ひらめき生涯一教師、生涯一研究者で頑張りますパンチ


2006年04月13日

ボクの心の師匠、エピクロス

その昔、エピクロスという哲学者がいた。彼は紀元前341年、エーゲ海に浮かぶ小さな小島、サモス島で生まれ、紀元前271年に他界した人だ。

彼は、もともと貧しい家庭の子であって、哲学者になるまでに、相当の苦労を重ねてきた。彼の父は、子どもたちの世話をするパイダゴーゴス(教師)で、身分は低かった。母のカイラストラテは、祈祷師で、皆に怪しがられた(当時の教師や祈祷師の地位は低いらしい)。そんなエピクロスは、他の哲学者と違って、非常に<貧乏>だった。これが原因とは言わないが、彼は、他の哲学者や政治家たちから徹底的に嫌われた。俗っぽく言えば、彼は貧乏人で、金持ちの哲学者たちにうざがられた、ということだ。とりわけ、人間の快楽を重視した彼は、禁欲主義の立場を取るストア派の連中から徹底的に嫌われた。

だが、「徹底的に嫌われた」ということは、逆に言えば、かなり注目されていたということだし、皆が彼の文章を読み、彼の講演を聴いた、ということになる。

そんな彼の言葉を探ってみた次項有続きを読む
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2005年05月10日

エピクロスについて−2−(翻訳)

 しかし、エピクロスは決してあくなき感覚欲求の追及を教えてはいない。むろん彼は、幸福を人間に固有な目的としているし、その幸福を非常に簡素に、快の獲得と不快の回避と定義している。だが、エピクロスは、「あらゆる種の度を越えたぜいたくは、なおさらより痛みを伴う悪化だけを招くだけであろう」ということを知っていた。ゆえに、理性が、幸せへの労力を導き、自制しなければならないのである。けれども、この理性は、「本来的な幸せは、むしろ朗らかな平穏のうちに、つまり、精神(魂)の安定した安らぎ(アタラクシア)のうちに見出される」ということを教えてくれる。ゆえに、エピクロスは、彼としばしば対比させられる禁欲主義者たち(ストア派)の生活直観と全く近い立場にいるのである。事実、彼自身の生活態度は、手本となるような節度に満ちた生活態度であった。彼は、真なる≫禁欲的な≪平静や自己支配でもって、彼の晩年の長い闘病(生活)に耐えたのである。

 エピクロスは、知識よりも、実践的な生活の知恵をより高次のものとしていた。彼は、身体の喜び−またその苦しみ−と魂の喜び−またその苦しみ−を区別している。肉体のもろもろの喜びは、<瞬間>に結び付けられている。魂は、過去の事柄のうちへと立ち戻って眺め、未来の事柄へ向かって先だって眺めることができる。つまり、魂は、目下の痛みに直面しても、過去の喜びを思い出し、未来の喜びをこちらへ引き寄せることができるのである。経験可能なものの彼方にあるがゆえに人生にとって重要ではない死に対する不安を払拭した者と同じように、神々に対する恐怖を払拭した者も、その平穏(安らぎ)を見出す。
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2005年05月02日

エピクロスについて−T−(翻訳)

エピクロスは、高校の倫理にも登場する哲学者。通常「快楽主義者」と言われているが、実際はそうではなかったexclamation×2exclamation×2exclamation×2

[用語]
Epikur エピクロス(プラトンの死後6年目、341年に生まれ、271年死)
Epikureer(エピクロス学派・享楽主義者・道楽者)
Epikuros・Epikurus(ギリシャ語)

[翻訳]
 今日と同様、古代においても、「エピクロス学派」という語を聞くと、人は、快適で楽しい生活を目指す人間たち、と理解するのが常であった。エピクロスの哲学は、事実、−ゆえに、完全に配慮にかけた感覚的享楽に没頭する生活態度を正当化する哲学として−こうした解釈や評定が可能なのである。例えば、エピクロスは、彼自身の「隠れて生きよ」という標語でもって、明確に、「彼は国家と政治を軽視し、私的領域における生活を優先させた」ということを言葉で表現したとも言える。また、彼がアテナイで暮らし、教えていた時、「エピクロスの園」で営まれていた<朗らかで社交的な生活>は、彼の時代(彼は341年から270年まで生きた。サモス出身)には、とりわけエピクロスの反対勢力の下では、「エピクロスがあくなき感覚欲求の追求を教授した」という見解を裏付けていた。

 われわれは、こうした解釈がエピクロス的な倫理学を全く正当に評価していないということに気付くだろう。その前に、われわれは、さらに、エピクロスがストア派(禁欲主義者)と同様、倫理学の前段階として先行させた論理学と物理学に眼差しを向けてみよう。論理学がもろもろの誤謬(誤り)回避の仕方を教える限りにおいて、論理学は前段階である。物理学もまた、正しい行為に対する前段階に過ぎない。物理学は、「世界は完全に諸事物の自然な連関から、説明されねばならない」ということ、そして、「神々が世界を創造したのでもなければ、世界の流れ(経過)に介入することもない」ということを示し、人間を恐怖から解放する、という課題を持っている。エピクロスは、神々をただちに否定するのではない。そうではなく、彼によれば、神々は、「もろもろの世界の狭間」に生きている。神々は人間的な活動に関与しない。そして、それと同様、人間も神やデーモンに関与してはならないというのである。物理学的な世界認識の課題−ここにおいてエピクロスはデモクリトスの原子論(Atomlehre)と密接に結びつく−は、常に人間の精神を陰鬱にしてしまう超自然的な諸力に対する恐怖を人間から取り去ること、そして、この除去によって、人間に、エピクロスが事実提唱していた<地上の生活の完全な享受>に向かう能力や自由を与えることなのである。

(ドイツの『哲学の歴史』という本からの抜粋!)
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2005年04月21日

エピクロスと福祉−福祉思想の解釈学?!

<すでに古代ギリシャ時代に、社会福祉の根本思想があった>

これがボクの一貫した仮説であるexclamation×2 もちろん、その思想は現代においては隠蔽されていることなのだが、この思想を現代の福祉思想に適用させること(アプリケーションすること)で、福祉の根本問題を示すことができるかもしれない。われわれは、古代思想を学ぶ事で、現代の社会福祉の問題を開示することができるのだろうか。まさに解釈学である。

そこで、光を当てたいのがエピクロスだ。彼は、エピキュリアンという言葉からも伺えるように、快楽主義者と呼ばれている。彼にとって、幸せとは欲望の充足であり、とりわけ衣食住の充足こそが最も重要なのであった。人は、彼や彼の弟子(エピクロス学派)を「堕落した快楽主義者」とレッテルを貼り、揶揄した。だが、彼らは決して満ち足りた贅沢な衣食住を想定しているわけではなかった。

彼は、「Lathe biosas」(隠れて生きよ:Lebe verborgen)をスローガンにした。つまり、公共的な生活(政治的生活)を離れ、煩わしい人間関係を離れ、奢侈(度を越えたぜいたく)を捨て去り、パンと水のみで生きよ、と解いたのだった。彼は、一方で欲望の充足をうったえつつも、他方で質素な生活を要求していた。つまり、最低限度の必要物資で満足して、余計な欲望を排除し、人里離れたところで、のんびり生きることを訴えたのである。この考え方は、一見すると、ノーマライゼーションとは逆行しているように見えるのだが、実は理にかなっているのである。

情報に振りまわされて、人間不信(他者への不信感)に陥るのは、商業化された現代社会にどっぷり浸かっているからだ。くだらない噂話や、われわれの購買意識を引き起こすCMの嵐。資本主義に洗脳されたテレビ番組。そうしたわずらわしい喧騒から離れ、何もないところで生きるということは、無意味なことだろうか。きっと、この考え方は、地域福祉主義者たちからすれば、「隔離だ。施設主義だ」と揶揄することだろう。だが、エピクロスは、この「隠れて生きよ」を訴え続けた。彼は、快楽主義を訴えつつ、かなり禁欲的な生き方を要求した。

しかも、彼は、主に売春婦や浮浪児を集めて、山中にコミューン(共同体)を作ったと言われている。そこで、彼らを真摯に教育していたという。貧しい者や娼婦の救済を施し、さらに教育活動をしていった。まさに、ソーシャルワークそのものではないか。

もちろん、山中に篭ること自体は、現代社会に馴染まない考え方かもしれない。しかし、ボクらだって、時折、現実から離れ、静かに生きたいと願う。わずらわしい現実を離れ、友や恋人と語り合ったり、真剣に何かについて議論したがっている。一人で部屋の中でじっくり本を読んでいたいと思ったりもする。人里離れた田舎に旅するのも、日々の喧騒から離れて、じっくり自分を見つめなおしたいからだ。人間社会から隔離されることは決して「悪」ではない。

<ノーマライゼーションが福祉のすべてではない>

ノーマライゼーションとは逆の福祉もありうるのだ。他人が当たり前にできることをすることを目指すのではなく、他人が当たり前にしていることから離れて、じっと静かに目を見開いて生きることを目指すこともできるのである。コンテンプラチオ(テオーリア)は、曇りない眼で、じっと観ることを意味している。「ありのままを観る」ということだ。スコラ(スクールの語源)も「閑暇」であり、やはり日常生活から離れることを意味していた。

エピクロスという人間のことは、まだよく分からない。今後、彼を通じて、現代社会福祉の常識を疑い、オルタナティブを見出していけるに違いない、と考えるkeiでありました!!!

(今日はかなりウンチクでありました〜〜たらーっ(汗)たらーっ(汗)たらーっ(汗)たらーっ(汗)
ニックネーム kei at 01:57| Comment(0) | TrackBack(0) | エピクロスについて

Auf Wiedersehen!!

DEAR NEXT!!