<すでに古代ギリシャ時代に、社会福祉の根本思想があった>これがボクの一貫した仮説である

もちろん、その思想は現代においては隠蔽されていることなのだが、この思想を現代の福祉思想に適用させること(
アプリケーションすること)で、福祉の根本問題を示すことができるかもしれない。われわれは、古代思想を学ぶ事で、現代の社会福祉の問題を開示することができるのだろうか。まさに解釈学である。
そこで、光を当てたいのがエピクロスだ。彼は、エピキュリアンという言葉からも伺えるように、快楽主義者と呼ばれている。彼にとって、幸せとは欲望の充足であり、とりわけ衣食住の充足こそが最も重要なのであった。人は、彼や彼の弟子(エピクロス学派)を「堕落した快楽主義者」とレッテルを貼り、揶揄した。だが、彼らは決して満ち足りた贅沢な衣食住を想定しているわけではなかった。
彼は、「
Lathe biosas」(隠れて生きよ:Lebe verborgen)をスローガンにした。つまり、公共的な生活(政治的生活)を離れ、煩わしい人間関係を離れ、奢侈(度を越えたぜいたく)を捨て去り、パンと水のみで生きよ、と解いたのだった。彼は、一方で欲望の充足をうったえつつも、他方で質素な生活を要求していた。つまり、最低限度の必要物資で満足して、余計な欲望を排除し、人里離れたところで、のんびり生きることを訴えたのである。この考え方は、一見すると、ノーマライゼーションとは逆行しているように見えるのだが、実は理にかなっているのである。
情報に振りまわされて、人間不信(他者への不信感)に陥るのは、商業化された現代社会にどっぷり浸かっているからだ。くだらない噂話や、われわれの購買意識を引き起こすCMの嵐。資本主義に洗脳された
テレビ番組。そうしたわずらわしい喧騒から離れ、何もないところで生きるということは、無意味なことだろうか。きっと、この考え方は、地域福祉主義者たちからすれば、「隔離だ。施設主義だ」と揶揄することだろう。だが、エピクロスは、この「隠れて生きよ」を訴え続けた。彼は、快楽主義を訴えつつ、かなり禁欲的な生き方を要求した。
しかも、彼は、主に売春婦や浮浪児を集めて、山中にコミューン(共同体)を作ったと言われている。そこで、彼らを真摯に教育していたという。貧しい者や娼婦の救済を施し、さらに教育活動をしていった。まさに、ソーシャルワークそのものではないか。
もちろん、山中に篭ること自体は、現代社会に馴染まない考え方かもしれない。しかし、ボクらだって、時折、現実から離れ、静かに生きたいと願う。わずらわしい現実を離れ、友や
恋人と語り合ったり、真剣に何かについて議論したがっている。一人で部屋の中でじっくり本を読んでいたいと思ったりもする。人里離れた田舎に旅するのも、日々の喧騒から離れて、じっくり自分を見つめなおしたいからだ。人間社会から隔離されることは決して「悪」ではない。
<ノーマライゼーションが福祉のすべてではない>
ノーマライゼーションとは逆の福祉もありうるのだ。他人が当たり前にできることをすることを目指すのではなく、他人が当たり前にしていることから離れて、じっと静かに目を見開いて生きることを目指すこともできるのである。コンテンプラチオ(テオーリア)は、曇りない眼で、じっと観ることを意味している。「ありのままを観る」ということだ。スコラ(
スクールの語源)も「閑暇」であり、やはり日常生活から離れることを意味していた。
エピクロスという人間のことは、まだよく分からない。今後、彼を通じて、現代社会福祉の常識を疑い、オルタナティブを見出していけるに違いない、と考えるkeiでありました!!!
(今日はかなりウンチクでありました〜〜




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