ひらめき生涯一教師、生涯一研究者で頑張りますパンチ


2006年08月24日

H.G.ガダマー◆『書くことと語ること』


H.G.ガダマーの未邦訳の小論文『書くことと語ること』を全訳した。この論文は、1983年に発表されたもので、まだ日本では翻訳されていない。けれど、非常に興味深い論文なのだ。

『書くこと』は、非常に解釈学的である。つまり、循環構造を持っている。書くということには、明晰且つ判明な方法がない。答えがないのだ。けれど、書くプロというのもいる。作家や詩人だ。彼らは、「書くこと」を生業としている。

この『書く』という行為について、ガダマーは非常に興味深い視点を与えてくれている。僕ら世代は、とても厳しい時代を生きた世代だけれど、IT革命の申し子であり、『書く』という行為に最も慣れ親しんだ世代だと思う。

団塊世代や新人類世代は『行為する世代』だったと思う。つまり、『活動』という行為にもっとも長けていた。他方、僕ら世代は、『書く』という行為に長けているのではないか。他のどの世代よりも、たくさん『書いてきた』のではないか−メールを含む。

ガダマーは、『書く』という行為の神秘に迫ろうとしていた。いったい『書く』ということは、いったいどういうことなのか。文字を書くことにはいったいどのような意味があるのか。ガダマーは一つの手がかりを与えてくれているように思える。

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2005年11月19日

「解釈学と精神医学」(H.G.Gadamer)

 かつてから、精神医学(Psychiatrie)は、‐医学が他の諸学問全体の中で特殊な地位を占めているように‐医学と医者の治療技術全体の中で、或る特殊な地位を占めている。精神医学は、医者の技術(Kunst)という点では、常に学問の境界に立ち、「実践」との解き難いつながりの中にある。しかし、ここでいう「実践」とは、単に学問の応用ではない。むしろ、〔精神医学では〕常に、実践から、何か(etwas)が、研究へと跳ね返ってくる。精神医学の成果は、絶えず、実践の中で実証され、試験されねばならない。ゆえに、「精神科の医師は、自分の職業を、単なる研究者とか、単なる学者というふうに理解していないし、また、『健康にすること』のために学問やその知識を適用させるだけの単なる技術者というふうにも理解していない」ということには深い理由があるのだ。精神医学において、技術へと接近する契機(Moment)は、「理論的な教訓によって人が伝達できるもの」に属しないものの、「治療技術の名にふさわしいもの」なのである。

 この精神科医の実践は、単なる知識の応用以上のものである。彼らの実践は、医者という職業の完全な生活領域を意味しており、職業世界全体における単なる職場(Arbeitsplatz)を意味してはいない。彼らの実践には、彼らの実践に固有な世界があるのである。法学(Jurisprudenz)も、また似たようなものである。法学もまた常に、特有の地位をキープし続けてきた。科学の時代においてでさえ、法学は、長い間、正しい学問(法の学=Rechtswiisenschaft)の称号を受け取ることや、「Prudentia(=klugheit;賢明・思慮)」、「正しい思慮」、「正しい技術」である、という法学の根源的な栄誉を受けることに躊躇してきた。法学においてもまた、実践と学問は切り離すことができないのだ。法学であっても、訴訟依頼人の促進(Aufbau einer Klientel)があるし、それに加え、昔から治療技術に弁明(書)が必需であったように、なおも、「弁護士(法律家)」に対する「国民」の抵抗があるのだ。

 とはいえ、医者と患者の関係も、〔日常生活とは〕別の種の生活関係(Lebensverhältnis)である。まさにわれわれが我が物にしている科学の時代において、こうした医学的職業の別の一面こそ、さらなる新たな分別(意識)に向かわすきっかけを与えてくれる。現代医学の驚くべき技術手段は、とりわけ患者を決まって次の方向へと誘い込む。すなわち、助けを求められる医師の治療行為の一面だけを見て、自らの学問的専門知識(Kompetenz)に基づく自分(医師)に感銘するよう、患者を誘い込むのである。患者の苦境は、患者自身を、次の方向へと向かわせる。すなわち、すべてのために近代的医療技術の魔術的手段を手にする方向へと、そして、「医療手段の適用が、人間的・社会的次元を併せ持つ非常に高度で責任ある行為である」ということを忘れる方向へと向かわせるのである。

(1993)
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2005年08月12日

H.G.Gadamer『哲学と実践医療』目録

訳し始めておよそ半年。仕事の合間に地道に訳し続けて、ようやく完成したのがこの訳文! かなりお気に入りの論文です。

哲学と医学の問題、健康と病の哲学的反省、ギリシャ思想と現代の医療、臨床の知、理論と実践、そういう問題群に関心のある人にはうってつけの論文だと確信していますドコモポイント(いずれどこかに出したい論文です・・ちっ(怒った顔)

で、読み方としては、まず第0回からお読みください。

以下で、回毎にリンクしておきます。いわば「目録」です。これだけでも随分読みやすくなるのでは、と思いまして・・(ふらふら

第0回 
第一回
第二回
第三回
第四回
第五回
第六回
最終回^

あと、哲学と病というなら、『病いの意味』がおススメです。詳細
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2005年08月12日

ガダマー『哲学と医療実践』0−プロローグ−

 ガダマーの1990年の講演論文の第0回(プロローグ)をお届けしたい。これが第一話。で、1回から6回と続き、最終回となる。これは、哲学、医学健康、病気についての骨太な論文だ。まだ試訳の段階なので、まだまだ不十分です。もし意味不明な点等ありましたら、是非コメントにてお教えくださいませ。(いや〜〜、それにしても、論文一本全部訳し終わった〜〜 keiがんばった!〜〜わーい(嬉しい顔)しあわせ

病院病院病院病院

 私は、門外漢として、私が長い間よく関わってきた領域のこの〔医療という〕場にやってきた。私は、三十年もの間、ヴィクトール・フォン・ヴァイツゼッカー氏と親しくさせてもらっており、ハイデルベルクで、彼の同僚や彼の学生たちの多くの人たちと親しい人間関係を育んできた。しかし、残念ながら、常に、人は互いにこうした隣人関係を望もうとしているわけではない。ここで、アガトン(Agathon)という偉大な悲劇詩人の栄光を讃える祝典に招待されたソクラテスのことを思い出そう(*)。ソクラテスは、この饗宴の席で、アガトンと、かの有名な喜劇詩人のアリストパネス(Aristophanes)との間に腰を下して、こう言ったのだ。「知恵がそういう性質のものなら、けっこうなことだろうよ。ちょうど、あの、いっぱいになっている盃から毛糸を伝って空のほうに流れる水のように、ぼくらがたがいに触れあえば、二人のうちいっぱいになっている者のほうから、空のほうに流れる、といったものならばね。ほんとに、知恵もそんな具合のものだったら、君の隣りに横になれば、君から立派な知恵をたくさんもらって、僕の頭はいっぱいになるだろう」、と(cf.『饗宴』p.105)。しかし、残念ながら、ソクラテスがかつて確信したようなものではなく、私は、私の〔ヴァイツゼッカー氏らとの親しい〕隣人関係にもかかわらず、この場で困惑している。私は、すでに先立って依頼された題目に仰天した。「哲学なるもの」、これは一体何なのだろうか。私は、それに対する納得のいく答えを見出すために、何度も繰り返しこの問いについて熟考してきた。だが、この私のミッションをどのように理解すべきだったのだろうか。たとえ人がその問いにそのつどどのように答えることができるのかを知らなかったとしても、明らかに、――諸科学と比較して――哲学の本質は、その人を包み込んで放さない問いを立てることの内にある。この意味で、哲学なるものとは何なのか、という問いは、それ自体、答えのない哲学的な問いなのである。とどのつまり、哲学というものは、人間の天然的な素質であって、職能的な能力ではない。それゆえ、この場で私を問いに対する答えを持つ専門家として理解しないで頂きたいのである。そうではなく、他者と共に考え合う者として理解して頂きたいのである。

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2005年07月22日

ガダマー『哲学と実践的医療』ラスト!

ひらめきいよいよラスト!!バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)

 学問とその技術的応用は、大きな基準となる支配知(Herrschaftswissen)に向かい、最終的には自然に抵抗し浸犯するような限界状況に近づくのである。支配される対象、抵抗領域としての世界――対象とは、われわれが破壊したり制圧したりしなければならないような抵抗物なのである――をわれわれに出会わせるような知識や能力と並んで、世界は、われわれにまたさらに別の局面を与えてくれる。今世紀の哲学において、われわれは、その別の局面を、フッサールによって導かれた>生活世界<という表現で言い当てている。私の青年時代、私が哲学の道に進んだ頃、「学問の事実(Faktum)」は最高の言葉であったし、この「学問の事実」がいわゆる認識論の基礎を形成していた。〔しかし〕事態は一変し、われわれは、さらなる意識で、「方法的な学問は、自身の能力によって自らおのれの限界に立たされる」、と考えるようになった。たしかに、この方法的な学問は、何度もこうした限界を克服しようと試みている。そこでは、あいまいに限界を引くことはないだろう。だが、注意しなければならない別の限界もあるように思われる。はっきりと言えることは、「人は、ただ>症例<とみなさせるだけの人間を実際に手当てすることはできない」、ということであり、また「もし自分の専門の老熟した能力のみを行使するならば、医師は、耐え忍ばなければならないような重度ないしは軽度の障害を人々が乗り越えていけるよう、手助けを行うこともできない」ということである。この両者のパースペクティブの内において、われわれは、われわれすべてを支えてくれている生活世界のパートナーとなるのである。それだからこそ、こうした生活世界の内でわれわれの道を見出すということと、実際にわれわれが制限づけられているということ(Bedingtheit)を受け入れることが、人間としてわれわれすべてに与えられている課題なのである。こうした道程には、医師にとって二重の義務が含まれている。その義務とは、高度に専門化された医師の技能を、生活世界におけるパートナーシップ(共同、協力:Partnerschaft)に統合するということである。endendend


次回から、ガダマー『健康の隠蔽性について』をお届けしたいっす!
soonsoonsoon

ガダマーについてもっと知りたい時・・
哲学クロニカル
こちら
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2005年07月15日

ガダマー『哲学と実践的医療』6


【いよいよクライマックス!】

 さて、われわれすべての人にとっての一つの帰結を導こう。私の目に留まるのは、慢性的な健康(chronische Gesundheit)である。これは、われわれすべてが人間として直面している特殊なケースである。“学問的力能や技術的力能の発展・専門化が自己治療(手当て)の力を奪い去った”というのは、われわれの近代文明の悲劇的な宿命なのだと思う。われわれは、完全に変化させられた今日の世界におけるこうしたことを認めなければならない。近代医学がいかなる役割を担わなければならないのか、ということについて、私は十分なほどに心得ている。〔だが〕近代医学においては、常にただ治療が行われるだけではない。むしろ、場合によっては、労働能力を得ることの方が重要となる。これは、われわれ産業社会を生きる現存在には不可避的なものである。われわれは、この不可避的な労働能力を受け入れなければならない。しかしながら、こうしたものを飛び越えているものこそ、われわれ自身注意を向けている手当て(Behandlung)であり、手当てとなる聴診や、傾聴や、妨害されず苦しみのない瞬間における世界の豊かさ全体による自己充足(Sich-Erfüllen)なのである。もろもろの瞬間が現にある。まずもって、すべての人は、その瞬間の内で、自ら存在しているのである。また、手当ての形式とはこういうものなのである。そして、私が何度となく確信するのは、「われわれの産業社会の中で、治療の意義に直面して、こうした予防の言葉を取り上げるために、人はあらゆることをしなければならない」ということである。長い目で見れば〔持続的にみれば〕、われわれがこの変化させられた生活諸条件の下で技術化された世界とうまくやっていかねばならない時、また釣り合い(バランス)、相応のもの、私にとってふさわしいもの、すべての人に固有の相応のものを保持し、再発見するための「力」を蘇らせることを学ぶ時、以上述べたことが非常に重要なのである。

【次回で最終回!】
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2005年07月15日

ガダマー『哲学と実践的医療』5


1−4の続き!

 ここでわたしが述べているのは、隔離され、幸福に恵まれず、つねにしっかりとケアされなければならないような患者の印象についてである。中でも、とりわけ、高齢の患者や慢性疾患の患者たちのことを想定している。今日、彼らの病(Kranksein)は、医学にとって、特別な意味を持っている病であり、この病こそが、技術的技能の限界を痛切に証明しているのである。慢性疾患患者の手当ての場合、否、最終的には死にゆく者に寄り添う場合、まさに、何度も繰り返し、「患者は人間なのであって、≫症例≪なのではない」、ということが思い出される。われわれは、医師が通常、病気に対する責任を果たす手段としている老練した諸表現(Formulierungen)を知っている。医師が患者たちを自分たちの生活世界へと再び立ち戻らせることに成功する時、彼は、「自分(医師)は、〔患者の病の〕瞬間のためだけでなく、持続的に(auf Dauer)援助の職を全うしなければならない」、ということに気付くだろう。かくして、医師はただ〔患者を〕「取り扱う(handeln)」だけに終始してはならない。医師は「手当て(behandeln)」をしなければならないのである。
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2005年07月01日

ガダマー『哲学と実践的医療』4


さらにもう一歩、話を進めることにしよう。〔以上のことから〕明らかに、一方で、学問〔科学〕の手の内でわれわれが出会う尺度、他方で、われわれの世界内存在の全体の内でわれわれが繰り返し出会う尺度、という二つの尺度が存在している。われわれは、近代的な述語群を用いて、単にわれわれの生物的な有機的組織体にだけでなく、また社会的で人間らしい生活を営んでいる無数の公的機関や施設らにも影響を与えているようなシステムを記述する術を学んだ。以上のわれわれの考察から何が導き出されるだろうか? 簡潔に言えば、次のように言える。すなわち、或る面においては、測定する行為の力、つまり「病気はいかなる影響を及ぼすのか」ということに関する計算上のおおよその認識方法の力を借りて、〔患者を〕診察すること(Hinsehen)と〔患者を〕診断すること(Feststellen)があり、そして、他の面においては、よく語られていて有意義な言葉である「手当て(Behandlung=治療)」がある、と。≫手当て≪という言葉を聞くと、人は、文字通り、熟練した手を、つまり、身体組織に手を当てることで病根を探り当てるような熟達した手を思い浮かべるだろう。≫手当て≪は、近代的な技術の進展をはるかに超えている。手当ての内には、単に手だけがあるのではない。正しい言葉を聞き取る鋭敏な耳もあるし、節制ある眼差しでもって自分自身を抑制しようとする医師の観察する目もある。本質的に、手当てが施される中で、患者のためになるものは、非常にたくさんあるのである。
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2005年06月24日

ガダマー 『哲学と実践的医療』3

ガダマーの病と健康についての論文の翻訳パート3です!

パート1
パート2

本本本本

 皆、すぐに、このこと(技芸から別次元への移行を学ぶこと)を陳腐なことと思うだろう。だが、これが宿題(Aufgabe)であるのは明確だ。では、人はいかにこの移行を学ぶのか。人は、「現代の学問において、客観化するというのは、≫測定することmessen≪である」、と言うだろう。事実、量的方法の助けを借りながら、実験によって、生の諸現象や生の諸機能が測定される。すべてのことが測定されるのだ。それどころか、われわれは、大胆にも、−まさに規格化された医学の失敗の源なのだが−いわゆる水準値を固定し、病を全く直視しないとか、われわれの測定装置が伝達する測定値の束から読み取れる声だけを聞くとか、そうしたことをするのである。この両者はおそらくどちらも必要であろう。しかし、この両者を一つにまとめることは難しい。
 
 さて、もしこのように考えようとするならば、われわれはこう問わねばならない。一体ここでいう尺度(Maß=測定するもの)とは何なのか? と。私は、プラトンの思想を高く評価している。近代諸学問の内に生きる人に欠けてしまっているように見える事柄を知りたいと思う人たちにのみ、彼の学問を勧めたいと思う。政治家に関する対話の中に、非常に現代的な問いがある。すなわち、「単なる組織社会の幹部との区別において、真なる国家人(Staatmann)とはどのような人間か?」という問いである。(ここで)プラトンは、尺度を二つに区別している。一つは、人が尺度を利用し、外側から対象に当てつけることで得ているような尺度である。それからもう一つは、事物それ自体の内にある尺度(*程度)である。ギリシャ語で表現すると、尺度(Maß)であるmetponとmetpionである。ドイツ語で言えば、「測定されたもの(Gemessene)」と「相応のもの(Angemessene)」である。では、一体「相応のもの」とは何を意味しているのか? 明らかに、これは、生き生きしている全体の内的な相応性(Maßhaftigkeit)を意味している。事実、このようにして、われわれは健康を感じているのである−そしてギリシャ人たちも健康をこのように考えていた−。つまり、ハーモニーとして、すなわち程度的な相応性として、健康を考えていたのである。他方、病気の場合、人は、“健康性(Wohlsein)”と“世界への参画”の共鳴やハーモニーが阻害されたと感じる。もしわれわれがもろもろの事物をこのように観察するならば、metpon、つまり相応のものは、事実、単なる測定の道程においては、非常に狭く制限されている。まずもって、患者に目を向けること(Hinsehen)や患者の話を聴くこと(Hinsehen)は、すでに述べたように、こうしたことをすることなのである。確かにわれわれは、近代的大病院ではこのことがどれほど困難であるか、ということを知っている。
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2005年06月14日

ガダマー 『哲学と実践的医療』2

ガダマーの病と健康についての論文の翻訳パート2です!

禁煙禁煙禁煙禁煙

 さて、もしわれわれがこのことを考慮するならば、近代科学はいったい何をしているというのだろうか。われわれが全く新しい意味で学問を発展することができたのは、ガリレオ・ガリレイや17世紀に起こった大きな時代の変化によるものである。数学的描写の助けを借りて、観察された対象物の具体的なものを一般的法則性へと引き上げる術を知ることができたし、またこの数学的描写によって近代の学問が際立つのである。そうして、近代の学問は、或る効果を生の経験領域に作用させる諸要因を表す能力、あるいはそれらを規制する能力といった驚異的な能力を発展させたのである。また、〔病の〕治療の諸要因(Heil-Faktoren)として、新たな諸要因を導入することさえも成功したのである。こうした構造的な描写を可能にすることは、間違えなく、近代の学問の決定的な成果の一つだった。その結果、<一般的なものは具体性の中で把握される>という(学問的)特徴が登場する。しかし、こうした学問であらゆることがうまくいくわけではない、というのも明らかだ。言うまでもなく、われわれには、自然と精神による自己治癒力(Selbstheilungskraft)といったようなものも必要なのである。われわれは精神のうちに何か崇高なものがあるとは考えないものの、精神は、“肉体(Leib)”でもあり、“生き生きしたもの(Lebendige)”なのでもある。“肉体”と“生き生きしたもの”、これら両者は、われわれ自身そのものである生動性(Lebendigkeit=生き生きしているということ)としての精神性なのであり、また、そもそも苦しむ患者、その苦しむ患者を救う者、つまり医師も含め、われわれすべてがこうした精神性を有している。明らかに、<学問を客観化するための技芸(Kunst)は、生動性を保持し、これを修整するような別次元へと移行するということを学ぶ>ということが肝心なのである。

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とうとう「生き生きしたもの」や「生動性」といった現象学的な観点が出てきた!!

一般的には、精神と身体を切り離して考えるのが「学問」(従来の医学など)
だが、現象学的には、精神と身体は切り離せないものだ。
(言い換えれば、実際的(現事実的)には精神と身体は切り離されていない!)

また、現象としての人間は、決して「客観的な存在物」ではなく、「生き生き」した存在である。こうした捉え方は、現代では陳腐なことと考えられてしまうのか。それとも、未だ新鮮な響きを持っているのか。ポストモダンといわれる現代において、「生動性」という概念はいかなる力を有しているのか。いないのか。。。

いずれにせよ、医療、病、健康という問題に対して、自然科学的なアプローチから現象学的なアプローチへ!というガダマーの力強いメッセージがここから読み取れます!!
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2005年06月11日

ガダマー 『哲学と実践的医療』(1)

ハンス・ゲオルグ・ガダマーの或る論文を紹介したい。

“Philosophie und praktische Medizin”(1990)

病気と健康について語った小論で、晩年のガダマーの思想が際立っている文章。
試訳なので、ちょっと読みにくいかもしれませんが・・・

病院病院病院病院

 われわれは病気に関する学問だけを有しているわけではない。病気は健康なしでは存在しないからである。ここで、われわれは解答しようのない問いの前に立つことになる。健康とは何か。恐らく、病気とは何かということは知っているだろう。病気は、いわゆる「欠損部分」の抵抗を受ける。病気は、その徴候に応じて、沈静すべき抵抗を為す対象なのである。この対象をルーペの下にやり、判定し、その病気の意義を示すことはできる。とはいえ、客観化する学問が近代自然科学の流れの中で手に入れた様々な研究方法で判定するのだが… だが、健康は、独特な仕方で、こうしたものすべてから免れているものなのだ。健康は、それ自体、研究で示されるようなものではなく、まさに免れているということによって存在するようなものなのである。したがって、健康は、常に意識されているわけでもないし、病気のように配慮されるわけでもない。それに、定期的な自己治療をわれわれに呼びかけたり、自己治療を強く促したりするようなこともない。健康は、驚くべき自己忘却の一つなのである。
 それに対して、理論、つまり「何を探すのか」、「何を見出すのか」という「純粋に目を向けること(das reine Hinsehen)」、こうしたことを行うところでは、人は肉体と魂の問題について語る。人は、「肉体とは何か」を知っていると思いこんでいる。だが、誰も、魂が何なのかについては知らない。もしかしたら、肉体と魂とは何かというのは、一つのダイナミズムなのかもしれないが、どうだろうか。いずれにせよ、肉体は、生(Leben)であり、生き生きとしたものである。魂は生を吹き込むものである。そしてこのように、両者は、その根源において、すでにお互いに反映され合っており、後者(魂)のない前者(肉体)の客観化、前者(肉体)のない後者(魂)の客観化の試みすべてがどこか笑い種になってしまうほどなのである。以上の事は、客観化する学問が導き出そうとするものとここでわれわれの課題としているものとの間の隔たりがどれほど大きいかを示しているにすぎない。
 私は、「精神の傷は、瘢痕を残すことなく、癒える」、というヘーゲルの言葉を思い出す。この興味深い言葉は次のように拡大されねばならない。『瘢痕も残すことなく精神の傷を癒す方法を心得ているというのは、自然の神秘ではないのか?』と。この場合、健康になることとは、回復した状態になった生の軌跡へと『再び−立ち戻るWieder-Zurücktreten』ようなことなのである。医師は、このような意味で、自然そのものが成し遂げることの補助をしている者に過ぎない。ギリシャの医師のアルクマイオン(Alkmaion;BC500、『自然について』)の名言に、「人間は、終わりを始まりに再び結び付けることを学ばず、それを実現することができないがゆえに死ななければならない」、というのがある。これは、実際、悪意ある言葉ではないのだろうか。この名言において、われわれには、何かが欠けているのではなく、すべてが欠けている。というのも、これは、負傷や発病の否定すべてを通じて、病気の終わりから再び始まりに戻るという、生きた自然、生き生きした自然を学んだからなのである。そしてアルクマイオンはこうも言う。「死でさえ、自然の循環へと入りこむこと(Eingehen)にすぎないのだ」、と。立ち戻りというこうした循環には為す術がないということを通じて、個々人の死の運命を定義した時、アルクマイオンは、明らかに、自然の自己再生という驚くべき青写真を持っていた。どれほどの賢明さが、この死と名づけない「入りこみ」のうちにあることか!!
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Auf Wiedersehen!!

DEAR NEXT!!