害者(18歳以上)⇒342万6000人
知的障害者(18歳以上)⇒34万2000人
精神障害者(18歳以上)⇒243万6000人
計619万4000人(障害を持つ高齢者も含む)

この約620万人の中で、働く職場のある障害者の数は、19万7388人。全就業者数の1,49%となっている。ただ現実は、そんなもんなんだ〜、という感じだ。620万人の中で、65歳未満の障害者の数はわからない。高齢の障害者もかなり多いので、実際、就業可能な障害者の数は300万人いるかどうかくらいだろう。それでも、19万人しか雇用されていないのだ。

で、ナチュラルサポートの話に戻る(本題)。

続きはこちら⇒続きを読む
ニックネーム kei at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会福祉とボランティア

2006年08月09日

ボランティアで放送大学の福祉の講義を受けました!


今日は,肢体不自由の障害をもつ僕のかわいい弟分のボランティア(ノートテイク)で,放送大学の福祉の講義に参加した。

普段,福祉を教えている僕としては,とても新鮮な経験となった!

ノートテイクのボランティアは,文字を書くことが困難な人に代わって,講義のノートを書く。いわば,授業の代理人のようなものだ。

また,放送大学の講義を聴くことができたので,とてもありがたかった。新たな福祉の一面を学ぶこともできた!
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2006年07月29日

■障害者の法と権利について■ドイツ■

障害児・者の差別や法的不平等をどのように克服していけばいいか。

この際、憲法第25条の【生存権】だけでなく、十三条【個人の尊重】、十四条【法の下での平等】も考えていかなければならない。(とはいえ、こういうテーマの研究や勉強会は草の根的にはとても活発であるように思われる)

これまで築いてきた人間の知恵を綜合すれば、「人間はとりあえず日々の暮らしを、誰の手(いかなる権力)によっても脅かされることなく、安心して暮らしていけるようにする」、ということを目指している。

福祉の基本は、wellにfareする(難なくふつうに生きていく)、wellにbeingする(難なくふつうに存在する)、ということである。

障害を抱えた人は、たまたまその人が抱えることになってしまった「障害」(外側から規定されるラベリング)によって、難なくふつうに生きることが困難となる。そうした困難から、障害を抱えた人を守るのが、法であり、人間の知恵である、と思う。

ドイツ(あるいはヨーロッパ諸国)でも、同じように、こうした問題に取り組んでいる。というよりもむしろ、(ドイツを含む)ヨーロッパでこそ、こうした障害者の問題が積極的に議論されている。

そんな「障害者の方と権利」についての議論の一端を覗いてみたい。

続きはこちら⇒続きを読む
ニックネーム kei at 12:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会福祉とボランティア

2006年07月21日

介護と貧困に疲れて実母を殺害した人のこと

今日のニュースで、介護と生活苦を理由に自分の母親を殺めてしまった男性(54歳)の判決が下された、というのがあった。

詳しくはこちら

抜粋すると、

介護疲れと生活の困窮から今年2月、合意の上で認知症の母親=当時(86)=を殺害したとして、承諾殺人などの罪に問われた長男の無職、片桐康晴被告(54)=京都市伏見区=に対する判決公判が21日、京都地裁で開かれた。東尾龍一裁判官は「結果は重大だが、被害者(母親)は決して恨みを抱いておらず、被告が幸せな人生を歩んでいけることを望んでいると推察される」として懲役2年6月、執行猶予3年(求刑・懲役3年)を言い渡した。(引用元


この判決の際、弁護士や傍聴席の人だけでなく、裁判長までも涙した、という。この事件は、本当に、「やむにやまれぬ」と思う出来事だった。裁判という一連の手続きは一応の終結を迎えたが、社会福祉学や人間学的には、まだまだこれからじっくり考えていかなければならないだろう。

この事件の無難な着地点は、「現状に応じた社会制度の整備を!」というところだろう。己の問題に還元することなく、社会、政治、制度、行政の問題と処理して終わってしまうだろう。

じゃあ、人間学、実践学、社会福祉的には、いやkei的には、どう考えたらよいのだろうか?

続きはこちら→続きを読む
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2006年07月05日

■宮崎勤の声■


僕は1975年生まれ。31歳。第二次ベビーブームの世代に属する。そして、団塊ジュニアの世代に属している。バブルの雰囲気を感じつつもその恩恵を受けなかった世代。就職氷河期を生きた世代。教員採用ゼロの時代。不登校ひきこもりといった事態にたくさんの人がおちいった世代。

そんなボクらにとって、きっと忘れることの出来ない人のひとりが、宮崎勤だと思う。物心が付き始めた頃に、一番ショッキングな事件を引き起こした人。彼の衝撃は、今も忘れることができない。もちろん僕ら世代よりも上の人たちも忘れることのない人かもしれないが、少なくとも僕にとってはかなり(とてつもなく)衝撃的だった。物心がついてはじめてのショッキングな事件だった。けれど、僕の学生たち(12歳下くらい)は、その名前や事件は「知って」いても、あまり「分かって」いない。今日の社会では、とんでもない事件が次から次へと起こる。「戦争」とはまったく別の「残酷な事件」が日々生じている。僕の次の世代にとって、「宮崎勤」はどのように理解されるのだろう?

宮崎勤氏は、1962年生まれ。いわゆる『新人類』と呼ばれた世代の人で、今となっては輝かしい『おたく』と呼ばれた最初の世代に属する人だった。彼は、先天性撓(とう)尺骨癒着症という手(腕)の障害を持っていた。1988年から89年にかけて、3人の少女を殺害し、89年7月23日に逮捕される。その後、ずっと裁判が続き、現在もなお存命中である。

事件後の焦点は、彼が「正常」か、「異常」か、ということだった。彼の精神鑑定の結果には、多くの人が関心をよせた。

彼のこれまでの経歴はこちら

そんな彼の手記はすでに二冊世に出ている。『夢のなか、いまも』。

そして、今回、最新の彼の言葉が、『』(雑誌)に掲載されている。死刑に対する彼の受け止め方、考え方が赤裸々に語られている。

今一度、宮崎勤について考えてみるのも良いかもしれない。一体、彼は誰だったのか? 今の彼はどんな生を生きているのか? 言葉の裏にあるものは何か? われわれは彼のどこまでを知っているのか? 決して彼は許されないが、彼を知り、彼を通じて、われわれはもっと賢明になれるのではないか、と思う。

犯罪は許されないし、法を犯す者は裁かれねばならない。けれど、常に犯罪はあるし、法を犯すという行為もなくならない。人を殺すことはいけないことと誰もが「知っている」のに、毎日殺人が「ある」。このパラドクスは永遠に続くのか。終わるのか。
ニックネーム kei at 17:42| Comment(4) | TrackBack(1) | 社会福祉とボランティア

2006年06月20日

『ヤミ金融』鈴木宏明

『ヤミ金融クレジット社会の落とし穴』
鈴木宏明/岩波ブックレットNo.588/2003

社会福祉の原点は、「貧困」であり、「救貧」である。けれど、今の日本では、「社会問題」となるほど「貧困」はさしせまった問題とはなっていない。ホームレス問題はあるものの、世界の貧しい国のような「貧民問題」は認められていない。つまり、公共の課題とはなっていないのである。

だが、日本には、はっきりとした「貧困問題」がある。貧しさゆえの借金苦、そして、(それに応じた)世界10位の自殺王国、ということだ。先進国の中では、日本が圧倒的に多い。年間3万人以上が毎年コンスタントに自殺を試みている。未遂者を含めると、とんでもない数になる。日本の貧困問題は、世界の貧困問題とは違うが、れっきとして存在する大問題のような気がする。

さて、本書は、こうした背景の中、いったい多重債務者はどのようにして生じるのか、ヤミ金融の実態はどのようなものなのか、多重債務者や自己破産者にどのようなサポートが可能なのか、ということについて論じている。今日の社会福祉の原点をさぐるためにも「いい本」であるし、また、誰もが陥る可能性のある「多重債務」の構造について知るためにはうってつけの入門書となっている。

社会福祉の問題は、介護や養護や自立支援だけに留まるものではない。「キレイゴト」ではないなまなましくてドロドロしたものも含まれているのだ。いや、むしろ、人間社会の最も「触れたくないドロドロした部分」を直視して、問題化していくことこそ、社会福祉の使命なのかもしれない。そういう視点で、本書を読みたい。

著者鈴木によると、多重債務者は「真面目な人」が多い。そして、彼らは決して豪遊したり、無謀な買い物をしてきたわけではない。ちょっとした借金を返すために、別の機関から借りることで、どんどん借金自体が膨らんでいってしまうのである。そして、自己破産。日本の自己破産者は16万人以上。また、複数の金融機関から借金をしている「多重債務者」は、日本で、おおよそ150万人から200万人はいる、とされている。

続く⇒続きを読む
ニックネーム kei at 13:28| Comment(6) | TrackBack(0) | 社会福祉とボランティア

2006年06月14日

高齢社会の苦悩と実践学


今日、「医療制度改革法」が、衆議院で可決された。

これによって、高齢者の医療費に関するシステムがより弾力的なものになる。

「これにより、10月からは、70歳以上で現役並みの所得(夫婦2人世帯で年収520万円以上)がある人の窓口負担が3割(現行2割)に引き上げられる。長期療養の療養病床で入院する70歳以上の患者は、食費や光熱費など居住に必要な費用が原則、自己負担となる。」
引用元

障害者自立支援法と同様、「自己負担の原則」がさらに強化されることになりそうだ。

(理由はともあれ)国の財政はもうキツキツ。国の財政をとにかく引き締めることが、政府の最優先課題となっている。どうやって国の負担額を引き締めるか。これが、最近の政府の前提条件なのである。

僕ら普通の市民から見ると、「また負担額があがったなあ」ということになる。また、高齢者から見れば、死活問題となる人と、そうでない人に分かれるだろう。

これから医療保障はどうなるのか?どうすべきなのか?誰にも分からない。しかし、何らかの決定はしていかなければならない。今のままでよい、という「現状維持」は難しい。かといって、「これだ」という答えがはっきり用意されているわけではない。これこそ、まさに「実践学」の本来の苦悩である。

日本の高齢社会は、他の国以上に深刻だ。高齢化するスピードがどこよりも早いからだ。「団塊世代」(第一次ベビーブーム世代)以降、少子化は止まらない。10年後、15年後、いったい日本はどうなっているのか? 労働力となる人材育成はどうなるのか? (ビジネスとしては成り立たない)高齢者福祉は、どこまで安定した雇用体系を見出せるのか? 日本の苦悩はまだまだ始まったばっかりだ。

犯罪問題、教育問題、介護問題、社会保障問題など、人間を取り巻く諸問題は、人間の英知が最大限に発展してもなお、尽きることなく現存している。いや、それどころか、山積している。これだけ社会は進化・発展してきたにもかかわらず、その根幹の部分は、非常に脆弱であり、もろくて、危ういのかもしれない。

それでも、僕らはどうにかやっていかなければならない。何らかの判断を下し、何らかの方策をねり、何らかの行為を行っていかなければならない。そういう意味で、高齢社会の苦悩は、まさに『実践学の苦悩』なのである。苦悩のない実践はない。みんなで知恵を出し合って、みんなで苦悩を共有しあって、リスクを犯しながらやっていくしかない。

*でも、僕の気がかりは、またタバコの値段が上がることだったりする。また一本一円の値上げだそうだ。悲しいが、これも現実なのだ・・
ニックネーム kei at 12:56| Comment(8) | TrackBack(3) | 社会福祉とボランティア

2006年04月23日

幸福と不幸−福祉と中島義道の『不幸論』

通常、『福祉』という言葉は、『しあわせ』と言い換えられる。「福」も「祉」も、めでたい言葉で、どちらも『幸福』、『幸運』といった意味を持っている。(welfare・well-beingにもそんなに意味の違いはない)

だが、『福祉』の実際の場、つまり福祉の世界(現場であれ理論であれ)は、通俗的には、『不幸』と呼ばれるような出来事が多い。幸せな人が福祉の世界に入ることはないだろう。なにも、好き好んで、保護や介護を受けようとする人はいないだろう。例えば、車椅子に乗りたくて(欲しくて)、わざと自分の足を切断する人はいない。ほとんどの人が、『なんで私が?』、『どうして自分が・・』、『神はなぜゆえに私たちに・・・』といった理不尽さを感じながら、福祉の世界に入ってくる。福祉の世界には、「こんなことホントにあるのか?」、「自分だったらどうなるんだろう?」といった、信じがたい悲痛な出来事がずらりと並ぶ。

福祉の現場を見ても、事例や記録を読んでも、介護者の話を聞いても、当事者の声を聞いても、有識者の本を読んでも、そこで語られることは、非常に厳しい現実である。そして、福祉の歴史を見てみれば、どれだけ『悲惨で悲痛な出来事の繰り返し』だったかがありありと伝わってくる。いつの時代にも、不幸な人がいたし、今もいる。不幸な人がいない時代などなかった。

じゃあ、なぜ『福祉』は、「しあわせ」を意味するのか? また、なぜ、福祉は「しあわせ」を意味しなければならないのか? 

現場を見ても、歴史を見ても、記録を見ても、しあわせな福祉などどこにもない。また、福祉を通してしあわせを提供するなんて、そんな不遜なことなどとうてい考えられない。学生で、よく、「困った人を助けたくて福祉の世界に来ました」という人がいるが、そんな学生も、(その学生が<まともな学生>であれば)実習やボランティアを経ることで、そんなこと出来やしないと悟ることになる。

しあわせっていったい・・⇒続きを読む
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2006年04月21日

母子の餓死と河上肇の『貧乏物語』


今日、講義で、河上肇の貧乏物語をもとに、「貧乏」、「救貧」ということについて話した。

河上は貧乏を次の三つに分けている。

@金持ちに対する貧乏
A被救恤者(pauper)=何らかの扶助を受けている人
Bbodyを維持するために必要な物資を得られていない人

で、河上が問題にしたのがBのbodyを維持するために必要な物資を得ていない人だった。

この飽食・贅沢王国ニッポンで、『餓死する人』はどれだけいるのか?いったいbodyを維持するために必要な物資を得ていない人はどのような人なのか?といったことを議論した。が、学生たちにはどうもピンとこないようだった。Bのような現象なんて、今のニッポンにあるの?というのが、学生たちの素直な感想だった。

が・・・・→続きを読む
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2006年04月14日

☆keiとDawnさんのコラボ☆

3年くらい前から書き続けていた一本の論文、『沈黙するボランティアの主体性』のABSTRACT(要約)がやっとできた!

最初、ドイツ語でABSTRACTを書いたんだけど、英語が必要ということだった。英語で要約かあ〜と、ちょっとブルーになったんだけど、なんとか(きっと恐ろしい英語を)書いた。

本来は、しかるべき機関に依頼して、自分の論文の英語の要約を校正してもらうべきなのだ。もちろん有料。どんなに英語に自信のあるひとでもそうしている。

あつかましくも、僕は、先月ハワイで出会ったDawnさんに、メールで、「文章の校正、お願いしてもいいですか?」と頼んでしまった。そうしたら、すぐに校正をして、僕にメールしてくれた! すごく嬉しかった!!

僕とDawnさんと二人で作ったABSTRACTわーい(嬉しい顔)るんるんるんるん

こちら⇒続きを読む
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2005年12月28日

■THE BIG ISSUE JAPAN■ホームレスの方との沈黙の対話


都内の街中を歩いていると、時折ホームレスの方が本を数冊持って立っている姿を見かける。数年前はめずらしかったが、今は見慣れた感がある。で、何をしているのかというと、彼らは「THE BIG ISSUE」という雑誌を売っているのだ。現在の時点で、41号が発売されている。第1号は、2003年9月。2年以上の歳月が過ぎたわけだ。

もともとはイギリスのホームレスの自立支援の方法として誕生した。だから、THE BIG ISSUEの表紙には、欧米系の著名人が登場することが多い。

img058.jpg

だが、この試みの面白いところは、別のところにある。

社会福祉では、「ホームレス」の人たちにどのような支援を行えばいいか、どのように自立支援プログラムを作るか、といった問題を立てる。「ホームレスの人に対して」という意識が強く働く。そうすると、ホームレスの人たちは、社会福祉の思考の「対象」となり、「見られる立場」となる。そして、「ホームレスの人に対する援助」という議論が展開されることになる。

だが、このTHE BIG ISSUEの試みは、そういう対象化をしない試みと言える。「雑誌を売る人」と「雑誌を買う人」という関係性の中で、ホームレスの人とホームレスでない人は関わることになる。買う側は、ホームレスの人への経済的支援として寄付金を支払うのではなく、あくまでも「雑誌の購入者」に留まる。逆に、売る側、ホームレスの人たちの側からすれば、「同情」でお金をもらうのではなく、「労働の対価」としてお金を受け取る、ということになるのである。

偽善的・独善的なかかわりではなく、等根源的なかかわりを・・・ そういう視点でこの試みをみると、面白いことが起こっている気がする。



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2005年12月07日

【LOHAS】


最近、LOHAS(ロハス)という生き方が奨励されているようだ。

ロハスは、 Lifestyles of Health and Sustainabilityの頭文字を取ったもので、「健康で持続可能なライフスタイル」(健康と[環境破壊をしない]維持可能性を有する生活様式)という意味を持っている。そして、ロハス自体は、そうした理念から生まれた商品などを扱う2268億ドル程度のマーケットを表しているようだ。例えば、ヨガ、フィットネス、アロマテラピー、漢方など、そして、有機野菜や有機食品などがロハスに属すると考えていい。(現在、ヨーロッパではフィットネスとヨガが流行っていると聞く) また、ヒーリングミュージックもロハスの一形態と言えるようだ。アメリカのロハス消費者は、6300万人(アメリカ成人の三割)。

この概念は、1998年にアメリカで生まれた。主に社会学者・心理学者たちの間で使用された概念だった。日本に紹介したのは、消費生活アドバイザーで環境カウンセラー大和田順子さん。彼女が2002年に日経新聞の記事を書いて広まった。

ロハス商品のジャンルは全部で五つ。
1持続可能な経済(省エネ商品、代替エネルギー)
2健康的なライフスタイル(自然食品・サプリメントなど)
3代替ヘルスケア(自然治療、はりなど)
4自己開発(ヨガ、フィットネス、能力開発など)
5環境を配慮したライフスタイル(環境にやさしい住居など)

ちっ(怒った顔)うーん、どうなんだろ?こうやって並べて見てみると、どれも大事そう。だけど、豊かな一部の層の娯楽ともとれなくもない。自然食品なんてまだまだ高いし、ヨガ・フィットネスに通う時間なんてボクら一般人にはないし、家に贅沢できるほど余裕なんてないし・・・ けど、個人レベルから草の根的に環境問題に取り組む姿勢は素晴らしいと思う。しかも、世界一消費大国(無駄遣い大国?)のアメリカで話題になっているというのは喜ばしい。やみくもにただ物質だけを求めるのではなく、豊かで質の高い物質を求める、これは、量から質へという転回以上のものがある。つかみにくい概念である。

[参考]
LOHAS-WORLD
環境gooのロハスはこちら
ロハスに関する真面目なレポートはこちら
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2005年12月04日

◇多田富雄さんの声◇

「何もかも失った それを突き詰めていくと、何かが見えてくる」

脳梗塞で倒れた免疫学者多田富雄さんの言葉だ。NHKスペシャルで彼は語らぬ声で語った。

「こうなったら、残された時間をどれだけ有効に使うか。…歩き続けます」

多田さんは、孫のさやちゃんを呼びかけるときも、音声機器を通して、孫に語りかける。自分の声で語りかけることができない。

たしかに、彼は脳梗塞によって発話を失った。けれど、彼は、そもそも「語る言語」を持っている。言葉は発せられなくとも、他の人以上に、語ることができる。語る言葉を持っている。

世の中には、「サバルタン」のように、そもそも語る言葉を学習していない人もたくさんいる。だが、彼は語る言葉を持っている。科学者という使命を持っている。語るという使命を自身感じている。彼は、「苦しみの先の向こう」を追う。彼の表情を見ていると、生命の躍動感というか、生きる強い意思を感じる。次の一文は、傾聴に値する。

「昔のことを思ってみると、理想の研究が見えてくる。その理想の研究とは、寛容で豊かな研究と言えると思う。その反対は、ギスギスして貧しい研究です。寛容で豊かと言うと、競争に負けてしまうかもしれない。けれども、一年くらい遅れてもいい。寛容で豊かな研究をしていれば、脈々と主流を作り続けるでしょう。ボクはいつも皆さんのことを見守っています。ボクはしぶとく生きていくつもりです」

◇NHKスペシャル  
壮絶な病との闘いで得た生きる力
「脳梗塞からの“再生”免疫学者多田富雄」
NHKスペシャル◇国際的な免疫学者として広く知られ、エッセーの執筆や能の創作も手掛ける東大名誉教授の多田富雄氏に密着する。71歳の多田氏は4年前に脳梗塞(こうそく)で倒れ、右半身不随になった。介護なしでは日常生活も送れない日々に一時は自殺まで考えた多田氏だが、科学者の目線で病気を見詰め、受け入れた。以来、多田氏は車いすでどこへでも出掛け、エッセーでは福祉の不備を厳しく指摘するなど精力的に活動している。そんな多田氏は、科学者として世界の核問題に危機感を覚え、原爆を題材にした能を創作。がんという新たな困難にも負けず、公演の準備を進める多田氏の半年間を追う。

多田富雄さんのHPはこちら
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2005年11月23日

◇社会福祉援助技術の理論◇

福祉や保育を学んだことのある人なら誰でも、<社会福祉援助技術>という言葉を聞いたことがあるだろう。一般的・広義的には、

1.ケースワーク(個別援助技術)
2.グループワーク(集団援助技術)
3.コミュニティーワーク(地域援助技術)

の三つに区分されている。これはとても有名だし、もっともな話だ。

英語的に、workには、@仕事, 作業, 労働 A事業 B勉強 努力 C職(業), 勤め口 D細工, 製作(品)E(芸術上の)作品, 著作 Fやり方, 腕前 Gしわざ H作用, 効果、といった意味がある。とすると、ケースワークは、社会福祉に関する一つひとつの事例(援助者の具体的な実践)に働きかける効果ある方法(手腕)と言えるだろうし、またその方法(手腕)をシステム化・言語化したものが、社会福祉援助技術の理論ということになるのだろう。

代表的なのが、パールマン氏とバイスティック氏だろう。(というか、現在の日本の社会福祉の学問的先入観としての知識)

パールマン(Perlman, Helen Harris:アメリカ、1905〜)は、ケースワークの構成要素として、Person、Problem、Place、Processという四つの基本的概念を取り上げて、ケースワークの理論化に貢献した。人(クライエント)、その人の問題、問題を解決する場所、そしてその問題解決の過程、これらを明確にすることこそ、「社会福祉援助技術」だ、ということになるのだろう。

アメリカの社会福祉学者バイスティック(biestek,F.P,1921〜)は、『ケースワークの原則−援助関係を形成する技法』という著書の中で、@個別化A意図的な感情表現B統制された情緒的関与C受容D非審判的態度E自己決定F秘密保持を、援助の根本概念とした。これは、ロジャース系の臨床心理の理論を受け入れつつ、批判しつつ、それを乗り越えようとした考え方とされている。

The instrumental values required to manifest these basic values were classified by Biestek (1957) into: individualization, recognition of individual need to express feelings, controlled emotional involvement, acceptance, non-judgmental attitude, client self-determination, and confidentiality (p.17)


参考:Is Social Work a Profession?

どちらも、「目の前にいる問題を抱えた他者に対する社会福祉的な援助(医療的援助ではなく)」の可能性を思索した者と考えていいのだろう。

とすると、パールマンの人、問題、場所、プロセスというのはあまりにも抽象的すぎてよく分からないし、概念として、理論としては非常に曖昧な表現となってしまっていないか? なぜ彼のこの概念を学ばなければならないのか、これを説明した教科書がなさすぎる・・・気がする。

バイスティックの七原則は、いろんな意味で大きな影響を与えた諸概念と考えていいだろう。受容、自己決定、秘密保持などの概念は、現場の中で、決定的な威力を発揮したからだ。自立生活運動の基本理念は「自己決定」、つまりは「自己自身としての自立」だった。パールマンとは違って、医療的援助とは異なるパースペクティブを見出している点では、理論化に成功しているかのように見える。が、医学モデルから心理学モデルに移行しただけとも言えなくない。バイスティックの理論を実践に応用すると、カウンセラーとの違いを明確にすることができない。

ソーシャルワーカーや保育士など社会福祉従事者は、医師でもカウンセラーでもないはずだ。パールマンやバイスティックの理論では、このことをはっきりと明記することができない気がする。医師は「治療」、教師は「授業」、カウンセラーは「相談」、とすると、社会福祉従事者は何が根本概念なのだろう??

【さらに】
社会福祉、障害者福祉と知的障害者の「自己決定」
http://www2.nagano.ac.jp/asahi/jiko.html
バイスティック「ケースワークの原理」

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2005年11月21日

■クオリティーオブライフ■


社会福祉や児童福祉の必殺概念の一つに、『クオリティーオブライフ』というのがある。『生活の質』とも訳されている。物的な豊かさではなく、根本的な豊かさを模索する概念でもある。いったい人生において最も優先されねばならないものは何なのか。社会福祉の主要テーマとなる『生活』の質的な豊かさとはどんなものなのか。

こうした問題を考える上で、次のような英文を見つけた。『根源的な人間の満足』って何だろう??と考えさせられる文章であった。

The Quality of life

 『日本や他の産業諸国の市民たちは、現在、人類史上最高の生活水準の生活を楽しんでいる。彼らは、自動車を運転し、暖房付きの家、さらにはエアコン付きの家に暮らし、激しい肉体労働を避けるために機械を使い、よく食べ、よく飲み、素敵な服を持っている。彼らは、「高い生活水準の暮らしが自動的に満足と幸福をもたらす」とイメージしている第三世界の人々らに羨ましがられている。
こうしたイメージは必ずしも真実ではない。産業化は、さらに、大気・水質汚濁や農地から都市への人口流出といった問題をもたらすのだ。伝統的な家族生活は破壊され、多くの人々が一人で放置される。とりわけ高齢者が放置される。人々は、運動不足によって不健康となり、高血圧症や心臓発作など、いわゆる現代病を蒙っている。
 それゆえ、産業化社会の諸国は、まさに社会発展の尺度となる経済的な生活水準以上のものを必要としているのだ。産業諸国の政府らは、生活全体の質を促進するような政策を立てていかねばならない。しかし、「生活の質」はいったい何を包含しているのか?
 多くの日本人たちは、快適に暮らすのに十分な収入を欲しがっており、自分たちの子どもを教育し、旅行やレクリエーションを楽しんでいる。日本人は、自分たちの老後の経済的保障を欲している。日本人は、家族や社会における調和に価値を置いている。日本人は、健康を楽しもうとしている。
 日本人は、低い失業率と国家的健康管理システムのために、雇用を見つけたり、医療ケアを受けたりすることを心配していない。しかし、アメリカ人は心配しているのだ。アメリカ人は、国家的健康管理システムを持っていないし、失業にも苦しんでいる。
 日本人は大きな家を望んでいるが、アメリカ人は環境破壊を心配している。また、アメリカ人はさらなる法と秩序を望んでいる。つまり、低犯罪率を望んでいる。「民主主義社会の生活は市民たちを満足させる」ことへの寄与はどうなっているのであろうか?
 上述の要因のすべては、産業国の全体的な生活の質に通じている。産業諸国の市民たちは、個人所得の向上を諦めて、こうした要因を減らす問題の解決策を見出そうとしている。それゆえ、時は熟し、より長い期間で見れば、産業化社会は脱産業化社会の時代に入ったのである。したがって、政府は、経済成長に集中する政策を超えて、生活の他の領域を犠牲にして、根源的な人間の満足(basic human satisfaction)へと移行しなければならない。産業国の人々は、これを主張せねばならないのである』

"English and international awareness" W.Lawrence Dutton Akio Shigeno
(『国際意識の英語』、南雲堂、1993)

★根源的な人間の満足、物質的な満足以外にどんな満足があるんだろう?? 友達?愛?友情?希望?ココロ?平和?安全?? 「貧しいけど豊か」という価値観は共有されるのか?? 車の所有を諦めることは可能なのか?? 経済的な発展と折り合いのつくものなのか?? わからないことだらけだ。『クオリティーオブライフ』を考えてしまうと、どうも堂々巡りに陥ってしまう気がする。

★僕的には、やっぱCDも欲しいし、本も欲しい。或る程度の物質的満足は満たしたい。けど、車とかって必要な人だけが必要な時間だけ所有したらいいとは思う。度を越えた飲食も控えればいい。というか、現代人って食べる欲求って減ってきてないか?? 売る方だけが頑張っている気がするが・・・ 

★福祉的にはこういう感じ。「最近の福祉領域においては、種々の疾病・障害を持った人および高齢者への援助目標に、当人の日常生活動作(ADL)の自立度を高めるよりも、本人の自己決定権の履行を支持・支援することによって、主体的あるいは実存的な生活の質を高める方向に動きつつある」、と。←『社会福祉基本用語辞典』 エーリッヒフロムじゃないけど、「have」から「being」へって感じで使われているのかな?? 「〜になる」というより、「あるがまま」というか・・ ふーむ。。。
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2005年11月07日

『知的障害児』との対話

『知的障害児』の子らとかかわること(つまり対話すること)は本当に難しい。(『知的障害児』、とカッコしているのは、「いわゆる」という意味。「障害児」という言葉を使うべきではないという意見が多く、それに配慮して)

『障害』の程度によって人それぞれではあるが、『知的障害児』の子らは、音声で自分の思いや考えを述べることが容易でないため、意思伝達を行うことが難しい。また、彼らとかかわる周囲の人間(支援者など)にとっても、同様で、彼らの意思を音声にて確認することが困難なため、しばしば困惑する場面に遭遇する。つまり、音声による対話(バーバルコミュニケーション)が非常にむずかしい。とりわけ、重い自閉症の子らは、意味のまとまりとしての音声(つまり話し言葉)を発すること自体(そして理解すること自体)が困難なため、かかわり手の方は、彼らの発言を通じて、彼らが何を感じ、考えているのかを理解することができない。

他方、彼らの行動様式(身振り手振り)も、彼らの意思を理解するための手がかりとならない場合がある。例えば、ニコニコ笑いながら相手をつねったりひっかいたりする。また、全く無表情でありつつ自動販売機の前で缶ジュースのボタンをさわっていたりする。こういうとき、日常的理解(常識的理解)だと、「ニコニコしているから嬉しいんだ」とか、「自動販売機の前にいるけど無表情だから、ジュースが欲しいわけではない」と判断してしまうことになりかねない。彼らの身振りや手振りや表情は、われわれの常識的判断では捉えられないほどのものなのだ。このように、彼らの身振り手振り・表情・しぐさなども、必ずしも、彼らとの対話を豊かにするものではない。つまり、こうした身振り手振り・表情・しぐさを手がかりにして理解を行う対話、「ノンバーバルコミュニケーション」も、必ずしも彼らの思惟の理解に貢献するわけではない。

つまり、『知的障害児』の子らと対話をする上では、『音声による言葉』と『身振り手振り・表情・しぐさ』は、全面的に信頼できるものではないし、逆に信頼しすぎて、彼らの理解に失敗することすら起こりうる。このような理解の失敗は、時として、親子関係の悪化や信頼関係への弊害となり得るほどである。では、『音声による言葉』と『身振り手振り・表情・しぐさ』といった所作に依存することなく彼らとかかわる時、われわれは何を手がかりにすればよいのだろうか。

こうした問題を考える上で、マルティン・ブーバーの思索は注目に値する。というのも、彼が対話の構成要件を「音声(Laut)」や「身振り(Gebärde)」に限定していないからである。彼の対話哲学では、対話というものは、音声や身振りなしでも、成立できるのだ。これはどういうことか。彼の考えによれば、対話は、相手から伝達が流れ出てくることであり、それを受け取ることによって成立する。しかも、「秘蹟的(sakramental)」に、「事実的な出来事の中で」成立する、というのだ。

では、ブーバーのいう「対話」を成就させるためにも、いったいどこにその手がかりがあるのか。それは、「音声」だとか、「身振り」だとか、そういう一般的概念の中にあるのではない。表面的で明快な「しるし」の内にあるわけではないのだ。そうではなく、彼らとの対話の手がかりは、その子らとの直接的な向かい合いの中で現事実として生じることの中に、いや、個々、そのつどの彼らの働きかけの中にあるのではないか。ブーバーの思索を学ぶことで、このような観点が生まれてきた。

具体的に述べてみよう。

Dくんは、『自閉症』と診断された子で、意味のまとまりを伴った音声を発することが困難である。もちろん、Dくんの方からこちらに話しかけてくれることはまずない。たとえこちらから話しかけても、積極的に応答してくれることもほとんどない。じっと直立不動し、沈黙しつつ、その場に存在している。表情も限りなく無に近く、こちらからの働きかけに対して、非常に警戒している。彼に手を差し出すと、「びくっ」となって、おそるおそるこちらの方を用心深くちらりと見る。言葉も身振り手振りも、彼とのかかわりにおいては、ほとんど意味を成さない。彼と共通の世界を共に生きることは、極めて困難かのように見えた。

そんなDくんと一緒に過ごしていた或る時、とある場所で、彼は、腕を組んで、片足に重心をかけて立っていた。その姿を見たとき、(言葉にするのは非常に難しいのだが)なんとも言えないチャーミングな姿だったように見えた。あたかも彼が『なかなかきまっているでしょ?!』とでも言っているかのように見えたのだ。そして、その姿を見たとき、なぜだか僕は、「彼のそばで彼と同じ姿勢で立ってみようかな」、という気持ちになってしまった。そこで、僕は、彼の隣りに立ち、彼と同じ姿勢を作った。僕も、彼と同様、腕を組み、片足に重心をかけて立ったのだ。すると、彼は、隣にいるこの奇妙な人物(僕)に気づき、顔をしかめた。そして、腕を組むのをやめて、腕を腰の方にまわしたのだ。僕は、また彼と同じように、自分の腕を自分の腰にやった。彼はまた、この異変に気づき、今度は、右を向いてしまった。また僕も同様に、右を向いた。そうしたら、そのとき、彼は、僕の方は見ずに、どこを見るでもなく、にこりと笑ったのだ。そうして、彼は、また左を向き(つまり元に戻り)、再び腕を組んだ。もちろん僕も腕を組んだ。Dくんはまた再び笑顔を浮かべた。そんなやり取りを10分ぐらい繰り返した。彼は、その後終始笑顔だった。もちろん僕が彼に接近していても、おびえたりしなかった。だが、この模倣が終わると、彼は、再び、めだった表情も見せず、ひっそりと立っていた。

これが、一事例である。

Dくんと僕は、決して会話を交わすこともしていないし、また、僕自身、彼の身振り手振りから彼の心理的状況を探るということもしていない。僕はただ彼の隣りで彼の姿勢と同じ姿勢をとっただけだった(しかも真剣に)。たしかに、これはただの偶然的な出来事に過ぎない。しかし、この一瞬の時間、Dくんは、隣にいる奇妙な動きをする人間(僕)の働きかけに答え、笑っていた。いや、この状況を楽しんでいるように見えた。もちろん、このとき、彼が楽しんでいたのか、彼が隣にいる奇妙な物体とどのようにかかわっていたのか、知る由もない。けれど、僕は、彼と、この奇妙なかかわり合いを通じて、出会えたような気がしたのだ。この瞬間、たしかに、僕は彼の姿勢を「模倣」し、彼は僕の「模倣」に気づき、それに応じて、応答してくれたと説明することができる。だが、僕は、ここで、『「音声」や、「身振り手振り」ではなく、「模倣」を彼らとのかかわりの手がかりにせよ』と主張しているのではない。そうではなく、僕とDくんのこういう些細なやり取りであっても、やはり対話であったのではなかったか。いや、こういうかかわりの中でこそ、僕は彼と対話をすることができたのではなかったか、と問いたいのである。今回はたまたま彼とのかかわり合いの中で、「Dくんのまねをするということ」(僕)、そして「まねされることに応じて笑うこと」(Dくん)が起こった。お互いに対して、相互に働きかけに応じあった。

ブーバーによれば、まさにこうした「相互に向かい合うこと」、「相互に働きかけあうこと」が、対話への契機となるのだ。たしかに、彼と分かり合ったわけでもないし、彼の心を知ったわけでもない。また、彼も僕を知ったわけでもない。お互いの間で、「一致」や「同意」もなかった。けれど、「だから何も起こらなかった」ではなく、やはり、まぎれもなく、「二人の間で何かが起こった」と思うのだ。

所謂、一般的な対話(ディスカッション・コミュニケーション)とは全く違うものではあるが、やはり、D君と僕は、秘蹟的に、具体的な事実の中で、「出会っていた」のではないか。こういう「出会い」があってもいいのではないか。相手に向かい合い、対話するということは、単に技法や理屈の問題ではなく、<目の前にいる相手の働きかけに具体的に答える>ということではないだろうか。そういう「相手」でありたい。
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2005年09月15日

Behindert ist man nicht−behindert wird man


人は障害者に生まれるのではない。人は障害者になるのだ。

⇒直訳(人は障害者という状態で存在しているのではなく、人は障害者という状態になるのだ)

 1994年11月15日、統一ドイツの新憲法、【ドイツ基本法】が制定された。そして、その第三条・第三項には、「何人も、障害を理由として差別されてはならない」、という一文が新たに加えられた。障害者運動の粘り強い闘争の後、ようやくこの条文が基本法に記載されることが決まったのだが、これで、障害を持った人間への差別が自動的に排除されたわけではなかった。
 それとは反対に、前年に行なわれた劣悪な社会福祉事業の切り捨て政策に直面しているのだ。
 とはいえ、この新しい条文は、「45年遅れで障害者運動がようやく出発点に立ったのだ。そしてようやく動きだすことができるのだ」、ということを意味している。こうして、障害者運動には、新しい「切り札」が備え付けられた。また、この切り札によって、運動は、障害者の法的な同等性を完成させることをはじめることを可能にし、そして日常の差別的行為を回避することを可能にした。
 こうした意味で、法学者のテレジア・デゲナーは、かつて、障害者運動を「最も新しい公民権運動」と特徴づけたのだ。

 ドイツ『障害者とドイツ基本法』より引用
ニックネーム kei at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会福祉とボランティア

2005年09月08日

やっぱり女性はオシャレがお好き★

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どんな状況にあれ、何歳になろうと、やっぱり女性はオシャレがお好きのようです★

今日は、施設で日々の生活を送るボクの友人とお買い物

彼女は、洋服指輪アクセサリーを飽きることなくずっと見ていました。女性はすごい。アクセサリーってすごい種類があるんですね。洋服もたくさんあるんですね。どんなときでも、女性はオシャレに気を使うんですねー★ 

「ノーマライゼーション」、「共生」、「自立」、「障害者自立運動」もすばらしいですが、「オシャレになる」のも、とっても大事なことですよね。Tさん、どんどんオシャレしてくださいね。(『オシャレする権利』って出来ないのかなあ・・、ね、小泉さん!郵政民営化、自立支援法とかよりも、『国民をオシャレにします』っていうマニフェストだして下さい!)←結構ホンキ!!
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2005年08月30日

ドイツの精神病者の現状〔翻訳〕


 Wieviel bezahlen sie für ihren Arbeitpratz?
 彼らは自分の職場のためにいくら支払うのだろうか?


 1996年6月以降、O.モニカは、法の規定により、働かせてもらうために、毎月1100マルク支払わなければならない。
 どうしたことか?
 O婦人は、精神病患者である。彼女は、“社会的施設のためのフランクフルト協会”のリハ作業所(リハビリ作業所)で働いている。彼女は、1996年12月に、ヘッセン州立福祉連盟の人間による、つまり国の費用担当者(kostenträger)による費用通知を受けた。その通知は、「O婦人は、彼女の収入に応じて、月々1100マルクを、彼女の作業所のための費用として負担しなければならない」というものであった。だが、O婦人は決して裕福ではない。彼女は、結婚しており、夫と合わせて手取り計4100マルクの月収を得ている。この費用通知は、ヘッセンの障害者用作業所に通う多くの作業者に届いたものだった。それどころか、いわゆる就業能力のない(労働不可能な)「年金生活者Rentner」、つまり、生計生活のあいだに恒常的な病にかかってしまった人間にも届いたのだった。
 このことが致命的な結果をもたらす。

 F.マンフレッドという従業員は、この支払い請求の後に、再度、重病となった。その結果、彼は、10年以上に渡る作業所での労働の後、1997年2月に、フランクフルト大学病院の精神科に入院させられねばならなくなってしまった。大学病院の一日(の費用)は、およそ600マルクである。今日までに、病院会計で発生する費用は、マンフレッドが当時、治療費として、LWV(州立福祉連盟Landeswohlfahrtsverband)に支払わねばならなかった費用よりも、何倍も高くなっている。

 これらは、われわれがこれまでに知っているおよそ30の事例のうちの単に2つの事例(モニカとマンフレッドの二例)にすぎない。現在、不安と動揺はさらに拡大している。何人かの人々は、自分の作業場を解約してしまっている。これでは、彼らが再び孤立してしまうことになってしまう。というのも、リハ作業所での仲間(との交際)は、しばしば彼らが持つ数少ない社会的な接触だからだ。こうしたことや、明けても暮れても仕事のないまま生きるというイメージ(観念)は、すぐに再び発病を促し、たびたびクリニックで終結する。

実際のところ、国は、病者の費用という点で、国の予算を建て直そうとしているのだろうか? この20年の福祉政策(社会政策)の成果は、この措置を通じて、再び台無しにさせられてしまうのだろうか?
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2005年08月22日

「介護力(Pflegekraft)」−ドイツの介護−

 ドイツの介護入門書の翻訳

soonsoonsoon

 自宅で介護される人はますます増えています。病院は以前よりも早く患者を退院させてくれますし、私たちの平均寿命も延びているからです。ドイツでは、およそ90万人の患者、障害者、老齢者たちが自宅で介護を受けています。この写真入の〔介護〕実践の入門書は、こうした〔在宅〕介護者のニーズに合わせたものです。

 介護力としての貴方(Sie als Pflegekraft)

 様々な理由で、人は介護力になっています。貴方は、介護をする相手の方が貴方に依存し、その方が老人ホームや介護施設で生活したくないから、自宅で介護をしているのでしょうか。それとも、名誉ある介護力として、公益にかなうよう、貴方の時間の一部を投入しているのでしょうか。貴方の状況がどうなっているのかということと同様に、貴方は、この本を通じて、貴方が介護をできるだけ良く満足して行うための情報を得るでしょう。
 その以外にも、この本には、介護保険、公的福祉施設、福祉連盟などの成果についての情報もありますし、補足的な助言も添えられています。是非、すべての情報源を汲み取っていただきたいと思います。あらゆる種の支援提供に関する知識は、貴方自身の生活の質(Lebensqualität)や介護が必要な人の生活の質をより良いものにしてくれるでしょう。

 貴方が介護する人(Der Mensch, den Sie pflegen)

 多くの人は、病気や手術の後、回復するまでの数週間のみの援助を必要としています。それに対して、高齢者や障害者や重病患者の場合、数ヶ月、数年にわたって、集中的に介護をしなければなりません。いずれの場合であっても、貴方の目標は、介護を必要とする者の自立性と尊厳を守ることでなければなりません。

〔介護力〕
 介護専門力は、通常、看病、幼児の病気のケア、老人介護における教育を受けた人間をいう。または、必要な職業経験を持っている人間、ないしは、介護施設において介護に関わる全責任を絶対的に負う人間のことをいう。ただし、職業専門教育に要請されるのは、介護領域の責任を負っている主要な介護力だけに限られている。出典


〔参考〕
スイスの老人ホーム 金の子ども
スイスの老人ホーム ヴァッテンヴィル
ドイツ・ミュンヘンの老人ホーム(映像付き!) 高齢者住居パークVaterstetten
ドイツ・フューリンスドルフの老人ホーム シェーンタール
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2005年06月26日

ギリシャ時代の児童福祉?!プラトンの場合♪


 プラトン『メネクセノス』の中に、次のような文章がある。社会福祉、児童福祉の歴史を考える上で、なかなか興味深い箇所だ。

 プラトンは、この書の中で、ミトレス人のアスパシアという女性の演説を紹介している。それがこの一説だ。アスパシアとプラトンは友人関係にあるようだ。

本本本本

 ・・・国家は戦死者の子供と両親に関する法律を制定して、面倒をみておりますし、そのうえ、最高の官庁に指令して、戦死者の父や母が不当な扱いを受けないように、他の市民たちよりもとくに保護させているのです。

 他方、子供たちに対しては、孤児であることを彼らにできるだけわからせないようにつとめながら、国家みずからが彼らの養育に手を貸しているのです。すなわち、彼らがまだ子供であるときには、国家みずからが彼らのために親代りとなりますし、一人前の男子に成長したなら、彼らに完全な武装をほどこしてやって、それぞれ自分たちの家へ送り返してやるのです。・・・・

 ・・・このようにして国家は、文字どおりに、戦死者たちに対してはその相続人、つまり子供の立場に立ち、子供たちに対しては父親の立場に立ち、戦死者の親たちに対しては保護者の立場に立ちながら、すべての人のために、いつも、ありとあらゆる面倒をみているのです。

ハートスペードダイヤクラブ

加来彰俊訳 中央公論社『世界の名著−プラトンT−』p.218

*このアスパシアという女性、、いったい何者なんだ?!
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2005年05月16日

「みんなで学会をしよう−part2」、無事終了!


Jouir Clubの5月恒例イベント?!、みんなで学会をしようが昨日行われた。

参加者数は13名だった。いつもより少なかったが、イベントの性質上、ベストな人数でもあった。なにせ「学会」だ。難しい問題やややこしいテーマ、さらには科学・哲学的な話題をめぐって、えんえんと話し合うのだから・・・

今回の学会は、ホントにすごかった。だって、6時間があっという間に過ぎちゃったのだから。一人ひとり、抱えている問題意識が違うため、議題はあっちこっちへと飛ぶ。福祉問題、制度問題、男性性女性性の問題、海賊団の話、音楽談話、ゲーム理論(?!)、ギリシャ思想などなど、話題は異常なほどに広がっていた。

発表者の発表時間は10分。その後10分〜15分の質疑応答。
原稿は、あらかじめ書いてきてもらっていて、当日「会報」として配布した。

だから、会報誌出版記念発表会的なノリなのだ。

ただ書かれた文章を読むだけじゃ分からないところがある。また伝わらない部分がある。今回の学会は、こうした部分をじかに聞き取ることができた。「ただ読んだだけじゃわからなかったけど、発表を聞いてはっきりと分かった」という感想もあった。

障害者・健常者、大人・子どもというような分け隔てなく、同じテーマについて、みんなで議論をする。そういう会になったのでは、と思う。

「議論ができる」というのは、大人になった証拠なのかもしれない。或る学生が言っていた。
「大学の講義やゼミだとみんなあんまり発言しないし、盛り上がらないけれど、ジュイールだと、みんな発言するし、議論が面白い」
ジュイールの連中は議論が好きだ。語ることが好きだ。もちろん話が苦手な人もいる。だけれど、話を聴くのが好きだ。

「みんなで遊ぶこと」、「みんなで語ること」、「みんなで書くこと」、こうした技芸は、人間にしかできないことなのかもしれない。それは障害の有無に関わらず・・・
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2005年05月12日

ボランティアとマンパワー

いつから「ボランティア」という言葉が日本で使われるようになったのだろう。語源をさかのぼれば、古代のvolo(will)という語にたどりつくが、あまり役に立ちそうにない。また、「志願兵」という解釈があるが、今日の使用法とは違いすぎる。また、「奉仕者」という翻訳も可能だが、ボクらが用いているニュアンスと若干違っている。じゃあ、ボクらはどのようなニュアンスをもってこの語を使用しているんだろう。

ボクは「ボランティア」という言葉をあまり深く考えないで使っている。だが、例えば「2ちゃんねる」のボランティア板を読むと、かなり否定的に捉えている人が多い。「偽善者」、「左翼」、「コミュニスト」、「自己欺瞞」、「自己満足」などなど。でも、11年ボランティアの世界を見てきて実感するのは、ボランティアは素朴な人が多いということ。素直でおとなしい人が多いということ。偽善というよりはむしろ「本当に素朴な善人」が多いということだ。もちろん中には、抽象めいた綺麗事を旺盛に語り、自己満足に酔っているだけのボランティアもいる。口だけ出して手を出さない人もいる。また、誰かに愛されたいがためにボランティアの世界にやってくる者も少なくない。けれど、そういう人は少数であって、多くのボランティアは、素朴で純情で愛らしい人間が多いのだ。

また、ボランティアをすることによって、逆にこちらが救われることも多い。「ケアしているはずなのに、逆にケアされていることに気づく」というようなことを鷲田清一も言っている。そういう感覚を持っているボランティアは、ボランティアを通して、どんどん成長していく。短期間で、みごとに立派になっていく。逆に、「ケアしてあげなきゃ」と思い込んでいるボランティアは、あまり歓迎されない。「弱者のために手を貸してあげたい」などと本気で思っているのならば、その人はボランティアをする必要はないだろう。

質の高いボランティアは、素朴で、静かで、ひそやかに存在する。自分から積極的に他者に働きかけたりしない。だけど、<相手の働きかけ>にはきちんと誠実に答える。じっくり考える。そして、相手に届く言葉で真摯に応じる。こういうボランティアは、まさに「マンパワー」なのだ。マンパワーは、ここでは、「人材力」というか、ボランティアとしての資質を備えた人間の力、を意味している。

ボクは、そういうボランティアともっともっと出会いたい。

ドコモ提供ドコモ提供ドコモ提供ドコモ提供ドコモ提供

ボランティアサークルや福祉事業団体には、他の分野と同様、優れた人材、人徳を備えた人々が必要である。単に「有志」や「使命感」だけでは、持続できないし、より善い団体にすることもできない。また、リーダー一人が優れていてもダメで、運営に携わるスタッフがマンパワーでなければならない。そう思う。

こういうわけで、ボランティアは、単に@自主性A連帯性B無償性といった三原則によってのみ成り立っているわけではなく、素朴な資質というか、天性のメンタリティーというか、より人間らしい心の厚みというか、そういうものによって成り立っているものなのだろう。

まずもって、ボランティアは、ボランティアの支援を受ける者にとって安心できる人でなければダメなのだ。やはり、心も体も平穏な人がいいのである。もし自分が人の手を借りなければならないとしたら、どんな人の手を借りたいだろうか。よく考えてみたい問題である。
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