なぜ人間は、『一体感』を欲するのか。日本の伝統の『祭り』に始まり、熱狂的なライブ、プロ野球やプロサッカーの観戦、ディスコ、クラブ、パーティーなどなど。人間は、貪欲なまでに、「自分」を一体感へと埋没させたがる。これはいったい何なのか?
この問いを解くための手がかりを、お祭りから手に入れた。それは、「お祭りは、人々の魂に力を吹き込む」という事実だ。お祭りだけじゃなく、一体感の生じている場においては、常に、「人々の魂に力を吹き込む」ということが起こっているのではないか。そう感じたのである。
逆に、僕らの側からすれば、自分の自我を放棄することで、自分の魂に力が吹き込まれる。力、生命力、生きる力、耐える力、そういう力の恩恵を蒙るのではないか。決して、自分の中にあるネガティブなものの解消(カタルシス)のためではなく、対象に入れ込むことによって逆説的に生じる力を感受するために、一体感はあるのではないか。そう思えてきたのだ。
とすると、すごく奇妙なことが起こっているということになる。自分自身の自我を一体感の場に没入させ、自己を目立たなくさせることで、紛れもない自分自身の生に力が与えられるのだから。元気のない人間には、「元気になりなよ」と声をかけてもあまり意味はない。元気のない人間は、何か対象に魂を吹き込めばよい。そうしたら、その対象が自分の魂に力を吹き込んでくれるはずだから。
けれど、ここで難問にぶち当たる。魂を吹き込みたい対象、力を注ぎたい対象が見つからない人間の場合だ。「好きなものがない」、「やりたいと思うことがない」、「何を見ても感動しない」、つまり、対象に心が動かないと主張する人の場合だ。香山風に言えば、『貧乏クジ世代』に多いタイプかもしれない。
だが、こういう主張をする人のことは度外視したい。そういう人にも、いつか、そういう対象が見つかるかもしれない。むしろ、『一体感』を体感しやすい人へと意識を向けてみたい。(今年の研究のテーマでは)一体感を生きている人間を問題としたい。バンド少女、コスプレファン、プロ野球・サッカーの熱狂的ファンなどなど。ニート・引きこもりとはあきらかに対照的な存在。そして、日本の伝統。和の精神。『一体感』研究は始まったばかりだな・・・
とりあえず、仮説。
「何か対象に魂を吹き込むことで、その人自身の魂に力が吹き込まれる」
という循環関係。これが、一体感の生じる場に起こっていることではないか。
「能動的受動」
人間と環境との相互存在性を考える上で、面白い洞察ができそうだ。。。












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