今日、フード業界最大級のメッセに行ってきた。
3月13日〜15日の三日間、FOODEX JAPAN2007/第32回 国際食品・飲料展が行われていた。
この展覧会は、いわゆるフード業界の人しか入れないかなり特殊な展覧会で、一般人はチケットを買っても、招待状をもらっても入ることができない。
今回、僕は、とある縁で招待状を頂いた。僕はフード業界の関係者ではないので、普通だったら入れない。けれど、大学機関に属している人間なので、研究者ということで入ることができたのだった。ホント、この職についていてラッキーだった。
このFOODEX、本当にすごい展覧会だった。今日一日で、世界のほとんどすべての食品・飲料品をたしなむことができた。この展覧会のすごいところは、とにかく試食・試飲ができまくるところだ。かんたんにいえば、無料の食べ放題状態。しかも、その食材について話を聞くことができて、さらにその国の食文化について学ぶことができるのだ。
食いしん坊の僕は食べに食べた。生ハム、サーモン、とうもろこし、キャビア、ソーセージ、イベリコ豚、牛肉、パン、そば、ラーメン、コロッケ、チョコレート、洋菓子、お茶、紅茶、酒、焼酎、ビール、世界各国のアイスクリーム、シャーベット、マンゴー、ドリアン、さらには、各国のスパイスや調味料(塩、胡椒、オリーブオイル、その他)やソース、お水、お菓子(駄菓子)などなど。一般のスーパーではお見かけしないような食材もたくさんあった。
各国の人々も大勢来日していた。日本の有名ホテルの総料理長のプレゼンもあった。異国情緒溢れていて、海外かぶれの僕としても超満足だった。もちろんドイツ語圏の人もたくさんいて、ドイツ語の会話を楽しむこともできた。
今回の展覧会で強く感じたのは、世界のどの国よりも日本の食品の方がバリエーションが豊富だ、ということだった。日本の食文化は、はっきりいって世界一と言えるだろう。世界の他の国々では、主にオリーブオイルやトマトソースがメインで、あまりバリエーションがあるわけではない。ところが、日本には、恐ろしいほど味にバリエーションがあって、ものすごい食材が豊富なのである。
この展覧会に参加している人たちは、ほとんどすべて、飲食業界の人間ばかり。この展覧会で、新しいアイデアや技術を取り入れていく。まさに、食世界の学会ともいえる雰囲気だった。
また、人間の経済活動の中で、食は本当に大きな力をもっている、ということに実感した。考えてみればすぐに分かることだが、食は、第一次産業、第二次産業、第三次産業のすべての領域にわたっている。特に、「加工食品」の場合、素材を獲得する第一次産業、その素材を大量に生産する第二次産業、そして、その加工食品を消費者に提供する第三次産業、この三つがうまくバランスを取ることで、食産業は盛り上がっていく。三つのそれぞれの領域の需要と供給がマッチしたときにのみ、食文化は栄華をおさめることになる。
食産業は、グローバル化と共に、ますます複雑になり、多様化していく傾向にある。生産者と消費者をつなぐパイプも複線化している。安全面や健康面への影響も当然不透明になってくる。
「自分が今食べている食品はいったいどのような状態にあるのか」が兎にも角にも見えにくい。消費者は、いっそう知性と冷静な判断力を必要とするし、また、食の提供者も、さらなる反省が必要となる。
本当に、すごい素晴らしい一日だった。
食についてどっぷり考えた一日になりました!!
FOODEX JAPANのオフィシャルHPはこちら
2007年03月17日
2007年03月03日
TRY IT! 【おたく度チェック】
僕の友人(Toshi ig君)のmixiを見ていたら、面白いテストを紹介していたので、それをご紹介。
ずばり、【おたく度チェック】★
誰でも簡単に自分のおたく度を検査することができるので、興味のある人は是非♪
【おたく度チェック】のサイトはこちら
ちなみに・・・
僕のおたくは次の通りでした。微妙・・・
⇒続きを読む
2007年01月12日
■人間の残虐さはどこで芽生えるのか■
今日は、朝早くから仕事で朦朧としているので、ロクな文章が書けそうにない。が、今日のうちに書き留めておきたい。
最近、バラバラ殺人が次々に起こっている。いったいどうしたのだろうか? 人が同じ人間を殺し、切り裂いて、捨てる。なんでそんな凶悪なことが立て続けに起こってしまうのか・・・
「バラバラ殺人」自体は、かなり昔から時折起こっている。が、これほどまでに頻繁に発生するのは非常に珍しいようにも思える。
最近は、信じがたい残虐行為が立て続けに起こっている。兄妹で殺しあったりとか、夫婦で殺しあったりとか。。。「家族内の惨劇」が多すぎる。夫婦も、兄弟姉妹も、どこかすれ違ってしまっているのか?
心理学、福祉学、教育学などでは、幼少期の親子関係を、「人間の生きる基盤」と考えている。そういう基盤が壊れつつあるのかもしれない。
僕らは、近代の工業製品、電化製品、物資的な豊かさと引き換えに、最も人間にとって大切な「平安な家族」を失う、という致命的な失敗をしたのかもしれない。これだけ便利になって、これだけ情報ツールがあって、自家用車もあって、それにもかかわらず、人間はちっとも楽にならず、相変わらず人を憎み、ののしり、うらんでいる。
殺すくらいなら、素手で殴ればいい、と普通の凡人なら考える。殴ることもできない人は、議論で戦えばいい。怒りや殺意を覚えたなら、それをどこか別の場所で吐き出せばいい。逃げてもいい。無理に耐えないで、小さな爆発を起こせばいい。ロックやメタルを聴いてもいい。自分の怒りの鎮め方を知っておけば、どれほど楽になるか。
今後も考えたい問題だ。。。
最近、バラバラ殺人が次々に起こっている。いったいどうしたのだろうか? 人が同じ人間を殺し、切り裂いて、捨てる。なんでそんな凶悪なことが立て続けに起こってしまうのか・・・
「バラバラ殺人」自体は、かなり昔から時折起こっている。が、これほどまでに頻繁に発生するのは非常に珍しいようにも思える。
最近は、信じがたい残虐行為が立て続けに起こっている。兄妹で殺しあったりとか、夫婦で殺しあったりとか。。。「家族内の惨劇」が多すぎる。夫婦も、兄弟姉妹も、どこかすれ違ってしまっているのか?
心理学、福祉学、教育学などでは、幼少期の親子関係を、「人間の生きる基盤」と考えている。そういう基盤が壊れつつあるのかもしれない。
僕らは、近代の工業製品、電化製品、物資的な豊かさと引き換えに、最も人間にとって大切な「平安な家族」を失う、という致命的な失敗をしたのかもしれない。これだけ便利になって、これだけ情報ツールがあって、自家用車もあって、それにもかかわらず、人間はちっとも楽にならず、相変わらず人を憎み、ののしり、うらんでいる。
殺すくらいなら、素手で殴ればいい、と普通の凡人なら考える。殴ることもできない人は、議論で戦えばいい。怒りや殺意を覚えたなら、それをどこか別の場所で吐き出せばいい。逃げてもいい。無理に耐えないで、小さな爆発を起こせばいい。ロックやメタルを聴いてもいい。自分の怒りの鎮め方を知っておけば、どれほど楽になるか。
今後も考えたい問題だ。。。
2006年12月09日
◆銚子電鉄を守りたい◆
千葉県民以外にはあまり興味がないかもしれない。あるいは、銚子を愛する一部の人にしか届かないかもしれない。けれど、やっぱり書いておきたい。
銚子電鉄のことだ。
銚子電鉄は、JR銚子駅から犬吠崎をぐるっと回り、外川駅まで続く短い区間(6、4km)を走る昔ながらのローカル電車。一番高い運賃でも310円。創業は大正2年。ずっとずっと銚子の市民や全国の客たちを乗せて走ってきた。
そんな銚子電鉄が廃線の危機に瀕している。かなりギリギリのところにいる。今年の銚子市長選のときも、なんとか「存続派」が勝利してもちこたえた。けれど、もう「猶予」はない。
厳しい状況を伝えるサイト
本当に笑えない真面目な記事
僕の大切な仲間の一人がここで働いている。彼の心情をうかがい知ることはできないが、複雑な心境であろう。僕の教え子も、この電車を使って、生活している。その学生が言っていた。
銚子在住のうちの学生にとっても超深刻だ。今もまだ多くの学生や高齢の方たちが利用している。でも、それでも、経営不振は予想以上に深刻だ。経営が悪いだけではなく、老朽化した設備(電車、線路など)のリニューアルもしなければならなくなってきているのだ。このリニューアルのために、なんと5億円以上ものお金が必要だ!というのだ。
そのために、ネットで、銚子電鉄が販売する「ぬれ煎」の購入を全国の人々に訴えた。その甲斐あってか、とんでもない数の注文が入った。けれど、生産が追いつかず、パンク状態だという。
地方の電車やバスがなくなるたびに思ってしまう。なんでみんな「車」に向かうんだろう?って。もちろん「車」は便利だし快適だし自由だ。けれど、その「車」と引き換えに「電車」や「バス」がとんでもなく減少してしまった。
僕は、車の免許をもっていない。。。できるだけ「公共の乗り物」を活用しようと思っている。でも、僕だけでも「運転手」のいる「乗り物」に乗っていきたい、そんな小さな願いがある。「車」より「電車」の方が絶対的に安全だ。年間100万件もの交通事故。死者の数はだいたい1万人。負傷者の数はとんでもない数だ。もっと知恵を出し合って、車を持たないでもやっていける社会を作りたいものだ。(「田舎では車無しではやっていけない」という悲痛の叫びもよく聞く)
●銚子電鉄、個人的にとても大好きな電車なので、なんとしても存命してほしいと心から願っている。ガンバレ!銚子電鉄!
●その後、なんとかギリギリのところで踏みとどまっているそうです。ぬれせんべいの売れ行き好調のほか、通常の乗車率の倍のお客さんが利用してくれているようです!頑張れ!(詳しくはこちら)
銚子電鉄のことだ。
銚子電鉄は、JR銚子駅から犬吠崎をぐるっと回り、外川駅まで続く短い区間(6、4km)を走る昔ながらのローカル電車。一番高い運賃でも310円。創業は大正2年。ずっとずっと銚子の市民や全国の客たちを乗せて走ってきた。
そんな銚子電鉄が廃線の危機に瀕している。かなりギリギリのところにいる。今年の銚子市長選のときも、なんとか「存続派」が勝利してもちこたえた。けれど、もう「猶予」はない。
厳しい状況を伝えるサイト
本当に笑えない真面目な記事
僕の大切な仲間の一人がここで働いている。彼の心情をうかがい知ることはできないが、複雑な心境であろう。僕の教え子も、この電車を使って、生活している。その学生が言っていた。
銚子電鉄がなくなると、ホントまずいんですよ。。わたしたち学生たち、どうやって生活をしたらいいんですか? 学校にだって通えないですよ。ホントに真剣です。なんとかなりませんかね〜
銚子在住のうちの学生にとっても超深刻だ。今もまだ多くの学生や高齢の方たちが利用している。でも、それでも、経営不振は予想以上に深刻だ。経営が悪いだけではなく、老朽化した設備(電車、線路など)のリニューアルもしなければならなくなってきているのだ。このリニューアルのために、なんと5億円以上ものお金が必要だ!というのだ。
そのために、ネットで、銚子電鉄が販売する「ぬれ煎」の購入を全国の人々に訴えた。その甲斐あってか、とんでもない数の注文が入った。けれど、生産が追いつかず、パンク状態だという。
地方の電車やバスがなくなるたびに思ってしまう。なんでみんな「車」に向かうんだろう?って。もちろん「車」は便利だし快適だし自由だ。けれど、その「車」と引き換えに「電車」や「バス」がとんでもなく減少してしまった。
僕は、車の免許をもっていない。。。できるだけ「公共の乗り物」を活用しようと思っている。でも、僕だけでも「運転手」のいる「乗り物」に乗っていきたい、そんな小さな願いがある。「車」より「電車」の方が絶対的に安全だ。年間100万件もの交通事故。死者の数はだいたい1万人。負傷者の数はとんでもない数だ。もっと知恵を出し合って、車を持たないでもやっていける社会を作りたいものだ。(「田舎では車無しではやっていけない」という悲痛の叫びもよく聞く)
●銚子電鉄、個人的にとても大好きな電車なので、なんとしても存命してほしいと心から願っている。ガンバレ!銚子電鉄!
●その後、なんとかギリギリのところで踏みとどまっているそうです。ぬれせんべいの売れ行き好調のほか、通常の乗車率の倍のお客さんが利用してくれているようです!頑張れ!(詳しくはこちら)
2006年11月24日
◆DVもいじめもワールドワイドの問題◆
フランスでは、三日に一人が、DVで女性が殺されている、という衝撃的な事実が発表された。
内容はこちら
また、イギリスでは、いじめの問題が国の問題として取り上げられ、話題を呼んでいる。
内容はこちら
DVも、いじめも、国内に留まる問題ではない。DVは、女性差別や女性排除という現代の問題であるし、いじめも、弱者排除、人種差別(他者差別)という大きな今日的問題である。
ゆえに、DVやいじめは、日本文化からのみ説明しきれる問題ではないし、日本という風土に特有の問題でもない。歴史的な問題であり、生物学的な問題なのかもしれない。
僕の立場から言えば、「理性」をめぐる問題である。あるいは、「啓蒙」の問題かもしれない。理性的判断は、(本来の意味からすると)感情や先入見や憶測などから自由な判断である。物事を冷静に、静観してみる判断である。不当な差別や非合理的な排除は、この判断によってのみ、抑えることができる。
生物学的にも女性は男性より肉体的に劣っている。たしかに、そのこと自体は、理性的判断かもしれない。しかし、だから「どうするのか?」というプラクシスの問題も、やはり理性的に考えていかなければならない。社会的存在として、誰もが弱者になるという視点から、他者と共に生きていかなければならない。(法の問題ともリンクする)
いじめも、見方を変えれば、自然の摂理ではある。動物を見ていても、「いじめ」のような現象はいくらでも起こっている。ルールを守らないものや、力の弱いものは、そうでないものから叩かれるし、排除される。しかし、それを克服するためには、「そうではいけないのだ」という理性的かつ感覚的な問題意識が生じていなければならない。そうした問題意識を生じさせるものが、理性である。
「それじゃだめなんだ」という感覚が、われわれの「共通感覚」にあるのかどうかはさだかではないが、そういう感覚的な意識が生じなければ、DVもいじめも防げないだろう。DVもいじめも、まだまだ「あって当然」という感覚が多くの人の中に共有されている。(たばこの問題は、ようやく「それじゃだめなんだ」という感覚を得るに至りつつある)
人を殺してはいけないのは、「それじゃだめなんだ」というわれわれの共通感覚がすでにできあがっているからで、その感覚が失われてしまえば、きっともっと「殺戮」は増えることだろう。日本に自殺が多いのも、「切腹はやむなし」という歴史的な背景を持っており、「それもやむなし」という共通感覚が日本人の心の奥底のどこかに(地平レベル=無意識レベル=潜在意識レベルで)あるのではないか。
われわれは、DVもいじめも、「だめなんだ」という感覚を作ることができるのか。共通感覚として、社会的理性として、こうした問題をNOと言えるための土台は築き得るのだろうか???
参考⇒続きを読む
内容はこちら
また、イギリスでは、いじめの問題が国の問題として取り上げられ、話題を呼んでいる。
内容はこちら
DVも、いじめも、国内に留まる問題ではない。DVは、女性差別や女性排除という現代の問題であるし、いじめも、弱者排除、人種差別(他者差別)という大きな今日的問題である。
ゆえに、DVやいじめは、日本文化からのみ説明しきれる問題ではないし、日本という風土に特有の問題でもない。歴史的な問題であり、生物学的な問題なのかもしれない。
僕の立場から言えば、「理性」をめぐる問題である。あるいは、「啓蒙」の問題かもしれない。理性的判断は、(本来の意味からすると)感情や先入見や憶測などから自由な判断である。物事を冷静に、静観してみる判断である。不当な差別や非合理的な排除は、この判断によってのみ、抑えることができる。
生物学的にも女性は男性より肉体的に劣っている。たしかに、そのこと自体は、理性的判断かもしれない。しかし、だから「どうするのか?」というプラクシスの問題も、やはり理性的に考えていかなければならない。社会的存在として、誰もが弱者になるという視点から、他者と共に生きていかなければならない。(法の問題ともリンクする)
いじめも、見方を変えれば、自然の摂理ではある。動物を見ていても、「いじめ」のような現象はいくらでも起こっている。ルールを守らないものや、力の弱いものは、そうでないものから叩かれるし、排除される。しかし、それを克服するためには、「そうではいけないのだ」という理性的かつ感覚的な問題意識が生じていなければならない。そうした問題意識を生じさせるものが、理性である。
「それじゃだめなんだ」という感覚が、われわれの「共通感覚」にあるのかどうかはさだかではないが、そういう感覚的な意識が生じなければ、DVもいじめも防げないだろう。DVもいじめも、まだまだ「あって当然」という感覚が多くの人の中に共有されている。(たばこの問題は、ようやく「それじゃだめなんだ」という感覚を得るに至りつつある)
人を殺してはいけないのは、「それじゃだめなんだ」というわれわれの共通感覚がすでにできあがっているからで、その感覚が失われてしまえば、きっともっと「殺戮」は増えることだろう。日本に自殺が多いのも、「切腹はやむなし」という歴史的な背景を持っており、「それもやむなし」という共通感覚が日本人の心の奥底のどこかに(地平レベル=無意識レベル=潜在意識レベルで)あるのではないか。
われわれは、DVもいじめも、「だめなんだ」という感覚を作ることができるのか。共通感覚として、社会的理性として、こうした問題をNOと言えるための土台は築き得るのだろうか???
参考⇒続きを読む
2006年11月18日
■日本人の美意識と自意識■現代教育論■
子どもの自殺の連鎖が止まらない。かつて、これ以上の自殺連鎖はあっただろうか。正直、驚きを隠せない。デスノートをはじめとする最近のマンガを読んでいるかのような錯覚に陥る。あるいは、「ハーメルンの笛吹き男」を読んでいるかのような気分になる。子どもたちにいったい何が起こっているのか。
最近のマンガの傾向であるが、『死』が、遠いが故に、近くにあるというか、最も『死』が遠ざかっている先進国が故に、死が最も身近にあるようにも見える。いつの間にか、死ぬことが、子どもたちのごく身近な出来事として、立ち現れているのかもしれない。
他方、『教育基本法改正』の動きが問答無用に進んでいる。『日本人としての誇り』、『美しい国づくり』、『国を愛する心』を改正の核に置く改正派の求心力が強まり、一気に改正にまでこぎ着けようとしている。
ここに、二つのキーワードが浮かび上がる。『美意識』と『自意識』の二つの言葉だ。
一方で、最近の子どもに見られるように、自分が『他有化』され、ニュースや報道などの情報によって、強烈な影響を受けてしまう。それほどにまで自我が脆弱なものになっている。他者からの働きかけに強く影響を受けること自体は決して否定されるべきことではないが、それにしても、自意識が弱すぎる。自分が死んだら親はどう思うか、ということを思い描くイメージもないのか。本気で「自分が死んでも親は悲しまない」と思うほど、心が枯渇してしまっているのか(だとしたら、そういう心の枯渇を作ってしまったのは誰か、何か)。
他方で、美意識が強く主張されている。日本人の美意識の中に、「自害」という美意識が伝統的にある。『切腹』は、或る意味、一つの日本の美意識に由来している。自殺大国日本の人々は、未だなお、強く日本人の美意識を強くもっているように思われる。(そうでなければ、これほど自殺が常に多発するわけがない)
キリスト教の影響もあるだろうけど、欧米は自殺が少ない。ロシアやイタリアは結構多いが、それを除けば、日本とは比べ物にならないくらいに少ない。どうしてか。
根本に、自意識の強さがあるように思われる。他者への配慮や他者の目よりも自分自身を一番に考える「強烈な自意識」。これが彼らの根底にある。これは、「自尊心」と言い換えることもできる。まず自分ありき、という考え方は、これまでの日本にはない。日本は、「自意識」を持つことを基本的に認めていない。むしろ、「協調性」、「共同性」、同一性」を重んじている。教育基本法を改正しなくとも、十分に「美しい国」なのだ。いくら金髪が増えようと、刺青が増えようと、若者たちは、己の意識を十分に持ち合わせてない。
僕らは、緊急に、「自意識」を強化する必要があるのではないか。欧米から「個人主義」の在り様をもう一度学ぶ必要があるのではないか。そういう意味で、「教育基本法」は、傾聴に値するのではないか。
第一条「個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成」
第二条「自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献する」
個人、自主的精神、自発的精神、これらはどれも「自意識」に強く結びつく概念である。
僕らは、まだまだ、これらをきちんと身につけているとは言いがたい。どちらかといえば、逆のベクトルの方を好むのではないか。「協調性」、「譲り合い」、「自己制御」といった自意識の抑制の方が、得意なのではないか。
今回の改正が、さらに個人の自意識を抑制するものであるならば、さらに子どもの自殺は増えてしまうかもしれない。特に初等教育の段階で、自意識の抑圧がさらに強まるとどうなってしまうのだろう。
子どもたちの自殺、そして、個人を尊ぶ教育基本法の改正、これらは、全く別のものではなく、極めて相性の悪い強烈な反作用を示すものなのではないだろうか。。。(悩みつつ・・・)
最近のマンガの傾向であるが、『死』が、遠いが故に、近くにあるというか、最も『死』が遠ざかっている先進国が故に、死が最も身近にあるようにも見える。いつの間にか、死ぬことが、子どもたちのごく身近な出来事として、立ち現れているのかもしれない。
他方、『教育基本法改正』の動きが問答無用に進んでいる。『日本人としての誇り』、『美しい国づくり』、『国を愛する心』を改正の核に置く改正派の求心力が強まり、一気に改正にまでこぎ着けようとしている。
ここに、二つのキーワードが浮かび上がる。『美意識』と『自意識』の二つの言葉だ。
一方で、最近の子どもに見られるように、自分が『他有化』され、ニュースや報道などの情報によって、強烈な影響を受けてしまう。それほどにまで自我が脆弱なものになっている。他者からの働きかけに強く影響を受けること自体は決して否定されるべきことではないが、それにしても、自意識が弱すぎる。自分が死んだら親はどう思うか、ということを思い描くイメージもないのか。本気で「自分が死んでも親は悲しまない」と思うほど、心が枯渇してしまっているのか(だとしたら、そういう心の枯渇を作ってしまったのは誰か、何か)。
他方で、美意識が強く主張されている。日本人の美意識の中に、「自害」という美意識が伝統的にある。『切腹』は、或る意味、一つの日本の美意識に由来している。自殺大国日本の人々は、未だなお、強く日本人の美意識を強くもっているように思われる。(そうでなければ、これほど自殺が常に多発するわけがない)
キリスト教の影響もあるだろうけど、欧米は自殺が少ない。ロシアやイタリアは結構多いが、それを除けば、日本とは比べ物にならないくらいに少ない。どうしてか。
根本に、自意識の強さがあるように思われる。他者への配慮や他者の目よりも自分自身を一番に考える「強烈な自意識」。これが彼らの根底にある。これは、「自尊心」と言い換えることもできる。まず自分ありき、という考え方は、これまでの日本にはない。日本は、「自意識」を持つことを基本的に認めていない。むしろ、「協調性」、「共同性」、同一性」を重んじている。教育基本法を改正しなくとも、十分に「美しい国」なのだ。いくら金髪が増えようと、刺青が増えようと、若者たちは、己の意識を十分に持ち合わせてない。
僕らは、緊急に、「自意識」を強化する必要があるのではないか。欧米から「個人主義」の在り様をもう一度学ぶ必要があるのではないか。そういう意味で、「教育基本法」は、傾聴に値するのではないか。
第一条「個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成」
第二条「自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献する」
個人、自主的精神、自発的精神、これらはどれも「自意識」に強く結びつく概念である。
僕らは、まだまだ、これらをきちんと身につけているとは言いがたい。どちらかといえば、逆のベクトルの方を好むのではないか。「協調性」、「譲り合い」、「自己制御」といった自意識の抑制の方が、得意なのではないか。
今回の改正が、さらに個人の自意識を抑制するものであるならば、さらに子どもの自殺は増えてしまうかもしれない。特に初等教育の段階で、自意識の抑圧がさらに強まるとどうなってしまうのだろう。
子どもたちの自殺、そして、個人を尊ぶ教育基本法の改正、これらは、全く別のものではなく、極めて相性の悪い強烈な反作用を示すものなのではないだろうか。。。(悩みつつ・・・)
2006年11月17日
『常識が覆されること』をめぐるジレンマ
@ガリレオ・ガリレイやニュートンを持ち出すまでもなく、『常識をひっくり返してものを見ること』は、科学的・学問の最も基本的な態度である。常識どおりにものを見るのをやめて、そのもの自身に即してものを見る態度は、学問的には、いいことであり、正当なこととされる。学問の発展は、人間の大きな財産であり、われわれの生活をより豊かにしてくれる。また、そういう人は、しばしば「客観的な人」と呼ばれ、尊敬される。
A他方、人間社会では、その常識が最も大切なこととして尊敬されている。常識的な判断ができない人は、社会のルールを身につけていない人間であり、ダメな人と言われてしまう。常識を知らないで、非常識にふるまう人は、会社・組織では、ういてしまい、敬遠される。人は、常識的な人間を好み、非常識な人間に不信感を抱く。逆に、常識をしっかり身につけた人は、「賢人」と呼ばれ、多くの人から尊敬される。
ここで、「常識」をめぐって、ジレンマに陥る。一方で、「常識を覆すこと」は、いいことであり、尊敬に値する。他方で、「常識を尊守すること」も、いいことであり、尊敬に値する。いったいどちらを信じたらよいのか。。
@の常識は、「日常的なものの見方」と言ってよいだろう。あるいは、「これまで当然と思われるような判断をすること」と言ってよい。これを疑い、曇りなき目で対象をまなざすこと、これは、全うな研究者の当たり前の態度であり、自明なことである。
Aの常識は、「モラル」、「道徳」、「礼儀」、「習慣」などと言い換えることができる。どれも、人間が他者と共存していく上で欠かすことのできないものである。これらの常識は、基本的に、決して難しいものではなく、多くの人が当たり前にやっていることなのである。
同じ「常識」でも、表現の仕方によって、全く別の意味を持つことになる。或る場面で@が必要であっても、別の場面では@が最も侮蔑されてしまう。また、@のような場面で、Aが強いと、全く成果のないつまらない結果となってしまう。
Aの意味で、常識をきちんと身にまといつつ、@の意味で、常識を覆していく。そういう人間は、理想的だが、実際にどれだけいるのか。常識を覆しつつ、常識を身につけていく。そういうパラドクスを克服した人物がいるなら、そういう人から僕らは多くを学ぶことができるだろう。僕が大好きな狂言師、野村萬斎は、こうしたパラドクスを、「更新」という言葉で表現している。かつての常識をきちんと身につけつつ、それを絶えず「更新」していく。
いくら時代が変わっても、僕らは多くのことを過去から学んでいる。それらをきちんと受け継ぎつつ、作られた常識を覆していく。そして、新たな地平を切り拓く。受け入れつつ、それを絶えず修正していく。そういう営みが、人間社会の大きなダイナミクスなのだと思う。
自由な発想と謙虚に学ぶ姿勢、どちらもきちんと身につけていたいと思う今日この頃である。どちらかじゃダメ、ということは常に自覚していたいところだ。
2006年11月04日
■脳−コンピューター−インターフェイス■人間サイボーグ■
今日、NHKで立花隆の番組があった。内容は、脳とコンピュータをつなげる最新技術についてだった。
ブレイン・コンピューター・インターフェイス(
@もうアメリカでは、コンピューターで生きているねずみやモルモットをコントロールすることができるのだ。コンピューターの指示通りに、ねずみやモルモットを動かすことは、技術的に可能なのだ。(生きている動物を、人間の手で、コンピューターを使って、操作する、これはすごいことだ。別の存在によって己の存在が動く、だなんて・・)
Aまた、東大でも実験的にやっているが、手を失った人に、脳に直結した人工の義手をつけることで、実際の手のように操作することができるのだ。。脳⇒インターフェイス⇒指令⇒操作、というプロセスが実現してしまっているのだ。
Bまた、事故によって、頭以下四肢すべてが動かなくなった重度の障害者の例もすごい。身体全身が動かなくても、脳が動けば、脳に直結したコンピューターによって、あらゆるものを動かすことが可能となる、という。今後、四肢を使わずして、日々の日常生活を行うことができるかもしれない、というのだ。いわば、「考えただけで、外界のものを動かすことができる」、ということが可能となるのだ。
Cうつ病患者の脳を刺激して、治療して、元気にさせてしまう技術ももう完成している。。。うつの症状を引き起こす脳の箇所に刺激を与えることで、元気にさせてしまう、というのだ。。。(これに対して、立花は驚愕していた。「人間の心はこんなものなのか・・」と嘆いていた)
これらを人間に適用させたらどうなるか。
続きはこちら⇒続きを読む
2006年10月10日
核と平和―北朝鮮について
昨日、北朝鮮で核実験が行われた。
だから、昨日の夜(メディア)はこの話題で持ちきりだった。
北朝鮮。
僕は、学問的立場上、あまり政治的なことにはコミットしないが、北朝鮮はすごく気になる。単純に、隣人・隣国だから。(核の問題についてもノーコメント。だいたい常任理事国は核を持つことができて、他の国が保有できないという論理自体、奇妙だから。中国やアメリカは十分なくらいに核を持っているのに、北朝鮮やイラク、ドイツや日本が持てないというのは、客観的真理に基づくものではなく、国際政治的権力に基づくものだから。戦後60年経っても、当時の影響力はまだまだ絶大なんだな)
昨日、核実験の報道がなされたとき、一番最初に感じたのは、「日本に放射能は来ないか?」という不安だった。北朝鮮は、地理上、非常に近いところにある。飛行機なら2時間もあれば着いてしまうほどの近さだ。自分の身に降りかかることが問題なのだ。
でも、誰も「北朝鮮」を心配したり、按じたりはしない。警戒はするが、心配はしない。父親的な視線はたくさんだが、母親的な視点はまったくない。この「まなざし」は、北朝鮮に影響を与えているような気もしなくもない。
つづく⇒⇒続きを読む
だから、昨日の夜(メディア)はこの話題で持ちきりだった。
北朝鮮。
僕は、学問的立場上、あまり政治的なことにはコミットしないが、北朝鮮はすごく気になる。単純に、隣人・隣国だから。(核の問題についてもノーコメント。だいたい常任理事国は核を持つことができて、他の国が保有できないという論理自体、奇妙だから。中国やアメリカは十分なくらいに核を持っているのに、北朝鮮やイラク、ドイツや日本が持てないというのは、客観的真理に基づくものではなく、国際政治的権力に基づくものだから。戦後60年経っても、当時の影響力はまだまだ絶大なんだな)
昨日、核実験の報道がなされたとき、一番最初に感じたのは、「日本に放射能は来ないか?」という不安だった。北朝鮮は、地理上、非常に近いところにある。飛行機なら2時間もあれば着いてしまうほどの近さだ。自分の身に降りかかることが問題なのだ。
でも、誰も「北朝鮮」を心配したり、按じたりはしない。警戒はするが、心配はしない。父親的な視線はたくさんだが、母親的な視点はまったくない。この「まなざし」は、北朝鮮に影響を与えているような気もしなくもない。
つづく⇒⇒続きを読む
2006年10月07日
愛国心と愛自分心
今回、ドイツ―オーストリア―スイスを歩いてきて、気付いたことがある。
日本人のこと。
僕は、日本人であることを誇りに思っている。日本の文化(特に食文化)は、本当に素晴らしい。オタク文化やヴィジュアル系文化も、あっちでものすごく評価されていて、嬉しかった。改造車も日本ほどこだわっている国はない(日本の改造車の雑誌が売られていた!)。
日本人は、良くも悪くも、徹底的に物事を極めようとするところがある。或る意味、ほとんどの日本人がオタクなのかもしれない(いい意味で)。真面目で、礼儀正しくて、笑顔や挨拶を欠かさない。協調性もすごくあるし、周りへの配慮は世界一かもしれない。
でも、その反面で、日本人は、そうしたメンタリティーに苦しんでいるようにも思う。みんな真面目。かつて『まじめの崩壊』という本が売れたことがあったが、崩壊どころか、まだまだ真面目すぎるくらいに真面目のような気がしてならない。そして、思いつめる。考え込んでしまう。
自分のことを棚にあげることが得意な反面、自分自身を表現することがとても苦手なようにも思う。その背景には、自分を出してはいけないという美徳意識があるのかもしれない。自分を捨てることが良しとされる世界観があるのかもしれない。
もちろん「無我」自体はすごいことだと思う。けれど、自分を消しすぎることは健康なことかどうか。
自分自身に自信がない。
日本人は、自分が自分であるという自信が持てていないように思う。これは「愛国心」ではない。自分の国に誇りを持っていないというのではなく、自分自身に誇りを持っていないように思うのだ。「愛自分心」というか。
一見、自信を持っているような人がいる。お金を持っている人、もてる人、頭がいい人など。でも、そういう人の自信は、お金や美貌や頭脳がなくなれば消えてしまうような自信である。対象的な自信である。
そういう自信ではなく、自分が自分であるという自信。ただ自分が自分であることで感じる自信。「これが私なんだ」というだけの誇り。僕は、ヨーロッパに行くたびに、感じる。ヨーロッパの人たちの強い愛自分心を。
スーパーでレジを売っている人の強さ。一人でどうどうと歩く車椅子の人の強さ。喫茶店で働くウエイトレスの強さ。学校の一教師の強さ。ホテルの従業員の存在感。みんながそれぞれの自分を生きている。みんなが自分に自信があるから、卑屈さがない。あっちでも「勝ち組」「負け組」という二極化が進んでいるという。でも、それは「お金」の話。生活している時の態度は、どんな立場の人であっても、対等な感じがするのだ。
愛国心を教育しようという動きもあるが、そのまえに、愛自分心(自分が自分であることを誇りに思う心)を持つことが先のように思うのは僕だけだろうか。国を愛する以前に、自分をもっと愛して、かわいがってあげてもいいのではないだろうか? また、人をけなしたり、否定する前に、ほめてあげて、たくさんいいところを認めてあげて、尊重することの方が(今の日本人には)必要なのではないだろうか?
2006年08月15日
われわれ人間−三つの箴言
今日は、日本の敗戦日。太平洋戦争が終わった日。1945年に戦争が終り、一つ歴史にピリオドが打たれた日。
あれから61年。われわれの暮らしは、途方に暮れるほど、便利になり、豊かになった。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、レンジ、音響機器、パソコン、住居、あらゆるものが普通に手に入る時代を生きている。61年前のリアリティーは、もはや追体験不可能なほどに隔たっている。テレビも携帯も車もない生活をありありとイメージできる人がどれだけいるだろうか。
世界もどんどん狭くなっている。僕みたいな世俗の人間も、ちょっと頑張れば、海外を存分に楽しむことができる。あらゆるものが世界から毎日大量に輸入されている。日本のものも、世界にどんどん輸出されている。地球の反対側で起こっていることも、タイムリーに知ることができる。
われわれ人間は、途方もなく発展してきた。自然科学や科学技術の発展のおかげで、とんでもない理想的な生活を実現してしまっている。
それなのに、問題は絶えず生じているし、苦しみや悲しみは全く減らない。みんなが笑顔で暮らせるくらいに豊かなはずなのに、涙を流すようなことばかりが起こる。不満や嫉妬や妬みはなくならない。これだけ便利で快適になったのに、人間は全然安らがない。ますます忙しくなり、ますます自分がどこにいるのかが不透明になってしまっている。『ゆとりある豊かな生活』に一番近くにいながら、一番遠ざかってしまっている。
もし61年前の人間がこの今の時代に出現したら、どう思うのだろう。こっちの世界に住みたいと思うだろうか。それとも、61年前の世界に戻りたいと思ってしまうだろうか。ボクは分からない。この今の時代をリアルに生きているから。
そんな現代の、そして61回目の敗戦日に、一つの文章(独語)を読んだ。アフォリズム(箴言)なので、すごく抽象的に書かれている文章なんだけど、すごくリアリティーがあった。自分たちの足元がぐらついている現代社会だからこそ、何か迫るものがあった。
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2006年08月12日
僕は僕なりに 君は君なりに 人は人なりに
僕は僕なりに歩いていく。とことんマイペースで。
焦っても,怠けても、疲れてしまう。今の自分ができる範囲のことをやっていこう。他人と比べると,変な焦りや変な優越感がわいてくる。自分は自分。他人は他人。今の自分が『よしっ!やろう!』と、素直に思えることをそのまま素直にやろう。そうしたら、きっと自分は満足するだろう。満足することが大事。
満足できたら心地よいだろう。自分の日常生活に満足を感じていたら,心地よくて,気持ちよい。(*ボクは、朝コーヒーを飲んで、ブログを書いて、ラーメンを食べて、好きな音楽を聴けたら満足してしまう)。みんなは何をしたら満足するのだろう?
満足は、気持ちのよさを伴う。気持ちよいことは素敵なこと。お風呂に入って,『ああ〜いい湯だなあ』と思えるとき,僕は気持ちよくて,満足している。とても素敵なひとときだ。お風呂に入って、不快だけを感じてしまう人もいるだろうが、大抵の人は気持ちのよさを感じる。少なくともボクは気持ちよくなり、満足する。
今やりたいことがある。しかも、やり遂げるのが困難なこと。そして、やらなくてもいいこと。でも、やりたくなること。これを成し遂げるのは、結構たいへん。苦痛もとても感じる。でも、やりたくなる。「やりたくなる気持ち」は,「苦痛の感情」よりも大きい。険しい山に登る人、美味しいラーメンを作ろうと必死になっている職人、子どものためにと懸命に働く教師や保育士。みんな、苦痛を味わいながらも、決してやめないで頑張っている。
やりたいという気持ちが満たされると,とても充実した気持ちが得られる。充実した気持ちは,満たされた気持ちだ。満たされた気持ちはとてもいい気持ちだ。(病気になってやりたいことができなくなって、その後そのやりたいことがまたできるようになったときのことを思い出したい)
もし僕が僕なりにできる範囲で,素直に今したいことをやって,気持ちよくなって満足が得られるなら,僕は端的に「嬉しい」。でも,もし僕が自分ができもしないことに取り組み,さしてやりたくもないのにやり続けて,さらにそれがうまくいかないと,きっと気持ち悪くなるだろう。そして,満足は得られない。うん。
やっぱり僕は僕なりに,がいい。そして、満足できたらいい。
僕は僕なりに
君は君なりに
人は人なりに
満足していけばいいのだろう。
一番大切なのは、「自分はどうしたら満足するのか」をしっかり見極めることだろう。やはり「自己洞察」「自己省察」が欠かせないのだ。
2006年07月11日
☆一生懸命働く日本人へ☆
孫引きになるけど、面白い小話を見つけたのでここでご紹介。この小話をどう解釈するかは読み手次第だろう。
日本の商社マンが南の発展途上国へ行って猛然と働いている。一方、むこうの暖かい国の人は椰子の木の下で横になって昼寝している。そして猛然と働く日本人に向かって、
「何をやっているのだ」
と聞く。
「いや、仕事をしているのだ」
「仕事をするとどうなるのか」
これは社会のためだとか、会社のためだとか、いろいろ答えるわけだろうが、
「仕事をやって会社が儲かるといったいどうなるのか」
「おれの月給も上がる、地位も上がる」
「上がるとどうなるんだ」
と、どんどん問い詰められると、あやふやになる。
「月給が上がると何をやるんだ」
「まあ、別荘でも建てる」
「別荘を建ててどうするんだ」
「別荘を建てて、土曜日の午後にはその庭で昼寝をする」
というと、
「そんなことならおれはもうやっているよ」
この話をそのまま受け入れることはできない。寝てるだけで生きていける社会には生きていないからだ。けれど、どこかすごく説得力がある。これだけ仕事を頑張ってどうするんだろう?名誉?出世?地位の向上?給料のUP?贅沢な暮らし?・・・・行き着くところはどこなんだろう?? う〜ん、どう考えたらいいのか。。。
引用元:「非まじめ」のすすめ 森政弘 講談社文庫pp.14-15(この話の元となっている本は、『東洋文化と日本』、三枝充恵・今井淳編、ペリカン社)
2006年06月20日
■18歳1カ月の青年の死刑は?!■
今日、「光市母子殺害事件」の一つの結論が最高裁によって出された。
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本村洋さんについてはこちら
問題となっているのは、当時18歳1カ月の少年の処遇についてだ。無期懲役か、死刑か、という二者一択。検察側と弁護側では、思想的対立に至るまでに、意見が異なっている。事件の事件性から離れ、「死刑」をどう考えるのか、という本質的な議論に発展した。弁護側は、元少年の教育可能性と死刑不容認を保守している。検察側は、事件の事件性を重んじ、終始「死刑」を主張している。
主に着眼点は三つ。
@計画性の有無(計画して犯罪を犯していたらより残虐)
A18歳1カ月という年齢(少年法との関連)
B更生の可能性/教育の可能性(反省しているかどうか)
@は、僕らにはよく分からない。Aに関しては、少年法適用外というのが素直な見方でしょう?!(だけど、永山事件と比べると悩ましい問題になってしまう・・・) BもAと関連して、18歳以上だから、少年法の第三節、第五十一条に接触しないでしょ。とすると、常識的には、死刑が妥当、ということになる。が、元少年の死刑に対する反対の声もすごく大きい。第一に、少年に対する死刑への抵抗。第二に、死刑そのものの制度に対する異議(今回の事件で「無期懲役」を要求している人のほとんどが、この事件の内容ではなく、死刑制度そのものの廃止を主眼においているように思われる)。
*少年法 第三節 処分
本村さんは、1976年3月生まれということで、keiと同い年(僕はもう31歳だけど!)。彼に対してはものすごい数の批判(例えば浅野賢一)がなされた。彼の安易な発言(?!)に対する抗議もたくさんあった。「出る杭は打たれる」日本ならではの現象だ。でも、本村さんはすごいと思う。「被害者」の側の声を全国に届けた。もしボクが彼だったらここまでやれたかどうかと問われれば、きっと無理だと思う。
母子を冷淡な方法で殺害した元青年。とはいえ、4人殺した永山事件ほどではない。しかし、永山則夫が生きた時代とは違うし、母子という弱き存在を残酷な仕方で殺害したという事実は非常に重い。
皆さんは、この事件どう思われますか? 死刑が妥当なのでしょうか?それとも、無期懲役が妥当なのでしょうか??
ちなみに死刑実地国、死刑廃止国については⇒続きを読む
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本村洋さんについてはこちら
山口県光市で99年に母子を殺害したとして、殺人罪などに問われた当時18歳の元少年(25)の上告審で、最高裁第3小法廷(浜田邦夫裁判長・上田豊三裁判官代読)は20日、死刑を求めた検察側の上告を認め、広島高裁の無期懲役判決を破棄し、審理を高裁に差し戻した。
問題となっているのは、当時18歳1カ月の少年の処遇についてだ。無期懲役か、死刑か、という二者一択。検察側と弁護側では、思想的対立に至るまでに、意見が異なっている。事件の事件性から離れ、「死刑」をどう考えるのか、という本質的な議論に発展した。弁護側は、元少年の教育可能性と死刑不容認を保守している。検察側は、事件の事件性を重んじ、終始「死刑」を主張している。
主に着眼点は三つ。
@計画性の有無(計画して犯罪を犯していたらより残虐)
A18歳1カ月という年齢(少年法との関連)
B更生の可能性/教育の可能性(反省しているかどうか)
@は、僕らにはよく分からない。Aに関しては、少年法適用外というのが素直な見方でしょう?!(だけど、永山事件と比べると悩ましい問題になってしまう・・・) BもAと関連して、18歳以上だから、少年法の第三節、第五十一条に接触しないでしょ。とすると、常識的には、死刑が妥当、ということになる。が、元少年の死刑に対する反対の声もすごく大きい。第一に、少年に対する死刑への抵抗。第二に、死刑そのものの制度に対する異議(今回の事件で「無期懲役」を要求している人のほとんどが、この事件の内容ではなく、死刑制度そのものの廃止を主眼においているように思われる)。
*少年法 第三節 処分
(死刑と無期刑の緩和)
第五十一条 罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。
2 罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては、無期刑をもつて処断すべきときであつても、有期の懲役又は禁錮を科することができる。この場合において、その刑は、十年以上十五年以下において言い渡す。
本村さんは、1976年3月生まれということで、keiと同い年(僕はもう31歳だけど!)。彼に対してはものすごい数の批判(例えば浅野賢一)がなされた。彼の安易な発言(?!)に対する抗議もたくさんあった。「出る杭は打たれる」日本ならではの現象だ。でも、本村さんはすごいと思う。「被害者」の側の声を全国に届けた。もしボクが彼だったらここまでやれたかどうかと問われれば、きっと無理だと思う。
母子を冷淡な方法で殺害した元青年。とはいえ、4人殺した永山事件ほどではない。しかし、永山則夫が生きた時代とは違うし、母子という弱き存在を残酷な仕方で殺害したという事実は非常に重い。
皆さんは、この事件どう思われますか? 死刑が妥当なのでしょうか?それとも、無期懲役が妥当なのでしょうか??
ちなみに死刑実地国、死刑廃止国については⇒続きを読む
2006年06月05日
ハワイの人と日本の人とヨーロッパの人
二日間だけだったけれど、初めてのホームステイが終わった。
今年の2月に、僕は生まれて初めて、ハワイに行った。そして、ハワイの人々の暮らしを目のあたりにすることができた。
これまで、僕はヨーロッパの人々、あるいは、ヨーロッパにいるアフリカ、中東、アメリカ人、アジア人と接してきた。少なからず、10年以上ヨーロッパ的な発想をもつ人々と交流してきた。が、トロピカルな人々と接することはこれまでなかった。
今回のホームステイで、「新たな文化」と出会うことができたと思っている。【ハワイの人】という異文化だ。
ヨーロッパの人々と比べると、ハワイの人は、すごく気を使う人たちだと感じた。相手の様子を伺い、へたに言葉にしない。まさに「気」を使うのだ。言葉ではなく・・・。自分の意思を押し通すことはなく、相手の気持ちをとても尊重する。たとえば、「日本のお菓子と洋菓子、どっちを食べる?」とこちらが尋ねても、「あなたが食べたい方でいいわ」、と答えるのだ。ヨーロッパ人だと、「こっち」と自分の食べたい方をすぐに主張するのに対して、ハワイの人々は、日本の人々と同様に、相手に決定に自分をゆだねてしまう。そういう意味では、すごく日本的なのだ。
だが、その一方で、ハワイの人には、言語の壁が強烈に存在する。彼らは、アメリカ人だ。彼らの母国語は「英語」だ。彼らがどれほどMixed(異人種)であったとしても、彼らの主要言語は英語なのである。がゆえのハンディーも存在した。僕は、これまでドイツの友人を数回家に招いたことがある。ドイツ人の母国語は「ドイツ語」。もちろん日本人でドイツ語が分かる人はそんなに多くはない。彼らもそれは知っている。だから、彼らは、「母国語」ではない「言語」を使わざるを得ない。そう、この「母国語以外の言語」への関心は、日本人と同様、非常に強いのである。だが、ハワイの人々の場合、自分たちの「母国語」が世界共通言語であり、どこにいてもなんとかやっていける、という事情下にある。がゆえに、語学を学ぶ、という意味では、ヨーロッパの人々や日本の人々よりも、ハンディーを背負っている、と思った。
ハワイの人々は、実に平和的で穏やかでシャイで他者によく配慮する。だが、その一方で、語学上達のハンディーをも背負っている。そんな一面が今回のホームステイでよく分かった。
*それにしても、ホームステイはいろいろ得るものが多くあった!またやってみたい!!
2006年05月14日
やっぱりニッポンがイチバンです!!
僕は、ドイツが大好き。いつも、ドイツに行きたくて仕方ない。一日の中でドイツのことを考えない日はないくらいに、ドイツを愛している。
じゃあ、ドイツに行ってしまえばいいじゃん・・・、と思うこともある。けれど、ドイツで一生暮らしたいか?!と言われると、返答に困ってしまう。ドイツには行きたいけれど、ドイツで暮らしたいとはあまり思わない自分がいる。どうしてか?
僕は、日本、ニッポンが大好きなんだ、ということに改めて気付く。
日本の大好きなところ、、、
@温泉が豊富。水が豊富。自然が豊富。
日本には、世界を誇る温泉が数え切れないくらいにある。古びた温泉街の風情は僕にはたまらない。そして、水。日本ほど、水が豊かな国はあるだろうか? 山も豊富。自然も豊富。日本の田舎は本当にたくさんの魅力がある。
A日本の料理、そしてラーメン。
日本には、実にたくさんの「郷土料理」がある。欧米の「濃い味」ではなく、「淡い味」がある。「うま味」を大切にする国だ。お米も素晴らしい。海に囲まれた日本では、実に沢山の食材が採れる。もちろん「輸入」に依存している現実は知っている。けれど、日本にもたくさんの食材がある。タケノコなんて、実に素晴らしい! ラーメンの豊富さだって、やはり世界を誇る。ラーメンはやはり日本がイチバン。
Bなんだかんだ言っても「やさしい日本人」。
日本人は、ホントにやさしいと思う。親切だと思う。一握りの不親切な日本人がいるだけで、こんなにやさしい民族はいるのだろうか?と思う。たびたび日本人の「主体性の無さ」が問題視されるが、決してネガティブな要素しかないわけではない。「気遣い」だって一流だ。「気持ちを汲む」とか、「気持ちを察する」とか、そういう努力を惜しまないのもこの国の人間の特徴だ。
C敬語、謙譲語、丁寧語。
年上の人を敬い、年下の人に慕われるように。日本語はやはり素晴らしい言語だと思う。相手に応じて、言葉を変えていく。しかも、驚くほど細分化されている。youという言葉だって、「あなた」、「お前」、「君」、「あんた」、「貴様」、「てめえ」などなど、他の言語には見られないほどたくさんの言い回しがある。さらに「ニックネーム」も豊かだ。相手を持ち上げたり、自分を貶めたり、色々な状況にそのつど応じることの出来る言葉を僕らは持っている。
Dどこまでもオタクな日本人。
日本人は、ホントに凝りやすい。熱中しやすい。「職人」に憧れてしまう。一つのことに没頭するのがいいことだ、と考える。日本人は、根本的に、真面目なんだと思う。真面目が故に、誠実に、最後までやり抜こうと考える。
日本、日本人は、やっぱり素晴らしい。生れたのも国だが、死ぬのもこの国でありたい、と思う。
日本も、他の国同様、色んな問題点を抱えている。日本を嫌う日本人もたくさんいる。けれど、日本を離れて、異国で暮らすことは本当にたいへんなことだ。僕は、外国になにかと縁があって、いろんな国に触れてきたが、やっぱり最後は、日本がイチバンだ!と思ってしまう。
ニッポン、やっぱりニッポンがイチバンなんしょうね!!
Auf Wiedersehen!!
DEAR NEXT!!
DEAR NEXT!!









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