ひらめき生涯一教師、生涯一研究者で頑張りますパンチ


2007年01月02日

2007.1.2 おじいちゃんとおばあちゃん


現在いてもいなくても、会っていても会っていなくても、どんな人間にも、おじいちゃんとおばあちゃんはいる。おじいちゃん、おばあちゃんという存在のない人間はいない。人間がこの世に生まれて現在こうして存在しているのは、一人の男性と一人の女性がいたからであり、その一人の男性の両親と、その一人の女性の両親がいたからである。(さらには、その一人の男性の両親双方の両親と、その一人の女性の両親双方の両親がいたからであり・・(無限後退・・))

僕は、たまたまの偶然であるが、母方のおじいちゃん(94歳)とおばあちゃん(89歳)、父方のおばあちゃん(96歳)が生きている。しかも、元気だ(身体はかなり弱っているけど、健康に目だった異常がない)。この幸いを大切にしたいので、時間が許す限り、会おうと心がけている。会った時は必ずこのブログでそのときのことを書いている。いつまでも生き続けるわけじゃない。近い未来、お別れしなければならない。それは免れられない。でも、だからこそ、日々、今のおじいちゃん、おばあちゃんに会っておきたいし、話を聴かせてもらいたい。

おじいちゃんは明治生まれ。大正時代に青春時代を生き、昭和の初めに大学時代を生き、戦争を体験している。戦争のことも何度でも聴いておきたいが、今のことも聴きたい。

「おじいちゃんね、あとどれくらい生きられるかな?今は、100歳以上生きられる人何人くらいいるか、知ってる? 二万人いるんだよ。たくさんの人が100歳まで生きているんだよ。おじいちゃんも、・・・あと6年か。どれだけ生きられるかなあ・・・ もう目は見えないし、耳は聞こえないし。足は痛いし、身体も重いよ。でも、身体は健康かな。でも、もっと動かないといけないなあ〜。土日はおじいちゃんの大好きな場所に行ってるけど、それくらいかな」

CA240181.jpg
(まだまだ元気なおじいちゃん。誕生日はkeiと同じ!)

おばあちゃんは、まだまだ少女のような人で、結構気まま。いわゆる「かわいいおばあちゃん」っていう感じじゃなくて、パキパキした人。未だに僕も怒られるし。。。 今日は、大正時代が平和だったかどうかって話を聴かせてもらった。僕が、「大正時代って、大正デモクラシーがあって、童謡がたくさん生まれて、青踏(平塚らいてうなど)の活動があって、平和だったんでしょ?」と質問すると、、、

「何言ってるの!! 大正時代なんて、戦争の時代よ。平和な時代じゃなかったわよ。恋愛だってしちゃダメだったのよ。第一次世界大戦のときは、ヨーロッパほどじゃなかったけど、アジアに侵略していた時期だし。明治から昭和の途中までは、ホント、すごかったわ。今思うと」

この話には、(恥ずかしながら)びっくりした。大正時代は結構平和でほのぼのしていたっていうイメージだったから。。もっとしっかり日本の近代史は勉強しなきゃって思った。

CA240180.jpg
(ちょっと、いい写真が撮れました!)

また会える日を楽しみにしています。待っててね!!

こぼれ話⇒続きを読む
ニックネーム kei at 22:33| Comment(13) | TrackBack(0) | 老いと介護と福祉

2006年11月07日

●僕のおばあちゃん●明治43年生まれの96歳●

今日は、僕の父方のおばあちゃんのところへ行った。

僕のおばあちゃんは、明治43年生まれ(1910年生まれ)。今年で、満96歳。もう『超おばあちゃん』だ。明治43年といえば、日韓併合の年。おばあちゃんは、今や、生ける歴史的存在ともいえる。(幸いにも、僕の祖父母は三人も健在。父方のおじいちゃんは95年に死去。でも、他の三人はまだまだ元気で、年に数回会っている。)

こちらもご覧あれ!(僕の愛するおばあちゃん)

そんなおばあちゃんとちょっと会わないうちに、またさらに年とったなあと感じた。足腰はすっかり弱くなっていて、一人で歩くことができない。腕はか細く、骨と皮だけのよう。体重もうんと軽くなっていた。「あんたの腕は肉があっていいわね。おばあちゃんなんて、骨と皮だけよ〜」と語ってくれた。

でも、たとえ、身体的には老いても、おばあちゃんの精神はすごく元気で、とても注意深い。小さい頃からよく「××しちゃだめよ!」と叱られていたが、今もよく叱られる。「髪の毛ちょっと長いんじゃない?」、「もっとちょっと落ち着きなさい」、「男なのにペラペラしゃべるんじゃないよ」、「何その格好は!もっとちゃんとした服を着なさい」等々。きつく怒ったあとはケタケタ笑う。「でも、ホント、よく遠くから来たね」、「もっとここにいなさいよ」等々。

時折、おばあちゃんは、心細いことを言う。「もう歩くの、本当につらいよ」、「イタタタ・・」、「なんだかもうすぐ死にそうだよ」と。きっと本音なのだろう。でも、孫の僕には、おばあちゃんの内心を知ることはできない。だから、会うときはじっくりお話を聴きたいって思う。

僕は、おばあちゃんに、「おばあちゃんが生きてくれていてとても嬉しいよ。誇りだもん」、と話した。そうしたら、ちょっと嬉しそうな顔を浮かべて、「フフフ」と笑ってくれた。

帰り間際、僕が、おばあちゃんに、「もうそろそろ帰るね」と言うと、きょとんとした顔で、「あら、もう帰っちゃうの? まだいなさいよ! もうそんな時間?」と言ってくれた。そして、その後、ちょっと俯き加減で、「ちょっと寂しいね。寂しいね。でもまた会えるわね」とつぶやいていた。目にちょっと涙を浮かべつつ。僕は、「うん。また会おうね。また来るもん」とゆっくり話した。そうしたら、おばあちゃんは、「そうね。それまでおばあちゃん、頑張って生きなきゃね」と、やや強い声で話してくれた。うん、まだまだ生きてもらわなくっちゃ!

まだ、生きている。そして、僕が遊びに来るのを楽しみにしてくれている。それだけで、ちょっと嬉しい。もうそんなに長くはないだろう。でも、まだちゃんとこの世界にいてくれている。会えるときにちゃんと会っておきたいと心から思う。この人がいて僕がいるんだから。

IMG_6503.JPG

(僕のオーストリア滞在の時の写真をじっくりと見てくれました! ときおり、「あら、素敵ね〜 いいわね〜」とつぶやいていました!)

おばあちゃんとゆっくり会えて嬉しかった♪ また、かわいい『ぼうや』(=kei)と会って、お話聴かせてね!!

続きを読む
ニックネーム kei at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 老いと介護と福祉

2006年07月27日

『席譲り』の現象学?

電車やバスの中で、お年寄りや障害者を見かけたとき、心の優しい人や思いやりのある人や利他的な人は、特に『あ、お年寄りだ。席を譲らなければなあ』と意識することなく、自然に、さりげなく『席、どうぞ』と一言言って、席を譲る。その時、席を譲られた方のお年寄りや障害者も、(たいていの場合)『あ、どうもありがとうございます』と言って、頭を下げて、譲られた席に腰を下ろす。そして、お互いにお互いのことを意識しつつも、そのまま、電車の一風景の中に相手の存在は立ち戻って、目立たなくなる。しばらく沈黙が続き、どちらか一方がバスや電車を降りる時に、かるく一声「どうも」と声をかけたり、会釈をしたりして、別れを告げる。その後、お互いに顔を思い出そうとしてもなかなか思い出せない。ただ、席を譲った/譲られたという出来事だけが頭の片隅に残るくらいで、その記憶すらも、日々の生活の中に静かに埋没していく。

次項有次項有

席を譲る/譲られるという出来事をつぶさにみていくと、大抵は、上述のような一連の動きが見られるだろう。多少異なる点もあるかと思うがそれは割愛しておく。

ところが、この出来事を改めて考え直してみると、いろいろと興味深い点がいくつも浮かんでくる。特に、こうした『席譲り』が円滑かつスムーズに流れるためには、二つのハードルをクリアしていなければならない。また、どちらが行為主体かということを問い直してみると、そこに相互主体性というか相互主観性というか、そういう微妙かつ奇妙な双方の一致というきわめて異例な事態が生じているように思われるのである。いったい席譲りをエポケーして反省してみる時、どんなことが見えてくるのか。

続きはこちら→続きを読む
ニックネーム kei at 01:19| Comment(12) | TrackBack(0) | 老いと介護と福祉

2006年07月25日

明治生まれの祖父との対話

僕の祖父は、現在94歳。明治生まれの人間だ。祖父の誕生日と僕の誕生日が同じということもあって、祖父との結びつきは強い。幸いにも、まだまだ元気で、僕との対話も喜んでしてくれる。今日も、半年ぶりくらいに再会して、一緒に食事をして、会話を楽しんだ。明治生まれの人間と直にお話できるなんて、そう滅多にあることじゃない。また、血のつながった人でもあり、率直に話し合うことができる。これは非常にありがたいことだし、貴重な経験の場だとも思う。

IMG_4792.JPG

今日は太平洋戦争中のお話を聴いた。僕の祖父は、実は戦争の時、兵士として戦争に参加していなかった。その理由は、大学で心理学を学んでいたからだ、という。

「おじいちゃんはね、兵士免除だったの。戦時中はすごい事態だから、心を乱す人がたくさんいてね。だから、戦争に行かないでよかったんだ。戦時中は、疎開していた。当時高円寺の辺りに住んでいたんだけど、区画整理とかで、国から800円もらって立ち退いたの。そのお金で、疎開したんだ。そして、池袋から電車に乗って疎開の地に電車で向かった。疎開した頃、食料はすべて支給制だった。お米ももらえたけど、もらえない時もあった。そういう時は、じゃがいも、かぼちゃなどが支給された。足りない時は、百姓のところにいった。着物をもってね。お金じゃ食料を分けてもらえない。どうしてか分かる?戦時中はお金なんて必要ない。でも、百姓にだってほしいものはあった。それは、オムツ用の布切れだったんだ。だから、おじいちゃんは、着物をもって、百姓のところに出かけたんだ。着物はオムツ用の貴重な資源となったからね。で、なんとか生き延びたんだ」。

祖父は、かつての話だとすごく流暢に話してくれる。高校時代に覚えたドイツ語の歌もしっかり歌える。「ローレライ」なんて、ほとんどすべてドイツ語の歌詞を覚えてしまっているくらい。

祖父は時折ケタケタ笑いながら言う。「もう、おじいちゃん、棺おけに足を半分入れているからね。でもまだ生きられそうだね」、と。僕は苦笑することしかできない。けれど、まだまだ生きていてもらいたい。もう耳もろくに聞こえないし、目もよく見えない。でも、底抜けに明るい。

「おじいちゃんね。ずっと新聞記者としてモノを書いてきたでしょ。だから、死ぬ時までモノを書いていたいんだ。今も本を書いているんだよ。邪馬台国の話ね。邪馬台国の『台』という漢字はおかしい。『台国』ってヘンでしょ・・・そこを明らかにしたいんだ」

祖父は、かつてを生きているだけじゃなくて、今を生きている。書くことが好きで好きで仕方ないようだ(僕も同じなんだけど・・・) 邪馬台国の話をしているときの祖父の目は輝いていた。いつまでも無邪気で熱い祖父でいてほしい。死ぬ時まできっと大好きな物書きをしていくんだろうな、、と思う。

好きなことをもっていると、老後は絶対に楽しい。そう思わせてくれた一日だった。好きなことを、もっともっとたくさんやろうと思うkeiでした。

*ちなみに祖母もとても元気でして、一緒に楽しい時間を過ごしました!! 二人仲良く(?!)歩く姿にはいつも心打たれるんです。
ニックネーム kei at 23:53| Comment(14) | TrackBack(0) | 老いと介護と福祉

Auf Wiedersehen!!

DEAR NEXT!!